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あたしの世界:常磐誠

 見てみろ。和真。

 あたしの耳に入る熊みたいなあいつの言葉。その、和真の体をつまみ上げてしまうくらいの太い指が向いた先の建物は、まるで幼稚園か何か、子ども向けの建物のようだと、全てが終わった後、お父さんが私に抱えられるサイズになってしまった後に思った。

 真っ黒なスーツを着て、時々きつそうにネクタイをゆるめてため息をつく熊の動きは、あたしも気になっていた。

「それ、外せばいいのに」

 と、あたしが言ってから、

「……あ、それもそっか。ハハ。ありがとな。美鈴」

 と笑う。お父さんの友人で、あたしと和真の担任だからって馴れ馴れしい感じの熊を、なぜだか蹴り飛ばしたくなる瞬間だったけど、あたしも、和真も泣きはらしてしまっていてそれどころじゃなかった。

 今思い返すと、やっぱ蹴れば良かったなって、思う。

「ちゃん! ……てる?」

 ぽー、としていて、あたしはこの声が本当に鳴っている声なのかわからない感じになっていた。

「美鈴ちゃん! ってば!」

 左肩を叩かれながら呼ばれて、あたしはおうっ! となる。あぁ、ずっと本当に鳴ってた音だった。あたしの横でずっと亜美ちゃんがあたしの名前を呼んでくれていたんだ。

「あ。ごめん!」

 謝るあたしに亜美ちゃんは、

「いやいや、良いんだよー。けど、どうしちゃったの?」

 と聞いて来た。全てを話すには、この話は長いし、重た過ぎて。だからあたしは、

「ううん。ちょっとぽー、ってなってただけ。大丈夫」

 そう返しただけだった。亜美ちゃんは、

「そっかー。けど、気をつけてよね。何だか美鈴ちゃん、どこかに飛んで行きそうだったよ? あーいきゃーんふらーい、みたいな感じで」

 それどんな感じなんだろう。

「それはそうと」

 亜美ちゃんはあたしにそう言うと周りを見渡す。あたしもそれに合わせて周りを見渡せば、クラスのみんなは受験だ、最後の部活だと大忙しになっていて。

 その慌しい雰囲気は、クラスだけでなくて、この学校の二階、三年の教室がある全ての空間を包んでいるように感じた。あたしにとってもそれは例外じゃなくて。最後の夏季中体連の試合は、あと二ヵ月後に控えている。

 今日は三年二組になって初めての日。だから席替えとかもしてない。席は出席番号順に座っているだけ。クラスの係なんかも決めてない。担任がまたもあの熊みたいなあいつだったのが微妙な気分だけど、それでも大きく変わらない、仲良しの子と一緒に居られる今の雰囲気は、なんとなく気に入っている。

 あの時あたしは無力な自分を呪っていたんだ。あの日。その後。熊男や和真はあたしの居場所作りのために奔走してくれた。部活で居場所を作ってくれて、亜美ちゃんをはじめとした仲間ができた。

 いじめも、まだやっぱり少し波風が立つときがあるけれど、あたしは和真や亜美ちゃん、ちょっと嫌な気持ちもあるけれど熊を頼ったり、熊の場合は利用したりしながら受け流して行くことを覚えられた。

 結局あたしは自分のことを、あたし自身のことをダメじゃないって、思えるようになった。ところが、最近急にこれとは違う問題が起こっている。

 あたしにそう思わせてくれた和真のことを見ているだけでも、心が落ち着かなくなってしまった。いや、落ち着かないなんてもんじゃない。バックバクだ。ドキドキはとっくの昔に通り越して、バックバク。ヘンな顔してないかな。今日のあたしはあいつにどんな風に映っているのかな。あいつは、あたしのこと、……どう思っているのかな。そんな気持ちになると、何だかわからないのに勝手に泣きたくなったり、笑い出したくなったり、不安になったり、……とにかく変。変の一言なんだ。

 そんな訳で、今もあたしはあいつの方向だけは向けないでいる。もう流石に一緒に引っ付いて学校に行ったりなんかしてなくて、でも幼なじみとして妙に距離だけは近くて。そして今年もクラスが一緒になってしまった。運良く出席番号は大河美鈴(おおが みすず)瀧中和真(よしなか かずま)という名前のお陰ですんごく離れているから、あたしとあいつの距離は微妙に遠いままで、あたしは何とか普段通りのままでいられる。

 さぁ、今日も全ての日程が終わった。後は部活だ。早く来い。熊め。早く来い。楽しみな時間を前に、あたしの心はソワソワ、ザワザワとして落ち着かなくなった。

「さてさてー! 遅くなってごめんねぇ」

 ついに熊がやってきた。小走りして来たのか、妙に息が荒くて、額には脂汗が浮かんでいるのがあたしの目からはっきりと見える。ふぅ、と熊が息を深く吐いて帰りの会が始まった。

 連絡事項は特に無いなぁ。帰りの会が進行していき、残すは熊の、担任の話を残すだけとなった。今のは熊がその時一番に口走った言葉。だから、
 ――ガサガサ! ザワザワ! ガタンッ!
 帰りを急ぐ人たち、例えば部活に早く行きたい人――例えば、あたし――とか、予定がある人とか、とりあえず早く帰りたい人とか、とにかくほぼ全員が最後の挨拶のためにイスを乱暴に引いた音が教室中に響いた。
「待てぃ! 連絡事項はないけども話はあるんだ」
 熊が慌てて大声で叫ぶ。エェー! というみんなからの文句と苦情の声。あいつはただ黙ったまま溜め息を一つした後に、部活の時に使うノートを広げていた。ふと、その時に目が合ってしまって、どうかしたの? っていう顔をして少しだけ首をかしげたのが見えて、あたしは慌てて目線を前の熊男に戻した。
 あぁ、何であいつは昔からそうなんだろう。昔からあんまりしゃべらないで、その代わりにちょこん、と首を動かして、少しだけ大きなその目で見つめながら、あたしに接する。そんな風にされても、昔は何ともなかったはずなのに。あぁもう! 何でこんなにあいつのことを意識してしまうんだろう。あいつはただの幼なじみなんだって、昔は信じて疑わなかったのに。何で? どうして? そんな気持ちに答えが今まで出なかったことをあたしは分かっていて、それでも悩むことをやめられない。そんな風だから、また熊男の言葉の出だしの大半を聞いていなかった。あいつはさっきまでのノートとは別のノートにメモを取っているようだった。けど、きっと聞いたら怒られたり、溜め息をつかれたりするんだろうなぁ。実はあいつのそういうところ、昔から苦手だったりもするのに、でもやっぱりあたしはあいつを見つめ続けることができないでいる。嫌いにはなれないでいるんだなって思う。
「はいはい。文句言わないの。……で、それをするためには、やっぱり自分を知らなきゃダメだよね。そこで、注目! 自分の世界探し!」
 わけわかんねー! っていう男子の文句がうるさく聞こえる。つーか何だ。自分の世界って。たまに熊男の言うことは訳が分からん。
「訳わかんなくない! つーかメッチャ分かり易い! 分かり易い事この上ないね!」
 詳しく説明するからまぁ落ち着きたまえ。熊男の言葉にひとまずクラスは多少の落ち着きを見せた。
「今から皆が経験するのは、ほぼ全員高校受験だ。そこで、受験を見据えて皆は自分の将来像を描く必要がある。まぁつまりは将来の夢、だね。……でも、未来だけ見て決めようと思ってもそう簡単には決まらない。何てったって皆はまだ十四歳。たかだか二十歳まででもあと五、六年もあるんだから、そんな漠然とした未来は分かるはずが無い」
 そこまで言って熊男がクラスの雰囲気を探るように見ると、皆その通りだと思ったのか、黙りこくっていた。……あたしもその通りだった。
「じゃあハッキリ見えるモノを頼ってみよう。つまり、現在の自分を形作っている過去とか、今のこととか。もう少し具体的に言おうかな。皆は、一体何が好き? 誰が好き? ひょっとしたら、初恋とかも経験しているのかもしれない」
 その言葉にあたしは息が詰まりそうになった。まるで、こんなにも無神経そうな熊にあたしの心を読まれてしまったんじゃないかって、そう思ったから。

