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集積回廊1:Pさん

はじめにことばがあった、と聖書に書かれている。このことばは、すでに文字だった。石に刻まれた文字、竹に書かれ、椰子の葉に記された文字。いまや紙の上のひとつのかたち。音をかたちに変え、かたちを音に変える、いく通りもの手続き。ことばが音ならば、それは意味を発信している。文字の読みは意味ではない、一回限りのリズム、リズムはくりかえされ、くりかえされては意味を振りほどき、別な意味を織り上げる。

たった一文字がたくさんの物事を指し示すことがある。ヘブライ文字のなかに、サンスクリットのなかに、漢字のなかにも。それらは結局のところ意味をもつには広がりすぎてしまい、一種の呼吸法に近づいていく。

そのさきには音にならない文字、声に出してはならない文字がある。回転する車輪のなかの眼、燃える茨。声の方を見てはいけない。声はうしろから追い付いてくる。文字は逆にいつもこちらに背を見せている。

人と人とのあいだにことばが交わされ、ことばとことばのあいだに文字が立つ。ことばを聴いたものはことばを語り、文字を読むものは、やがては文字を書かずにはいられない。聴いたことばとおなじことばを蘇らせ、読んだ文字から違う文字をつくりだすこの無限連鎖。

ことばを書くことは、紙を尖ったペンでひっかくことを意味していた時代があった。

scratch という英語は走り書きすること、ひっかき傷をつける、という意味で、おなじことを指している。カフカが自分の書き物について言った kritzeln も似たようなドイツ語だがもうすこし不器用さが感じられる。日本語の「書く」も、「掻く」に由来する。紙の前には石や煉瓦の表面を掻き取ってかたちを彫り込んでいたのだから、ペンが活字のキーに替わって文字が type つまり押しつけられ、打たれることになるまで、ことばは物の表面を掻きむしっていた。

(中略)

文字を書くことは、とらえがたい思いをとらえ、うすれる記憶をとどめ、プロセスを実体化し、根拠のないものに根拠をあたえ、現実に違和感をもつ心の痒みを、書くことによって拡散する。

書くことは、石や煉瓦の時代には、王権や神権の確定のためにあった。竹や木、皮、絹、やがて紙とともに、だれでもが記録し、主張する権利をもつようになる。書くことによるストレスはひろがっていく。ペンが紙にひっかからず、書くのに力がいらなければ、たくさんのことばを書くことができる。ことばがことばを生み、非現実の世界をつくりあげる。

紙にひっかからないペンは、掻く力も弱くなっている。だから、ことばもすべっていく。いくら書いても、心がみだされることはない。

アメリカ西部のカウボーイたちは、馬が死ぬと馬はそこに残していくが、どんなに砂漠を歩こうとも、鞍は自分で担いで往く。

馬は消耗品であり、鞍は自分の体に馴染んだインタフェースだからだ。いまやパソコンは消耗品であり、キーボードは大切な、生涯使えるインタフェースであることを忘れてはいけない。

【東京大学 名誉教授 和田英一】

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