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座談会「小島信夫について」

とき:2014年2月22日 午後8時~10時半
ところ:Skypeグループチャット
ひと:Pさん(ホスト)、イコ、日居月諸

1 とりあえず『抱擁家族』から 精神と肉体の異様な結合

 
 
Pさん: まずは、前に行われたという読書会のこともありますし、三人の共通点である『抱擁家族』について話していきたいなと思います。
 ザッと、前の読書会で、どういったことが話し合われたのか、改めて教えていただけないでしょうか。
日居月諸: あの読書会は私とイコさんの他に小野寺さんもいらっしゃいましたが、基本的に話しあわれたのは多面的な読みが出来る小説だということでした。夫婦のズレ、登場人物の活かし方、ねじれた叙述など、様々な感想が引き出され元の作品が多くの要素を抱え込んだ小説だということが明らかにされましたね。
イコ: 自分はあのときもバタバタしていて、お二人の話を聞いているばかりでした。
Pさん: なるほど、見事にまとまっていますね。
 その先回の読書会にも出たかもしれませんが、僕の注目したのは、精神の変調を肉体、というか物理的な面に帰するということですね。
イコ: 時子が癌になることとか?
Pさん: そうですね。前半のところで、主人公の局部が痛み出すという場面がありましたが、ああいう描写も、なにか心理的なクッションを置かずに、「ジョージの話を聞いたとたんに痛み出した」という風に短絡する。
 心的内容をどう表象するのかなんて、それこそ小説においては飽かず繰り返されてきたものではありますが、その仕方において、他の小説家とは違う感触があると、僕は思います。
イコ: なるほど。
Pさん: これが実は、後期の作品において、「仙骨の六つのブロックの動き」とか、いろんな形で繰り返されたりしています。
イコ: それを聞いて思ったのは、抱擁家族でも、他の作品でも、小島作品は、思考のつながりや因果が排されているということです。
Pさん: ですねー。
イコ: 精神と肉体の連絡が、きわめて短絡的であり、文章もそれを反映している。
 

2 環境の変化への抵抗、感情移入の拒絶

 
イコ: さらに言うとかれらは、居候や家政婦を追い出したり、家を建てたりと、環境を変化させることで、何かを保とうとする。
 けどそれに対して明確な理由づけがされるのではなく、ただ変わっていくんです。ドキュメンタリータッチで。
Pさん: その「保とうとする」という部分が、『抱擁家族』という語感そのものですよね。
イコ: そうですね、何かを「抱擁」したいんだけど、抱擁という言葉自体が、うすぼんやりしていて、作品の印象を裏づけているように思います。
Pさん: そうですね。
イコ: 馬の冒頭で、うずたかく積まれた材木につまずくところがありますが、あれも「環境の変化」と「保とうとするもの」の相克が描かれていると思います。
Pさん: まさにそうですね。
 この辺は日居さんは、どう思われますか。
日居月諸: 読書会の方でも話したのですが、小島信夫の文章は読者にやさしくないんですね。場面をブツ切れにしたりするし、論理を飛躍させたりすることがある。『抱擁家族』においてはそれが極めて高い達成として示されていて、他人のために書かれた小説ではなく家族のために書かれたものという風貌を得ている。悲劇をエサに読者を得るのではなく、今ここにある家族を離さないように、周囲から守って「抱擁」しながら書いている。そんな印象があります。
Pさん: つまり、ここに描かれている家族のために、ということですか?
イコ: 論理の飛躍がかえって生生しいんですよね。描かれる悲劇が、読者の喜ぶありていのドラマではないことをしめしているかのようです。
日居月諸: ええ、ですから極めて個人的な小説ですね。私小説だとか、そういった枠組みでは捉えきれない(私小説だって他人に見せるために書かれたものですから)。家族が生きた証を刻みつけるように書いている。
Pさん: たしかに、普通にいわれる私小説とは別の意味での私小説ですね。
イコ: 「感情移入」とか、そういう言葉を拒否しているような。
Pさん: これが純粋にこの家族のために描かれている、というのは、感想として想定したことがなかったです。でも、「読みを拒絶する」ということから演繹すれば、そうなりますね。
 