 熊の言葉はまだまだ続く。

「高校に行きたい。良いね。でも何のために行くの? 就職の為には高校行っとかなきゃ。そうだね。でもどんな就職がしたいの? 大学行かなきゃ。そのためには高校行かなきゃじゃん。その通りさ。でも何のために大学に行くの? ……もはや義務教育と化した感じさえする高校だけど、でも考え方によって、その進路に適した高校は変わってくる。今はまだわからなくても良い。でも、自分がこれから何をするのか。したいのか。皆には懸命に考えて欲しいんだ。だから、もう一度聞くよ? 皆は、どんな世界で生きてきた? そして、これからどんな世界で生きていきたい? きっと、自分が好きになったモノや人は、君たちにとっての、世界の始まり、なんだよ」

 一通り熊は話し終えた後、それじゃ、学活ノートに書いておいてねー。とだけ言って、二年の時のクラス委員だった和真に号令をかけるように指示をした。

 

 放課後に、あたしと和真を初めとした部活のメンバーは和真の学活ノートを頼りにさっきの熊男の話をまとめだした。

「結局百合神は何て?」

「とりあえず、進路公開、に向けて自分の興味や関心のあることとか、好きなことを学活ノートにまとめておけ、ってことでしょ」

「さすが和真君。あれだけの言葉でよくそんなにわかるよねぇ」

「別に。もう慣れたんだよ。先生の言い方にも」

「……進路公開って、何だ?」

「右に同じ」

「左に同じ」

 ……ふぅ。と、控えめではあるけれども和真が溜め息をついた。

「ま、簡単に言うと、私はどこそこの高校に行きたいでーす。理由は何々でーす。がんばりまーす。みたいなことを言えば良いんだよ」

「おぉー」

「それは簡単ですねー」

「うん。よく分かった」

 とりあえず和真も亜美みたく簡単に説明すれば良いのに。そう思ってあたしは軽く和真の頭を小突いた。軽く、だったのに和真は怒ったような、ムッ、とした顔をして、

「美鈴、そうやってすぐに暴力に訴える癖はどうにかした方がいいんじゃないの?」

 と言ってきた。一々うるさい! とあたしもついつい怒ってしまう。ホントはそんなことがしたいわけでも、言いたいわけでもないのに、せっかく部活のメンバーと一緒の時はヘンな気持ちにあんまりならずに和真と話せるのに、どうしてあたしってこんなんなんだろう。つくづく嫌になってしまう。

 もしかしたら、初恋を経験しているかも知れない。

 百合神のさっきの言葉に、あたしはまたどきっとした。急にいつもの、ヘンな気持ちがムクムクっと、誰にも見えないはずの心の奥から、誰にも見えてしまう手前側にやってきてしまったような、そんな気持ちがした。もしかしたら、あたしの気持ちって、それなのかも知れない。そう思うと、何だか怖かった。

「あれ? そういえば和真君、百合神先生から今日呼び出し受けてなかった?」

 亜美の言葉に、あ、そうだった! じゃあまた部活で! そう言って、和真は教室を走り出て行ってしまった。

「……さて、美鈴ちゃん。顔が赤いですよ?」

「和真はとっとと追い出してやったし、サクッと話して楽になっちまいな?」

「といっても、あのニブチン君以外は結構わかっているっぽいけどねぇ」

「あら。ワイルドな女の子を地で行っていらっしゃるお二人もそれは分かっていたの?」

「なめんな」

「女のカン、って奴です」

「い、……いや!」

 またいつもみたいにこの三人にはあっさりと丸め込まれて、そしてその流れに流されてしまうあたし。でも、和真にバレる前に何とかしてくれた訳だし、感謝しなきゃなぁ……とも、思う。

 

 あたし達は部活に行きながら話をすることにした。昔のこと。和真とあたしが幼稚園に通い始めた頃のこと。昔から人見知りでみんなの中に入れなくて、一人ぽつんと立ってるだけのあたしに、ずっと話しかけてくれたこと。ずっと手をつないでいてくれたこと。

 小学校でも、中学に上がってから今までの生活の中でも、百合神熊野郎や亜美ちゃんたちの手助けももちろんだけど、一番あたしのことを支えてくれていた和真のこと。

 ケンカだってしたことがあるし、もうダメなんじゃないかって、そう思えるくらいに辛いことがあったけれど、今もこうしてあたしを支えてくれる和真のこと。

 

 赤ちゃんの頃からずっと一緒だったあたし達だけど、一体いつまであたしたちはきょうだい、だったかな。今みたいに、ヘンなことになる前は、どんなだったっけ? それと、きょうだいでもなくて、ヘンな感じでもなかったころって、一体いつごろからなんだ?

