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江國香織と文体について:蜜江田初朗

はじめに

 「好きな作家は誰?」と聞かれたら、江國香織と村上春樹と吉本ばななと、必ずこの三者を答えるようにしている。それは習慣でもある。でも例えば今は「川上未映子」を付け足したい欲だってある。けど習慣はそれを超える。おそらく「好きな~は何?」という質問は、「好きを続けられる~は何?」という事を意味しているし、さらには移ろいやすい性格の人に対しても「そこまで続けられるのは何故?」という問いに差し変わっていくだろう。

 では僕にとって江國香織と村上春樹と吉本ばななを同一の地平に置くことは何を意味するのか? それを考えても一向によくわからない。今のところ三者に大きな共通性があるとも思えない。とりあえず江國香織、村上春樹、吉本ばななと馬鹿正直に順番にでも並べてそれぞれの作家について小さな考えを積み重ねていくことによってしかその解答は得られそうもない。

 (本稿では、江國香織の全体像を俯瞰するだけで枚数もいっぱいになってしまった。当初では、村上春樹氏については最新作『多崎つくると、彼の巡礼の年』の簡単な読解を、それから吉本ばなな氏については彼女が提示する都市と自然の問題を論じた小論考を展開するつもりであった。これらについては、また機会のあるときに取り組みたい。)

 

■江國香織と感性

 江國香織は何と言っても文体の(を見るべき)作家であると思う。僕は彼女の文章に魅せられて、もしも小説の文章構成をざっくりと、A.文章の形式(文体)とB.内容(言葉たちが指し示すもの)とに分けることができるのなら、Aのみで自律した、充実した文学(それはある意味において逆説的にも一つの内容を形成している、と言えるだろう)というものが存在するのではないか、と考えるきっかけを与えられた。文章の構成自身があまりに甘美すぎるためそれ自身が指し示す内容をいわば超え出てしまっている、という感じだ。

 今、手元にある彼女の代表作から適当にいくつか引いてみる。

 

 エスコバル、という名の小さな町の日本人居留区で、佐和子は生まれ育った。あの町の空の青さと、はためくシーツのひんやりした匂い――妹と二人で、よく顔をくっつけたものだ。濡れた、大きな、つめたい布に――を、佐和子は懐かしく思い出す。月曜日には、だからよく遅刻をした。(『金平糖の降るところ』(単行本)、三ページ。)

 

 一体どうして、倉敷の玉子はこんなに美味しいのだろう。皿に残った黄色い液体―やわらかなスクランブルエッグを食べ終わったあとの、バターの香りの強い玉子液―をパンの切れ端ですくいとり、静枝はガラス越しの日ざしに目を細めた。目の前の何もかもが心愉しい。うすピンク色のテーブルクロスも、各テーブルに一輪ずつのカーネーションも、銀色の砂糖壺におしこまれた合成甘味料の小袋さえも、運命的必然によってここにあるのだという気がした。(『ホリー・ガーデン』文庫版、九十ページ。)

 

 ママはシシリアンキスというカクテルを飲んでいた。カクテルをつくるのはパパの役目で、パパのつくるシシリアンキスは「倒れそうに甘くて病みつきになる味」だったそうだ。グラスの液体はとろりとした琥珀色で、「午後の戸外の飲み物として、あんなに幸福なものはない」らしい。氷が日差しをうけてみずみずときらめくのだそうだ。(『神様のボート』文庫版、九ページ。)

 

 江國は感覚に訴える形容をよく使う。ばかばかしいほど、ひんやりした、きらきらする……。

 

 あまりに甘美ですらある言葉たち。江國の記述するその形容はしかし、とてもなじみやすい言葉でもあり、私たち一般の読者にも十分に開かれている。彼女は以前どこかで「よく感じて生きること」の大切さを語っていた。感性の――こういってよければ――積極的な使用は、彼女の小説において多々、生の深みへとつながる。

 

(続きはPDFをダウンロードしてご覧ください。)

江國香織と文体について:蜜江田初郎.pdf
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