twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

古井由吉と「家ならざるもの」:日居月諸

一 家ならざるもの

 

フロイトは一九一九年に発表した論文「不気味なもの」において、美学研究が「美しく偉大で魅力的な、つまり肯定的な種類の感情やそれが生まれる条件、それを起こす事象の方」を好んで取り上げるばかりで、嫌悪の元となる不快な感情は取り上げないとし、それを埋め合わせるために不気味なものに対する分析を展開している。論文では二つの方面からの研究が為され、一方はホフマンの小説「砂男」を中心とした個々の事例の蒐集、もう一方はドイツ語の「unheimliche」という単語の分析に費やされている。

不気味という感情は同じ事態の反復、特に抑圧したものの回帰によって引き起こされる、とフロイトは述べている。ホフマンの「砂男」において主人公ナタニエルは幼少期に味わった眼球を失うことへの不安を成長と共に乗り越えたかに思われたが、そうして抑圧したものはあらゆる場面で回帰し続け、彼を狂気に陥れた末に自死にまで至らしめる。抑圧したものが回帰するたびに主人公を襲った感情こそ不気味という感情なのであり、読者が同様の感情を覚えるのもまた彼の防衛機制の果たした役割を理解しているからこそだとするのだ。

論文の梗概を確かめたところで、フロイトが「unheimliche」の語義分析をしている部分に注目しよう。

 

ドイツ語の「unheimliche」という単語は、明らかに、「heimlichheimisch(我が家の),vertraut(馴染みの)」の反対語である。従ってそこから当然予想されるのは、何かあるものが驚愕させるのは、まさに知られておらず馴染みがないからこそだという結論である。だが当然ながら、新しく馴染みのないものすべてが驚愕させるわけではない。この関係を逆にすることはできない。新手のものは容易に驚愕させ不気味なものになる、と言えるにすぎない。新手のものの内には驚愕させるものがあるが、すべてがそうであるわけでは決してない、新しいもの・馴染みのない、それを不気味なものにする何かがさらに付け加わらねばならないのである。[1]

 

フロイトはこの問題を解決するために「unheimliche」の使用例の蒐集へと向かう。そこでシェリングなどがこの単語を両義的に使っていること、つまり秘密にしておくべきだったものが明らかになった時もまたunheimlicheなのだ、という意味で使っていることを確認し、先程見たようなホフマンの分析へとつなげていく。

ところで、引用において「heimlich」とは「我が家の」という意味の単語であると説明されている。それに否定の接頭辞「un」をつけ名詞にした「unheimliche」とは、直訳すれば「家ならざるもの」とすることが出来るだろう。そこで一つの疑念が湧き起こってくる。先程確かめたように、不気味という感情は馴染みの薄い新奇なものに接した時だけに起こるのではなく、秘密に出来るような馴染みの深かったものが回帰してくる時にも起こるのであった。ならば、我々にとって親密なものである「家」を揺るがしてくる「家ならざるもの」もまた、「家」の外部にあるものに尽きるのではなく、実は「家」が抑圧しているものにも見いだせるのではないか。

「砂男」の主人公ナタニエルは幼少の頃、家にやってきた砂男コッペリウスによって眼球を奪われかけたが、居合わせた父の懇願によって窮地を免れた。しばらくして、父は再びやってきたコッペリウスによって殺されてしまう。いかなる事情によって父が殺されたか明らかにはならないが、彼の懇願によってナタニエルが救われたという事実は確かであり、少年が無事成長しようと記憶に基づく強迫観念からは逃れられないだろう――父の犠牲によって自分の眼球は守られた……。そうした強迫観念にひざまずくようにして、ナタニエルは死の際にあっても眼球への執着を示すこととなる。彼は塔から飛び降りながら、「そうだ、美しい目玉。美しい目玉だ」と叫ぶのだ。

このナタニエルのように、「家」もまた自らの基盤を根こそぎ奪ってしまうような「家ならざるもの」を抑圧しながら存立しているのではないだろうか。もしくは、それを抑圧し忘却することによって自らの基盤を盤石にしたような「家ならざるもの」の回帰に怯えることはないだろうか。

この疑問は、坂口安吾が「日本文化私観」で提示した家についての考察とも論点を同じくする。

 

僕はもう、この十年来、たいがい一人で住んでいる。東京のあの街や、この街にも一人で住み、京都でも、茨城の取手という小さな町でも、小田原でも、一人で住んでいた。ところが、家というものは(部屋でもいいが)たった一人で住んでいても、いつも悔いがつきまとう。

暫く家をあけ、外で酒を飲んだり女に戯れたり、時には、ただ何もない旅先から帰って来たりする。すると、必ず、悔いがある。叱る母もいないし、怒る女房も子供もない。隣の人に挨拶することすら、いらない生活なのである。それでいて、家へ帰る、という時には、いつも変な悲しさと、うしろめたさから逃げることが出来ない。

帰る途中、友達の所へ寄る。そこでは、一向に、悲しさや、うしろめたさが、ないのである。そうして、平々凡々と四五人の友達の所をわたり歩き、家へ戻る。すると、やっぱり、悲しさ、うしろめたさが生れてくる。

「帰る」ということは、不思議な魔物だ。「帰ら」なければ、悔いも悲しさもないのである。「帰る」以上、女房も子供も、母もなくとも、どうしても、悔いと悲しさから逃げることが出来ないのだ。帰るということの中には、必ず、ふりかえる魔物がいる。

この悔いや悲しさから逃れるためには、要するに、帰らなければいいのである。そうして、いつも、前進すればいい。ナポレオンは常に前進し、ロシヤまで、退却したことがなかった。けれども、彼程の大天才でも、家を逃げることが出来ない筈だ。そうして、家がある以上は、必ず帰らなければならぬ。そうして、帰る以上は、やっぱり僕と同じような不思議な悔いと悲しさから逃げることが出来ない筈だ、と僕は考えているのである。だが、あの大天才達は、僕とは別の鋼鉄だろうか。いや、別の鋼鉄だから尚更……と、僕は考えているのだ。そうして、孤独の部屋で蒼ざめた鋼鉄人の物思いに就て考える。

叱る母もなく、怒る女房もいないけれども、家へ帰ると、叱られてしまう。人は孤独で、誰に気がねのいらない生活の中でも、決して自由ではないのである。そうして、文学は、こういう所から生れてくるのだ、と僕は思っている。[2]

 

本稿は「家」の問題と対峙し続けた作家古井由吉の作品を通して、この「家ならざるもの」がいかなる形態をもって現れるか明らかにしていく。



[1]「不気味なもの」『フロイト全集』第十七巻、藤野寛訳、岩波書店、五頁

[2]「日本文化私観」『定本坂口安吾全集』第七巻、冬樹社、一三六―一三七頁

 

(続きはPDFをダウンロードしてご覧ください。)

古井由吉と「家ならざるもの」.pdf
PDFファイル 616.5 KB