 あたしは、そう考え始めると、もうそれだけで夢中。歩くこともままならないくらいで、友達に両腕を引っ張られないとあたしはまっすぐ歩けなくなるくらいだ。……やっぱり今のあたしは変だ。部活が始まる前に、どうにかしなくっちゃ。

 

 和真となら、話もできた。あたしと大して変わらない大きさの手を取って走り回ることも、いっぱいできた。だけど、元々人見知りしてばかりで、誰とでも仲良くなれるような人間じゃなかったあたしは、幼稚園に行っても、和真以外の子とは満足に会話もできなかった。先生とだって、最初の頃は話をすることもできず、伝えたいこと――例えばトイレに行かなきゃ漏れそうだ、とか――の少しも伝えられない、そんな子だった。

 そんな時、いつもそばに居てくれて、助けてくれていたのが和真だった。

「もう、みすずちゃんはぼくがいないとなんにもできないんだから。まるであかちゃんみたい」

 そんなことを言いながら、あたしの言いたいことを代わりに先生に言ってくれたり、行きたい場所まで連れて行ってくれたり、遊びの輪に入れてくれたり、いろんなことを和真はしてくれた。

 なのに当時のあたしは和真よりもしっかりしているつもりでいて、和真よりもお姉さん、みたいな感じでいようとしていたから、あかちゃんみたい、なんていう言葉に納得いく訳もなくて、そして更にあたしは――和真には悪いなぁと少しは思っているんだけど――口よりも先に手が、そして手よりも先に足が出てしまう子だった、いや、今も現在進行形で足が最初に出て行くから、そんなことを言った和真はあたしから思いっきり蹴り飛ばされて大泣きする羽目になっていた。幼稚園の生活の記録には、先生からかずまくんをけってなかすのはやめましょう、はずかしがらずにおはなししよう、そして、ことみちゃんとけんかしないようにしよう、の三つの言葉が毎回書かれていた。

 当時のあたしはきっと和真を傷つけようが、泣かそうが、関係なかったんだろうなぁ、と思う。もし、今のあたしに今の和真を泣かせるだけの圧倒的な力があったとしても、今のあたしはきっと和真を泣かさない。それは成長して人を傷つけない、なんていう道徳がどうのってことじゃなくて、あの時言われた言葉をそのまま繰り返されるだけで今のあたしはきっと崩れてしまうと思うから。……というより、壊れてしまうから。

「みすずちゃんなんか、だいっきらいだ! いっーだ!」

 泣きべそをかいた和真が決まっておばちゃんや幼稚園の先生に泣きつきながらあたしに叫んだ言葉。ちなみに、さっきのあの時の言葉ってのは、このことじゃない。こんなこと、もう和真はさすがに言わない。

 毎回毎回和真はあたしに蹴り飛ばされて泣かされる度に和真はだいっきらい、という言葉をあたしに叫んでくる。当時のあたしは、

「しるかボケ! かずまのことなんかしらないもんね! ずっとおばちゃん(またはせんせい)にだっこされてればいいんだ! あまえんぼあまえんぼ! べー!」

 こう叫び返して、ムキになる和真を見て半ば楽しんでいた気がする。嫌われるっていう感じがわからなかった小さなあたし。子どもだったんだって、一言で片付けられるような思い出なのかもしれないけれど、幼稚園児だったあたしと和真の日々は、今思い返せば案外重要なことなのかな? そんなことを今あたしは考えている。

 

「さぁて! 明日はこの教室の誰かがお誕生日をむかえまーす! それは誰かな? 誰かな?」

 幼稚園の先生が楽しそうな顔をしてみんなに聞いている。ちなみに明日、十一月十一日が誕生日なのはあたしだ。だからあたしは心底楽しそうな顔をしていた。

「十一月十一日がお誕生日の人は、手をあげて〜!」

 その声に合わせて思い切り手を上に、大きく元気良く上げるあたし。自分の都合の良い時だけはとっても元気が良いあたしが、今は嫌いだけれど、当時のあたしは何ともなかった。むしろ今よりわがままな性格をしていた分、むしろそれが当然! という感覚だったかもしれない。和真もそうだけど、先生も大変だっただろうなぁ、と思う。

「はーい! 明日、十一月十一日にお誕生日なのは~、おおがみすずちゃんでーす! おめでとー!」

 先生の拍手と一緒にみんなも、和真も拍手をしてくれる。明日、つまりあたしの誕生日当日は土曜日で幼稚園がお休みなのだけれども、それでもみんながあたしのお誕生日を祝ってくれている。その雰囲気がとても気持ちよくて、あたしはその瞬間、本当に有頂天だった。有頂天過ぎて、だからこそ調子にも乗りすぎてた。今のあたしがあの日のあたしに会えるのなら、この日のあたしを叱ってやりたいと心底思う。それくらいあの日のあたしは酷いことをしたんだ。

 

 砂場で、琴美が遊んでいて、あたしと和真はそこに入れさせてもらおうとした。普段なら、和真がお願いをして入れさせてもらう。だけど、相手が琴美だったのが悪かった、と当時のあたしなら言い訳するだろうけれど、あたしと琴美は昨日ケンカしたばかりだった。殴り合い、蹴り合い、掴み合う大ゲンカ。しかもあたしが泣かされた。もう既に帰りの時間を過ぎていたこともあって、先生にも見つかってないし、当然謝ってもらってもいない。……ちなみにそのケンカを吹っかけたのはあたしだったりするんだけど。

 でも、その時のあたしにはそれが胸の中で引っかかり続けていたものだから、和真が琴美に「入れて」とお願いをする、というのがどうしても耐えられなかった。それどころか、不意打ちをして琴美を思い切り蹴り飛ばして砂のお山の中に顔を埋めさせた。それだけで泣くかな、と当時のあたしは思ったのだけれども、琴美は泣くことなくあたしに立ち向かってきて、そしてまたケンカになった。当然殴り合いの。和真は、この時にはもう自分からケンカを止めようとはせず、先生にすぐに言いに行くようになっていたから、すぐに居なくなっていた。

 

 結局ケンカはあたしが琴美を泣かせて終わった。でも、問題なのはその泣かせ方だった。

「ことみちゃん。みすずちゃんになにをされたのがいやだったのかな?」

 和真がすぐに先生を連れてきたけれど、その時にはあたしはもう攻撃をやめていた。琴美が泣くだけであたしは満足だった。全ての原因は昨日あたしを泣かせたことだ! とでも言わんばかりのあたしの態度。当たり前だけど謝らない。頑としてそっぽを向き続ける。和真も先生もそんなあたしの態度を注意するのだけど、聞く耳は持たない。その内、琴美が落ち着いてきて、何が嫌だったのか、それを先生に話した。

「あのね、みすずちゃんね、あたしをけったときにね、あたしのリボンね、あのね、おすなのなかにはいっちゃったの。……みつからないの」

 どうやら、殴られたり蹴られたりの痛みよりも、普段からよく着けていたリボンを失ったことの方が泣いたことの理由だったみたいだ、とあたしや和真、先生が理解して、それでもあたしが頑固に謝らず先生の話を聞かず、という態度を取り続けることに、先生よりも先に和真が怒り出した。

 

「みすずちゃん! ことみちゃんにあやまれ!」

 

 あたしに命令かよ生意気な! そう思い、あたしが取った行動は正直和真にとっては災難でしかなかったと思う。

「かずまのくせになまいきだ!」 という言葉と同時にハイキック。

 こらっ! という先生の怒鳴り声もあたしを止める音にはならず、和真は大泣きしながらいつもの言葉を叫んだ。……そしてあたしもいつもの言葉を叫び返した。

 リボンくらい何だっていうのか。あたしはそんな態度でずけずけと琴美の前に立ち、

「リボンくらいまたかってもらえばいい! たかだかリボンくらいで泣くなんてめめしい!」

 とあたしは言ってしまった。本当になんてことを言ったのだろう。あたしは。……琴美はその言葉を聞くとまた泣き出した。今度はとっても大きな声だった。

 