3 戦後の人間の把え方

 
Pさん: さて、せっかく他の作品にも範囲を拡げているので、別の面に移りたいと思います。といって、具体的に方向が決まっているというわけでは、ないんですけど……。
 もう一度、『抱擁家族』のある部分に戻ります。みなさん、たぶんですけど、講談社文芸文庫版の『抱擁家族』で読んでいるのではないかと思うんですけど。違ったらすいません。
イコ: 自分はそうです。
Pさん: 僕は「新潮日本文学 54 小島信夫」の巻で参照していて、それで言うと32ページなんですけど。
 第一章の終わりの辺りですね。
 妻が、ある映画を見て、「悲劇のように考えるのは、もう古いわよ。あんたの物の考えはそうじゃなかった?」と言う部分があります。
イコ: 文芸文庫66ページでした。
Pさん: ありがとうございます。
 ここは、主人公と似通っている小島信夫自身の、ほぼ考えそのものであるように思えます。
 とすると、これは本当に枠組として悲劇と呼んでいい話なのかというのが僕の疑問なのですが……。
イコ: 『アメリカン・スクール』や『汽車の中』のように、人物にとっては切実なんだけど笑いを狙っているように見えるものと違って、『抱擁家族』は、笑いを取ることすらできないすがたが見えるように思います。その点で、悲劇だな、と感じます。定義づけることにあまり意味はないのかもしれませんが笑。
Pさん: まあ、そうですね。
 それにしても、この頃の小島信夫の喜劇論が、とても面白いのです。
イコ: どんなものですか?
Pさん: それこそ、その場面で妻が読んで引き込まれたと同じように。(しかも、ここの部分は、「別れる理由」の冒頭風でもあり、他のフィクションが混ざってきているというスタイルが胚胎しているように思え、いろんな結節点になっている気がします)
 で、小島信夫のエッセイ「現代と諷刺文学」からですが。

(戦争のあとの人の生きざまについて)生きのびたことは嬉しかったが、ワイザツでデタラメに見えた。人間の欲がむき出しであった。私は何ということなく、諷刺小説を書きたいと思った。(中略)それでも私が諷刺小説を書きたく思ったのは、おそらく、人間の愚かなくらいのワイザツな生存欲、形こそ変れ戦争中にあったものとおなじようなものが、こんどは立ち直りのために、人をおしのけてはびこりつつあるのが、空おそろしく腹立たしかったからで、そのことを文章に表現しようとしたにちがいない。(強調部 引用者)

この辺なんか、まさに『アメリカン・スクール』所収の「汽車の中」みたいな姿ですけど。
 この続きで、戦争中に機能していた欲望のサイクルとか服従の姿とかが、こんどはそのまま戦後人が生き延びていく姿の中に伏在していると言っているんですね。
 ……なんか、書いてて、当り前のことを言っている部分のような気はしてきましたが。
 僕はこの同一視の洞察がすごいなあと思いました。
イコ: なるほど。小島信夫が「第三の新人」のひとりとして文学史的に重要なのは、戦後処理を日常の中でやろうとしたところだと思うのですが、やはり小島にとって戦争は、人間をとらえる上で重要だったのでしょうね。
Pさん: しかも、戦争をそれそのものとして、そのまま把えることですね。色をつけてるとすれば、単に愚劣なものとして描くということ。
イコ: 戦後派のように戦闘状態を描かなくても、戦争はたしかにとらえられていますよね。それを描くための分かりやすい道具として、アメリカを使っていますね。『抱擁家族』でも『アメリカン・スクール』でも、アメリカ的なものが日常に入りこんでいる。
Pさん: 今のことでからめると、そうですよね。
 日居さんは、この辺りはどう思われますか。
 僕はけっこうざっくばらんな「戦争」の認識をしていますので、思うところがあれば遠慮なくどうぞ。
 

4 アメリカ的なものとの関係性

 
日居月諸: アメリカ的なものの侵略だったりは確かにあるんですが、小島は一方でアメリカ的なものからの侵略へのスタンスが独特なんです。これは他の戦後派にはない認識だと思うんですが、
『アメリカン・スクール』では侵略を受けてなお英語をしゃべらない教師が描かれます。彼は国家主義者ではありません。しかしアメリカナイズもされはしない。こういってしまうと単純な切り口になってしまうんですが、一個の実存がそこには描かれている。普通は反発によって国家主義者になったり、世間の目を気にして平和主義者になったりするものなんですが、『アメリカン・スクール』の主人公にそういう視点はないんですね。ひたすら他人に嫌気を感じている。アメリカナイズされている教師だったり、侵略軍のジープを乗り回しているアメリカ人だったり。誰がお前らなんかに取り込まれるものか、というものがある。
Pさん: (下線部)まさにそうですね!
イコ: 分かります。
日居月諸: 基本的に小島信夫の登場人物は暴力的なんですね。『抱擁家族』でも主人公は妻や不倫相手を傷めつけたりするし、『微笑』では癲癇(だったかな?)の子供を父親が虐げたりもする。他人に対する共感というものが薄いんです。一方で、だからこそ実存が描ける。他人に捉われない存在が描ける。
Pさん: 『抱擁家族』でも、同情したりしなければならない場面で、笑うことしか出来ないというところが多く出てきますね。
(ちなみに息子の症状は小児マヒとかでしたね)
日居月諸: 『墓碑銘』というそれこそ戦争を描いた小説があるんですが、あそこに出てくる在日アメリカ人も上官や同僚に対するスタンスが独特ですね。というか、叙述が独特。同僚に対しても苦労を分かち合うという感じではないし、かといってはねつける感じでもない。上官に対しても時折迎合したかと思えば一方では反発したりもする。そういう宙づり感覚が、アメリカ人にも関わらず日本軍にいる、という状況をよく描き出せていると思う。
Pさん: (下線部)この辺、小島信夫の読みがたさが出ていてとても共感出来ます。
日居月諸: あえて言うなら不偏不党なんだと思います、小島信夫って。潜在的にはイデオロギーも持っているのかもしれないけど、小説の記述が極めて客観的だから、どうしてもどっちつかずの人物だったり、他人に優しくない人間が出てきやすい。そして、そういう小説に対する叙述原理を持っているから、人間の猥雑な生存欲がよく見えてくるのでしょう。
Pさん: なるほど!
イコ: アメリカ人などの政治的に大きくなっていきそうな素材を取り入れていながら、政治的なものに向かっていかないんですよね。小島の小説には一種の小ささが見える。あくまで戦争を引きずった個人のすがたを描いている。
イコ: このへん、同じようにアメリカ人を小説に取り入れた大城立裕の『カクテル・パーティ』などとは対照的です。
イコ: そういう小さな感覚は現代の文学者に通じると思います。
Pさん: もう小説は全体にはなれず、部分にしかならないという感覚ですね。
 