「だって、ぐすっ。だって、うぐっ! あのリボン、あおのリボン、あたしのまえのおたんじょうびのときにパパとママからかってもらったものなんだもん!」

 

 それだけ、嗚咽を堪えて頑張って言うと、また大泣き。先生も、和真をあやしながら、琴美に対しても、

「うん。ありがとう。よく頑張って言ってくれたね。パパとママからもらった青のリボン今から先生も一緒に探すからね!」

 と優しく声をかけている。当然のことながら、あたし一人、みんなの敵になってしまったみたい。その雰囲気に耐えられなくなって、あたしは、

「あ、コラッ! みすずちゃん、まちなさい!」

 逃げ出していた。

 逃げ出した先は、女子トイレ。何とも安直な逃げ場所。当然すぐに見つかって、そして先生の怒る声が聞こえている。

 でも、流石にあたしもこの時には堪えていた。自分の身に置き換えて考えることができていたらしいあたしは、パパとママにもらった物を失くすことがどれだけ辛いか、想像することができたから。

 あたしの昔からの髪型、ポニーテールを結んでいるところにくっついている小さな鈴を手で触り、音を鳴らす。ちりん、ちりん。その音があたしを慰めてくれることはないし、むしろ当時のあたしにはそれすらもあたしのことを責めているような音に聞こえて、

「…………ッ!」

 すぐに鈴から手を離した。

 

 気付くと、さっきまで怒鳴っていた先生がいなくなったみたいだった。ドアをノックする音も聞こえないし、当然怒った声も聞こえなくなっていて、そしてどうやら人影もなくなってしまったように感じた。

 出て行くことにためらいもあったけれど、なにより、一人っきりにされることに慣れていなかったあたしは、その恐怖に耐えられなくなって、ドアを、ゆっくり、小さく開けた。

 

「良かった。開けてくれたね。待ってたわよ」

 

 あたしのことを待っていたのは、さっきまであたしのことを怒鳴っていた先生とは違う先生で、この幼稚園で一番年上の、おばあちゃんみたいな先生だった。

 おばあちゃんは、あたしと琴美のケンカも見ていなかったから、なんでここにいるんだろう、と当時のあたしには不思議に思えてならなかった。きっと怒ってばっかりの若い先生を見かねて、ここでバトンタッチしてくれたのだろうと今ならわかるけれど。本当のおばあちゃんがいなかったあたしにとって、おばあちゃんは、あたしがよく懐いていた先生だったから。

「どうしてことみちゃんをけっちゃったのかなぁ?」

 おばあちゃんはにこにこした顔であたしに質問をふわりと投げかけてくる。

「みてたのか? おばあちゃんみてたのか!」

 あたしがそう驚くと、

「ええ。みてましたよ。おばあちゃんなんでもおみとおしなんですよ?」

 得意気な顔をしておばあちゃんは穏やかに自慢していた。どうせ他の先生から聞いたくせに。まぁこの時はわからなくて本当に見られていたのだと信じ込んでいたけれど。

「あいつきょうあたしのたんじょうびおめでとうのパチパチのときに、ひとりだけパチパチしてなかった。あたしはあいつのときはきちんとパチパチしてたのに。ムカついた」

 ちなみにパチパチとは拍手のこと。そしてこれは嘘ではない。琴美は確かにパチパチをしていなかった。

「そっかー。パチパチしなかったのかー。でもどうしてパチパチしてくれなかったんだろうねぇー? ことみちゃんパチパチのときにどんなふうだったー?」

 おばあちゃんは、あたしが琴美のことをあいつと言っても怒らなかった。そういうことを注意しても直さないことを理解してくれているおばあちゃんは、あたしにとって本当に安心できる先生だった。

「どんなふう……? んーっとぉ……。うーみゅぅ……。こう、りょうてを、こうやって、こすってた」

 あたしはその時の琴美の手の動きを真似していた。左手の指で右手の平をこする動き。

「そっかー。こうしてたんだねぇ?」

 おばあちゃんもあたしの手の動きを真似した。その後、

「きっと、ことみちゃんはみすずちゃんのためにパチパチしたかったんじゃないかなぁ? おばあちゃんはそうおもうんだけどなぁ」

 優しい顔で、そう言った。

「そんなわけない!」

 あたしは、おばあちゃんの言葉を強く遮るような勢いで否定した。まだあたしの胸には、ひっかかっていることがあったから、いくらおばあちゃんの言葉でも、それを信用できなかった。

「ことみときのうもけんかした」

 あたしが唐突に今までの話題とは違う言葉をしゃべっても、おばあちゃんは優しくそれを聞いてくれた。

「あらぁ。どうしてけんかになっちゃったのかなぁ?」

「かずまがずっとことみにばっかりやさしくする。このまえあたしにはあかちゃんみたいとかいったくせにことみとはいっしょにすなばであそんでいた」

 まくしあげるように話すあたしの言葉をうん、うん、と頷くようにしておばあちゃんは聞いてくれる。

「それでムカついちゃったんだね。だからかずまくんもけっちゃったのかな?」

 あたしだけじゃなく、おばあちゃんが誰かに質問をする時は、首を少しだけ傾げて、ふわり、といつだって優しい。だから、責められているような感じがしなくて、あたしからすれば、とても答えやすかった。

「あたしあかちゃんじゃないもん。ちゃんといいたいこといえるもん。けっちゃったけど、ことみもかずまもなかしちゃったけど、それでも、きちんとできる! それに、かずまね、ことみちゃんにあやまれ!っていった。……うぐっ。やっぱりきのうもかずまはことみといっしょにあそぼうとしてたり、やっぱりかずまはあたしよりもことみといっしょにあそぶほうがすきなんだ!」

 途中で今度はあたしが泣いていた。それを聞いていておばあちゃんはあたしをぎゅ、と抱き締めながら、

「そっかぁ。ヤキモチやいてたんだねぇ。それならみすずちゃんはあしたどうするのがいいか、もうわかるよね?」

 そう言った。

 

 教室に戻っても、琴美はいなかった。どうやらもう帰ってしまったらしい。この幼稚園は基本的にみんな家が近所で、行きは近い子達が集まって集団登園をするんだけど、帰りは結構自由に帰ることができる子が多いこともあって、あまり先生も親も頓着してはいないようだった。あたしは琴美のリボンがどうなったのかを知りたいと思っていたのだけれども、丁度職員室にいた先生が話しているのを聞いてみると、どうやらまだリボンは見つかっていないらしかった。

 だけど、その職員室のすぐそばにある園児の靴箱からよしなか かずまの文字を見つけて、和真の靴がないこと、つまり、既に和真があたしを置いて一人帰ってしまっていることに気付いて、あたしは焦って幼稚園を飛び出していた。どこまでもあたしは自分勝手だ。……昔も、今も。

 

 実際、幼稚園から家までの道は幼稚園児だったあたしでも五、六分くらいでたどり着けるくらいの距離で、道も歩道がしっかりと付いている道ばかりだった上にもう既に慣れてしまっていたから、迷うことなくあたしは家までたどり着くことができた。……だから、この時に琴美のリボンを探していれば良かったんだ。

 あたしが家に着いたちょうどその時だった。和真の家からおばちゃんが飛び出してきた。

「あ、よかったぁ! みすずちゃんひとりできちんとかえってこれたね!」

 そう言って、まずはあたしを抱き締めて、そして言葉を続ける。

「ごめんね。かずまがみすずちゃんをようちえんにおいてきちゃったから、おばちゃんしんぱいで、いまからようちえんにいこうとしてたところだったのよ」

 あたしの方は大丈夫な訳なんだけれども、とりあえず和真の方が今は心配だった。

 

じゃあ、いまからみすずちゃんはどうすればいいか、もうわかるよね?

 

 おばあちゃんの質問に、あたしは頷いていた。とにかく、二人に、琴美と和真に謝らなきゃいけない。どうやら、おばちゃんは今日のことは知らないらしかった。

「あのね、おばちゃん。あたしね。かずまとおはなししたいことがある!」

 決意を込めて、あたしはおばちゃんに叫ぶ。だけど。

「……ごめんね、みすずちゃん。いまね、かずまね、みすずちゃんとはぜったいにおはなししない!っていっててね、おばちゃんがどんなにいってもきかないのよ。あしたはみすずちゃんのおたんじょうびだし、あしたまでにはきちんとみすずちゃんとおはなししようね、ってちゃんとかずまにはいっておくから、みすずちゃんも、あした、あしたにね、またかずまとなかよくおはなししてあげて、ね?」

 おばちゃんはあたしの願いを聞き入れては、くれなかった。よっぽどあの時の和真はあたしに対して怒っていたんだろう。それは、当然のことだと思う。この時のあたしも、自分が悪いんだ、ってことだけは理解していた。だから、駄々をこねることはしなかった記憶があたしにはある。

「じゃあ、おばちゃん」

 そう呼びかけると、ん? とおばちゃんは笑顔で返してくれた。

「かずまに、ごめんなさい、っていわなきゃいけないんだ」

 あたしがそう言うと、おばちゃんは、あたしに一回大きく頷いて見せた後、

「ん。わかった。おばちゃん、かずまにみすずちゃんが、ごめんなさい、っていってたってちゃーんとつたえておくからね!」

 指きりげんまんのポーズを取って、右手の小指をあたしの前に差し出してくれた。

ゆーびきーりげーんまーんうーそつーいたーらはーりせーんぼーんのーーます! ゆーびきった!

 

 やっぱり、この時のあたしは気付いていなかったけれど、和真の家にも、そしてあたしの家にも、琴美の家にも、今日のことは連絡が行っていたという。そりゃそうだ。ごめんなさいを言わなきゃいけないその事情を、一切聞かずに和真に伝言してくれる、というのはやっぱり虫が良すぎる話だから。

 

 でも、結局和真にも、そして琴美にも謝ることができなかったあたしは、いわゆる自己嫌悪、っていう感情に押しつぶされそうで、あまり残りの一日の時間を楽しむことができなかった。

 夜ご飯も、まるで砂を噛む、みたいな味だった。……これはつい最近和真に教えてもらった言葉。やっぱり和真は昔から頭が良い。志望校は、きっとここら辺の中でも一番の進学校なんだろうなぁ。当然、あたしはそんな学力もないし、羨ましいというか、少し恨めしい気がしてきた。

 実際、この話であたしが一番辛い思いをしたのは、この翌日、つまりあたしの誕生日当日なんだけれども、……なんで話が横にそれちゃったんだろう。……変なの。

 

 あたしと和真の誕生日会は、何でかは忘れてしまったんだけれども、お互いの家ですることになっていた。つまり、あたしは和真の家であたしの誕生日会をする、ということ。朝早くから、おばちゃんもおじちゃんも、そしてあたしのお母さんとお父さんも、あたしの誕生日会のために大忙しで準備をしていた。

 あたしは、朝起きて身支度を整えたらすぐに和真の家に向かう。真横だから、迷うことも有り得ない。あたしはスキップまでして、意気揚々――これも和真から……何だ! あたしはバカじゃないぞ!――と和真の家に上がりこんだ。

 

 だけど、あたしが和真の家に入って、真っ先に和真の口から出てきた言葉は、

「みすずちゃん、おたんじょうび、おめでとう!」

 ……じゃなくて、

「みすずちゃんなんかだいッきらい! なんできょうがみすずちゃんのおたんじょうびなのさ! みすずちゃんなんて、うちにこなければいいんだ!」

 だった。あたしは、無論ブチキレ――いわゆる逆ギレ、という奴だ――して、

「なんだ! まだおこってたのか! かずまはおこりんぼだな! きょうはあたしのたんじょうびなんだから、きょうくらいがまんしろ!」

 なんて言ってしまった。そんなだから、和真もついに本気で怒ってしまって、

「……もういい! いまあやまればゆるしてあげようって、そうおもってたのに、もうみすずちゃんなんか、しらない! でてけ! もうみすずちゃんのかおなんて、みたくもない!」

 そう叫んで和真はあたしを強引に家の外にまで押し出して、そして鍵、更にはご丁寧にチェーンまで閉めてしまった。あたしを外に追い出す直前、

「ぼく、みすずちゃんのこと、きょうはほんきのほんきで、きらいになったから」

 そう、叫ぶんじゃなくて、本気であたしに言い聞かせるように呟いたときの和真の目が怖くて、そして、みんながいる家から、一人ぼっちで閉め出されてしまったことで、あたしは本当に急激にパニックになったみたいだった。何がどうなっているのかもわからず、何故か目からは涙が止まらなくて、どうしようもなくなって、でも、まだ強がりな気持ちまでは折れきっていなくて、どうにかこうにか泣きながら歩いて、気がつくと幼稚園に着いていた。どうして幼稚園に着いてしまったのか、今でもわかんないんだけど、まぁとにかくあたしは幼稚園に着いていた。

 当然、十一月十一日は土曜日だから幼稚園は休み。誰も居ない。だけど、あたしはなぜか開いていた門から幼稚園に入ることができた。その幼稚園の中には、もちろん誰もいないわけなんだけれども、とりあえずあたしは砂場の縁に座って、一人でしばらく泣いていた。