5 書くことに意識的であること

 
Pさん: 唐突ですが、今目についた素晴らしい小島信夫の言葉があったので、引用します。
 これも、さっき挙げたエッセイと同じく、『現代文学の進退』というごついエッセイ集に入っているんですけど(「父に似る」という題で収められています)。
 前置きとして、これは雑誌に求められたエッセイで、(その編集者は)「編集氏は『抱擁家族』からヒントを得て、あいつの家は抱擁しあって仲よく暮していると思ったか、あるいは、あいつの家は抱擁どころか、しごく下手な暮し方をしている家だと思ったのだろう。もし後者としたら、いくぶん当っている。」
 というくらいの認識を以てエッセイを乞うたのであろうという、すごい辛辣な入りですね。このような辛辣さが、自他含め方々に散らされるのが、また小島信夫の魅力の一つだと思うのですが。
 このエッセイの最後の方が、一言こう結ばれています。
「簡単に語れるくらいなら、私は小説など書きはしない。」
 つまり、さっき言ったような、「宙吊り状態」を、可能な限りどこかに回収することなく書くということですよね。のちに、この言葉に忠実に、本当に「簡単に」書くことをやめてしまい、大変なことになっていきますが。
 もう一つ、この書のこのフレーズを読むために古本屋をかけずったという、これもエッセイの一部があります。
「一つのセンテンスと次のセンテンス」というのがあって。
(紹介の仕方が悪かったかな……)
イコ: (考えながら読んでいます)
Pさん: 「ある高名な批評家の言葉」として、こういうのを挙げています。
「このごろは文章を書くのにどうも筆がのらない。そういうときには、ちょっとある接続詞を入れて見る。そうすると、進む、つまり自分をだますのだな」
 長くなってきたので、端的にまとめると、小島信夫はこういう風に、書くことそれ自体や、その運動に関して、またそれを指す言葉にも意識的で、その辺りの視点を公開してくれているこういうエッセイなどに、非常に考えさせられます。
 この「ひたすら次につなぐ」という方法については、のちに小泉八雲の評伝にも現れてきます。
 日居さんは、この小島信夫の、書くことそれ自体に意識的であるような言葉で、どこか印象に残ったところはないですか?
日居月諸: 身も蓋もなく言ってしまえば小島信夫の文章自体が意識なので、そういったことを抽出して語っているような言葉にはあんまり興味はないんです(苦笑)
 まあ言いきってしまうのも失礼なので、実例を挙げるだけで勘弁してください。一番印象に残っているのは安部公房の『砂の女』への書評で、砂漠地帯へ旅行に行ったときに砂女を思い出した、という書評なんだか書評じゃないんだか、という文章なのですが、これが面白かった。思考の運動がそのまま言葉になっている文章でしたね。
Pさん: ずいぶん直接的ですね……(笑)
日居月諸: いっそ『砂の女』よりもこっちのほうが面白い(笑)
Pさん: それこそ、身もフタもない言い方ばっかりしますよね(笑)
 

6 おわり

 
Pさん: ちょっと、話の流れをまとめきれていなくて申し訳ないですが、そろそろ時間も時間なので、締めさせていただこうと思います。
 小島信夫の中期、後期の強大さ、計り知れなさに関して、もう少し日居さんにうかがいたかったところですが、初期短篇や『抱擁家族』周りのことだけでも、お二人から興味深い視点をもらったという思いがします。
イコ: ありがとうございました。初期のことしか話せず申し訳ないです。
日居月諸: 中期や後期はどの道手に負えないんで助かったという思いです。
Pさん: 実は僕も……(笑)
 というわけで、どうもありがとうございました。そして、準備不足で申し訳なかったです。
イコ: おつかれさまでした。Pさんさん、進行ありがとうございました。
日居月諸: お疲れ様です。
Pさん: おつかれ様です!
(了)