 どうにもあたしは一人ぼっちという環境に弱いみたいだ。これに気付いたのは結構最近のことなんだけれども。

 和真は普段あたしのことをだいきらいと言っても、次の日にはまた変わらず笑顔であたしの手を引いて幼稚園まで一緒に歩いてくれていた。その和真が、ほんとうのほんとうにきらいになったと言った。そのきらいが、だいきらいなんかより、ずっとずっと強くて、あたしは本当に怖かった。あぁそうか。これが、嫌われるってことなんだなって、あの日のあたしは理解したんだと思う。本当に怖くて、本当に悲しくて、いつの間にかあたしは大声で泣いていた。

 誰もあたしのことを知らない。誰もあたしを見てくれない。誰もあたしに気付いてくれない。誰も、誰もあたしにすきだって、言ってくれない。

 一人ぼっち、たった一人で、絶望的な気持ちになりながら大泣きしていると、目の前にハンカチが差し出されているのがわかった。それを差し出している手の持ち主は、おばあちゃんだった。

「どうしましたか? みすずちゃん。こんなところで、ひとりっきりで。きょうは、せっかくのおたんじょうびなのに、そんなふうにないていたら、おばあちゃん、かなしいなぁ」

 そんなことを言って、本当に悲しそうな顔をしていた。おばあちゃんを悲しませたくない。ふっとそう思って、あたしはおばあちゃんの差し出したハンカチを手に取らずに、もう既に涙と鼻水でぐっちゃぐっちゃになってしまっていた服の袖で顔をごしごしとこすってから、

「おばあちゃんなんでここにいる?」

 と叫んだ。さっきまでどんなにごしごししても止まらなかった涙は、不思議なことに今のごしごしと叫びで止まってくれた。

「んー? なんとなくねぇ、みすずちゃんがここにいるんじゃないかなぁ? っておもってここにきたんだよー」

 あたしが泣き止んだことに安心してくれたのか、おばあちゃんはにっこりと笑ってそう答えてくれた。当然嘘に決まってるんだけど、やっぱりあたしはそれに気付かないで、

「ほんとか! それはすごいな! おばあちゃんスゴイ!」

 と喜んでいた。

「そうだよー。おばあちゃんは、すごいんだよー」

 とおばあちゃんは一回豪快に笑った後、

「でもなんでみすずちゃんはようちえんがおやすみなのにここにきちゃったのかなぁ?」

 とあたしに聞いてきた。あたしは、あたしが今日本当は休みなのに勘違いして来たのではないか、という風におばあちゃんが勘違いしているのではないかと思い、そしてそれは恥ずかしいから嫌だ! とあたしは強く思い、

「ちがう! ほら! あたしようちえんのせいふくきてないでしょ!」

 と、あたしの涙と鼻水でやっぱりぐっちゃぐちゃになってしまっている上着を両手で持っておばあちゃんに見せた。あらぁ、そうねー。とおばあちゃんは笑ってくれたし、その後、ごめんね。みすずちゃんはちゃんときょうようちえんがおやすみだってわかっていたねー。と謝ってくれたから、とりあえずあたしは安心して、今日のことをおばあちゃんにおはなしすることができた。話している内にまた泣いてしまったんだけれども、おばあちゃんはやっぱり優しかった。自分の服まであたしの涙と鼻水でぐっちゃぐちゃになるのも嫌がらず、ちゃんとあたしのことを抱き締めてくれたし、あたしのことをちゃんと見てくれていた。その時のあたしには、それが一番うれしかった。

「うん。さっきまでないてたからすがもうなきやんだところで」

 おばあちゃんはにこにこした顔をしながら言って、更にこう言った。

「さて、みすずちゃん。おばあちゃん、ひとつだけみすずちゃんにおねがいがあるんだけどなぁ」

 あたしは、なぁに? と少し首を傾げるようにして聞いてみる。

「きのうみすずちゃんがなくしちゃった、ことみちゃんのリボン。まだみつからないんだぁ。みすずちゃんせっかくここにきてくれたし、さがしてみてくれないかなぁ。おばあちゃん、みすずちゃんがさがしてくれているあいだに、みすずちゃんのおうちにでんわをかけておくからね。きっと、みすずちゃんのパパとママが、しんぱいしているとおもうから。……あ、かずまくんのおうちじゃないとだめだね。きょうはみすずちゃんのパパとママもかずまくんのおうちにいるんだよね」

 それにあたしはこくん、と頷いて、早速砂場をいじり始めた。琴美のリボンを見つけて、そしてそれを持って琴美に謝りに行こう。そう思って。

 

 おばあちゃんが和真の家に電話をかけるために幼稚園の中に入って行った後も、しばらく探してはみるけれど、見つからない。あたしは集中力が長く続かないから、その内に、ない、ない、ない! ない! ないよぅ! とプチパニックを起こしてしまった。まったく、情けないよなぁ。あたし。

 それから、どれくらいの時間が経った後かはわからない。たぶん、それ程当時のあたしが思ったよりも時間は経っていないのかもしれないけれど、とりあえずいくらかの時間が経った後、あたしは砂の中に埋まって、でもちょびっとだけ砂の中から顔を覗かせた青色のリボンを見つけ、

「あった! ことみのリボン! あったぁ!」

 あたしはもうその場で小躍りしていた。うれしかった。これで琴美に謝りに行けるんだ! あたしはそう思って、おばあちゃんを呼ぼうとして、

「お! みすずちゃん。ことみちゃんのリボン見つけたの! すごーい! 先生達も見つけられなかったのに! うわぁ。みすずちゃんすごいねー!」

 いつの間にか砂場のそばに立っていたおばあちゃんの声に驚いてしまった。

「ごめん! ごめんね。おどろいちゃったね。みすずちゃん。でておいで。かくれなくても、だいじょうぶだからね」

 幼稚園の門の影に隠れてしまったあたしに、おばあちゃんは優しく声をかけてくれるけれど、幼稚園の門を見てしまったあたしには、一つの名案に頭が集中してしまってもうおばあちゃんの言葉は耳に入らなかった。

「あっ! ちょっと! みすずちゃん、どこいくのー!」

 おばあちゃんの叫びが聞こえた時には、もうあたしは幼稚園の外。でもとりあえず聞こえたおばあちゃんの叫び声にあたしは、

「ことみのいえー!」

 とだけ叫び返した。その後おばあちゃんが何かを言ったのか、それともただただ笑うだけだったのかは、あたしは知らない。おばあちゃんはあたしや和真が小学校の高学年になるころには死んでしまったから、今ではもう聞くこともできないんだ。

 あたしが琴美の家に着いてから、あたしは自分のダメなところにまた気がついた。正しくは、思い出したと言うべきなんだろうか。あたしはとにかく人見知り。お父さんやお母さん、和真とそのおじちゃん、おばちゃん、そしておばあちゃんになら、どうにかあたしは話ができて、どうにか意思の疎通が取れる。

 けれど、それ以外の相手にはてんでダメ。いつも知っている人の影に隠れてもじもじしている。その内、その人がどうにかこうにかその知らない人の話し相手になってあげてる内にあたしが会話に参加することなくその相手は立ち去って、会話は終わっている。

 何度か会ったことがある人が相手でも、あたしは満足に話をすることができない。そして、琴美のお父さんやお母さんにはまだ一度も会ったことがなかった。つまりこのままあたし一人で話をするってことは、最悪な状況ってことになる。

 何て言おう。どう話そう。そんな不安ばかりがあたしの頭と心をグールグール廻りだした。

 そんなあたしはインターホンが押せなかった。それが高いとこにあったから、身長的にも押せなかったんだけども、でもやっぱり不安でしかたなくて、あたしはインターホンが押せなかった。どうしようもなく、その辺に座り込んだり、辺りをちょろちょろと動き回ったりしていると、

「こんにちは。あなたがみすずちゃん?」

 と、一戸建ての家のベランダから大人の女の人があたしに声をかけてきた。突然なことに驚いたあたしが逃げようとすると、

「あ、ちょっとまって。いまね、ようちえんのはしもとせんせいからでんわがあったの。わかるかな? はしもとせんせい。あの、おばあちゃんせんせい」

 そんなことをその大人の女の人が大きな声で言って、あたしを引き止めた。

「……おばあちゃんから?」

 小声で、聞き取れるかどうかよくわからないような声しか出なくて、これが本当に聞き取れるものなのか不思議なんだけれども、不思議なことにこの女の人はそれを聞き取ってくれた。髪の毛はあまり長くない。せいぜい肩に触れるか触れないか、といった具合。きっと、うちのお母さんよりも、少しだけ、年上な感じ。

「そうそう。おばあちゃんせんせいからでんわがあってね。いまから、おおがみすずちゃんというこが、ことみちゃんをたずねてくるとおもいます。ってね。あ、わたしはことみのおかあさんです」

 琴美のおばさんはそう言うとあたしに手招きをして近くに来てくれるように誘ってきた。あたしは、伝えなくちゃいけないことがあるから、謝らなきゃいけないことがあるから、その手招きに乗っておばちゃんの近くまで行って、そして言った。

「……ことみは?」

 かなりの決意、というか勇気を振り絞っての言葉だったけれど、さっき以上に小声で、ぼそぼそとした声になっていた。でも、それが限界だった。幸運にも、おばちゃんはそれをどうにか理解することができたみたいで、

「うん。いるよ。いまからことみをよんでくるから、まっててね。みすずちゃん」

 と、あたしに声をかけて、琴美を呼んだ。

 

 琴美が走ってくる。あたしの姿を見て、少しだけ困ったような、そんな顔をした。

「ことみ、これ」

 そう言って、あたしはポケットにしまっていた青色のリボンを取り出す。砂は、ある程度払ったのだけれども、まだ完全に落ちきってはいなかった。

「……ぅわあ。これどうしたの?」

 と琴美が聞いてくる。あたしは少しだけ胸を張り、

「あたしがみつけた。せんせいもみつけられなかったんだけど、がんばってさがした! んでみつけた!」

 あたしからリボンを受け取った琴美は、本当にうれしそうな顔をしていた。……さぁ、頑張って言わなくちゃいけないことがある。

「あ……あの、ね……ことみ、ちゃん」

「え? ん、なに?」

「ご……」

「ご?」

「ゴメス!」

「は?」

「え?」

 思わず琴美だけじゃなくおばちゃんまで驚きの声を放つ。あたしはその突拍子もなく生まれた声に恥ずかしさを覚えて顔が真っ赤になっているのが分かった。

 人に謝るのって、どうしてこうも難しいんだろうって、今でも不思議に思えてしょうがない。この時のあたしは、特にそれを実感していただろう。

「…………」

 沈黙に入ってしまうあたしに、

「みすずちゃん、どうしたの?」

 と琴美が心配そうに声をかけてきた。今だ! ここしかないんだ! そう思って。

「ごめん!」

 やった。言えた。本気でそう思った。

「え?」

 なのに琴美は、なんであたしが謝っているのかわかっていないみたいだった。それはないだろ! それは。

「きのう、ことみのリボン、すなのなかにうめちゃって、ほんとうにごめんなさい!」

 そこまで言って、ようやく、

「あ、……うん。いいよ」

 という琴美の返事が得られた。

「みすずちゃん!」

 帰ろうとしたあたしを琴美が突然呼び止めた。なんだ? と振り向くと、あいつは笑顔で、

「みすずちゃん、おたんじょうび、おめでとう!」

 そう叫んだ。そして、

「かずまくんがね! みすずちゃんのこと、だいすきだって、いってたよ! あたし、このまえかずまくんとおすなばであそんでたとき、かずまくんにきいたもん!」

 と続けた。でも、それはこの前のこと。具体的には、二日前のこと。あたしが二人で遊んでいたことにヤキモチを妬いて琴美とケンカしたあの日のこと。

「きょう、かずま、あたしのこときらいだって。ほんとのほんとに、きらいだって。いってた」

 あたしがそう返すと、琴美は、急に怒り出して、

「じゃあ今からかずまくんちにでんわしておこってやる! みすずちゃんのこときらいだっていったらあたしがみすずちゃんのかわりにぶんなぐってぼっこぼこにしてやる! って!」

 そう叫んで、おばちゃんに怒られていた。

「じゃあね! みすずちゃん!」

 琴美が言った別れのあいさつに、あたしは、返事はできなかったけれど、その代わりに大きく手を振るくらいのことはできた。それは、人見知りなあたしにとって、結構な進歩だと思うのだけども、違うかな?

 

 家に帰ってみると、和真の家のチェーンと鍵は外されていた。きっと和真以外の誰かが外してくれたんだろう。おずおずと家の中を覗き見てみる。時計の短い針はもう既に五のところを大きく越えて、六との間の、ちょうどまんなかのところにあった。家の中は明かりがついていなくて、不気味な暗さがあたしを怖がらせた。……でも、ここは和真の家。怖がることなんかない! そう思ってあたしは、走って和真の家の中に靴も脱ぎ捨てるような感じで転がり込んだ。

 一歩。和真の家のリビングに入ると、

 

――パーン! スパパパーン!――

 

「おめでとー!」

「みすずちゃん。おたんじょうびおめでとう!」

「おめでとー!」

「おめでとう!」

「おめでとう。美鈴」

 みんなが口々にあたしのお誕生日を祝ってくれた。明かりもすぐに点いた。でもあたしはびっくりした。どれくらいびっくりしたかというと、飛び上がってリビングの外、廊下まで出て行って、そしてリビングのドアを閉めてしまうくらいに。

 

 だいじょうぶだよー! みすずちゃん、出ておいでー! という和真のおばちゃんの声と、みすずちゃんはあいかわらずみすずちゃんだね。という和真の声が聞こえて、あたしは恐る恐るドアを開けてみんなの様子を見た。……みんな笑顔だった。誰一人勝手に飛び出したあたしを怒るでもなく、安心して笑っているようだった。ちょっと不思議だったけれど、でもあたしのことを笑って迎えてくれる家族と、家族みたいな存在が、あたしは本当にうれしかった。なんてったって、お誕生日なんだ。それもあたしの。お祭り騒ぎじゃないとつまらない。

 すっと、和真があたしの手を引いて、洗面所まで連れて行って、

「てをあらわなきゃね。みすずちゃん。いまからケーキだよ。みすずちゃんがだーいすきな、あまーいいちごがのったケーキだよ。とってもおおきかったよ!」

 そう言う和真の目は、本当に、ほんっとうにちょびっとだけだったけど、赤く腫れていた。きっと、あたしを追い出したことを、おばちゃんやおじちゃんにもの凄く怒られたんだと思う。ひょっとして、叩かれたりもしたのかな? そう思って、心配にもなったけれど、和真が頑張って明るく振舞うのなら、それを邪魔しちゃ悪いかな。そう思って、あたしはそのことには、触れなかった。

 

 ハッピーバースデーの歌も歌って、ロウソクの火も吹き消した。食べる前に、

「かずまがすこしだけおはなしがあるんだって」

 とおばちゃんがあたしのフォークの動きを止めた。和真は、テーブルのイスから降りて、あたしの横で顔を少しだけ赤くしながら、立って待っていた。あたしもイスから降りて、和真に何だ? と声をかけた。

「えっと。あのね、みすずちゃん。きょうは、その……」

 和真は、何だかとっても照れくさそうだった。それはさっき琴美の家の前で琴美に対してあたしが取っていた態度と全く同じだった。

「ごめんなさい!」

 和真も、あたしと同じように、思いっきり叫ぶような感じで言った。あたしは、

「あたしも、けったりしてごめんね」

 とあっさり言うことができた。和真は、きっとこれで笑ってくれると思ったけれど、まだ顔は赤いまま。急に顔を上げたかと思うと、

「それでね! ぼくからみすずちゃんにたんじょうびプレゼントがあるの! ちょっとだけめをとじて! いい? ぼくがいいっていうまで、ぜったいにあけちゃだめだからね!」

 そんなことを言う和真に、あたしは驚きながらも頷いて、目を閉じる。

 そして、――パシャリ!――

 

 これはおばあちゃん、橋本先生が死んでしまって、その葬式の時に聞いた話なんだけど。

 琴美の青いリボンは、一回先生が見つけてしまっていて、でも何故か橋本先生がもう一回埋めなおしたんだという。あたしが探しに来たときに見つけやすいように、少しだけ端っこをわざと見えるようにして。そして、和真の家と、幼稚園と、そして琴美の家は、あの日綿密に連絡を取り合っていたそうだ。だから、あたしのことを特別に心配することはなく、和真の家にいる人はあたしの誕生会の準備を進めることができたし、琴美のおばちゃんは橋本先生から電話で聞いたあたしの特徴から、すぐにあたしが来たことを知ることができた。琴美ではなく、琴美のおばちゃんだったけれど、和真の家にはあの後すぐに連絡が行ったそうだ。だから、本当にみんな安心していた。

 ……けれど、二つだけ。あたしは、橋本先生にお礼を言うことができなかった。それと、どうしてあの土曜日、十一月十一日にあたしが幼稚園に来ることがわかったのかを、ついにあたしは聞くことができなかった。先生は、誰が聞いてもそのことを答えてはくれなかったそうだ。だから、あたしはそのことを知って、先生の白黒の写真――遺影っていう字も、響きも、あたしはキライだ――の前で、大声を出して泣いた。申し訳ないな、っていう思いもあったけれど、単純に悲しかった。ただ、悲しかった。寂しかった。

 

 あたしは今、和真の家で当時の思い出を、アルバムをめくりながらたどっていた。部活は、やっぱり集中できなかった。和真が目に入る度に、気になって気になってしょうがない。百合神も結構困った顔をしていたけれど、これはしょうがないことなんだと亜美ちゃん達が代わりに説明してくれた。

 帰りも、ちょっとだけ和真と話をするのが嫌で、わざと和真じゃなく、三人と話をしながら帰った。そんな状態で夜を迎えたあたしに、

「あれ、美鈴。突然アルバムなんて持ち出して。……それにそれ幼稚園の時のじゃない。どうしたの?」

 超ニブチンな和真は平然と話しかけてきやがった。でも、態度に出たらマズイ。ヒジョーにマズイ。いや、ヤバイ。これはヤバイ。どれくらいヤバイかというと、明日から朝出会った瞬間の挨拶がおはようから引っ掻きやドロップキックに変わるなってくらい。要するに気まずいことになるってことだ。うん。ヤバイ。

「い、いやな……。ほら、百合神が帰りに言ってた……」

「進路公開?」

「そう。それ」

「それで何でアルバム?」

「ど、どうだっていいだろ! 昔のことを思い出すのも、何かの役にたつかなって、そう思っただけだ!」

「わかったよ。……どうしてそんなに怒るのさ」

 そんな言葉は無視して、あたしがまた一ページめくると、

「あ。この写真! あなたたち覚えてるかしら。それおばちゃんが撮ったのよ。いやぁ。一発勝負だったけれど、上手く撮れてるわよねぇ」

 いつの間にかあたしたちの真後ろにいたおばちゃんが懐かしそうにその写真を指差す。目をつむったあたしの頬に、和真が真っ赤な顔をしたままキスしている写真。あの時の、和真からの誕生日プレゼント。

「これの直後。本当におもしろかったのよー! 和真はまっかっかだし、美鈴は自分が何されたかわかんなかったみたいで、何やった? 何した! の繰り返し。そして一番傑作だったのが醍醐君。貴様! 俺の娘に接吻なぞしやがって! 責任とれるんだろうなコラァ! って本気で怒ってるの。まだ年長よ。年長。子どものキスに何もそこまでって、みんなでなだめすかして。和真なんかびっくりしちゃって泣いてたもん。でも確かにあの醍醐君はちょっと怖かったわよねぇ」

 おばちゃんは一人思い出に沈み込むように、ぺちゃくちゃとしゃべり続ける。和真は少し恥ずかしそうにその写真からは目をそむけていた。

 

 唐突に、

「あ、そうだ。こうして二人で仲良くこの写真を見た記念に約十年後にこうなりました! 見たいな感じで、全く同じ構図で写真撮ってみない?」

 なんて言ってきた。その瞬間。あたしと和真は互いの顔を見合わせて、お互いに顔をそむけ、反対方向を向いてしまった。ちょっとだけ見た和真の顔は、あの日みたいに真っ赤になっていて、かわいいなぁなんて思えてしまった。

 

 ……そうか。あたし。あの日、あの時からずぅっと、和真のことが好きだったんだな。

 あたしの世界がどんなものか、なんてわかんない。これから先分かる気もしない。でも、この世界の中には、和真が好きだっていう正直な気持ちだけは入っているんだって、思う。きっと、あの瞬間があたしの世界の始まりだったんだって、わかったんだ。