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 る: さて開催です
 る: まず芸術性の定義というかうっすらとしたイメージ作りからはじめようと思うんだけど
 6: いいね
 る: まぁ、簡単に芸術的だと思った作品を
 る: 挙げていって、その芸術的たるゆえん
 6: をあげて行こうというわけですか。
 る: んです、おそらく、純文学的なものとは開きが出てくると思う
 6: なるほど純文学ノットイコール芸術性というわけか。
 る: 多分イコさんがこのテーマを決めたのは、詩と純文学という対立を考えたからだと思うからね
 6: OK。
 る: あと必然的にネタばれは起こりうるので、ここから先は注意深く読んでいってください
 6: 諸注意も終わったところで
 6: さっそく行きたいんだけど
 る: うい
 6: るさんの思い描く、芸術性がみなぎっている詩とは
 6: 何だろうか。
 る: まず、色々な芸術の方向性というのが考えられるんだけど、身近な所で言うと、寺山修司の短歌は一つの矛先かなと思う
 6: 寺山修司ね
 6: 具体的な作品は?
 る: 一首あげればいい?
 6: たのむ
 る: 「青空より破片あつめてきしごとき愛語を言えりわれに抱かれて」
 る: 短歌というのは必然、いわゆる「主観」芸術になるんですが。
 6: うん
 る: 枠にはめることが「主観」芸術の恥ずかしさというか、まぁ第三者から見た恥ずかしさを隠す作用をもっている
 る: 寺山という歌人は、それをよく心得ていて
 る: 結構、虚構を吐くんですよ
 る: この首は、小説の描写じゃ書けないと思う、恥ずかしくて
 6: そこにある「枠」というのは、短歌のルール=57577的な事?
 る: そうそう31文字の魔術
 6: なるほど、縛られた形式の中で
 6: 自らの主観を語ることは許されて、
 6: 小説は許されない。
 6: 理解できるね
 る: まぁ、小説で許されないってことはないけど、世界の中心で愛なんて叫んじゃったら、もう糞以外の何物でも無くなるよねって感じ
 6: うん、セカチューはこの話では、ちょっと違う文脈にあるね。
 6: 純愛だもの。
 る: なんというか、芸術的に
 る: ペーター・ハントケという人が、『幸せでないが、もういい』という小説で、そういう主観のぶちまけを意図的にしてるんだけど、何かしらの作為があって、そこに、ぶちまけがあるのかなぁとは思う
 6: ドイツの作家だね。
 6: 読んだことはないけど、ドイ語の先生が口に出していたな。
 る: オーストリアかな
 6: なるほど。
 6: 意図的にするのと、セカチュー的に
 6: 自覚なくやってしまうのは、どう違うのだろう
 6: あるいは、寺山の短歌とは。
 る: ナルシズムだと思うんだよね
 6: ふむ
 る: 純愛を人に語るって一つのナルシズムじゃないかい?
 6: 言えるね。
 る: そこに作為を持ってくる、寺山なら短歌という枷を持ってくる
 6: 「作為」というのは、ナルシズムに直進せずに、一歩ひいて
 6: 眺めているような状態のことかな。
 る: 今の段階ならそう言っていいと思う、俺の考えてることってすげー、そのまま書いたらみんな感動するやろなぁ、じゃダメ
 る: かといって、かの作品はみんなを感動させたんだけどね
 6: 主観の純愛を語る時にも、そこに絶対的に客観性は必要と言うことだね。
 る: そうだね、そういうことにして、それを脱構築していこうか
 6: おk
 6: 客観性は<芸術性>に関係しなくても、必要なものだね
 る: 「書く」という行為が一つの客観装置だから、絶対的に主観的な作品というのは無いと思うけどね
 6: そうか。
 6: たとえば<芸術性>は
 6: 客観性を担保しないと
 6: 得られないものだろうか。
 6: 芸術は爆発だ―って言葉には
 6: 客観性とかを無視した
 6: ひとつの力の噴出を
 6: 期待する何かだと思ってしまう。
 る: では
 る: 「抒情詩人」という現象についてちょっと語ろうと思う
 6: うむ
 る: ニーチェが、『悲劇の誕生』を世に出した頃、ヨーロッパの文化人は抒情詩人を「主観的」だからだめ。ホメロスこそ最高と考えていたんだよ
 6: ホメロスは主観的ではないってことか。
 る: うん、造形的って感じかな
 る: んでニーチェがあの著作でなにをやろうとしたのかっていうと、
 る: 前半で、その「客観」とか「主観」とかいう芸術区分を徹底的に論破した
 6: 面白いね。
 る: 芸術とは全てディオニュソス的なものから生まれる、というのが彼のテーゼで。
 る: ディオニュソス的、は説明しだすとめんどくさいから、簡単に言うけど、自分が個物であることを失った状態と言っておこう、
 る: 主観詩人は、自我を失い世界と一体化して、「アポロン的作用」によって「Ich=私」を語る、だから抒情詩人の「私」は世界そのものである、というんだけど、
 る: こういう主客の混同というのは、至る所で見つかるわけ、西田きたろーもそうだし、岡本太郎もそうなんじゃないかなと思う。
 る: つまり抒情詩人、或いは主観的な芸術家は、一度世界そのもの、世界の根源に触れてから語り出すからこそ、成立し得る、というのがニーチェの考えだね
 6: 分かりやすい説明だ。
 6: はるか昔から
 6: 詩人というのは、超越的な力を持っていると
 6: 言われているよね。
 6: 詩が未来を予見したり、何か大きな力をはらんでいたり、
 6: そういう詩の力は、「私」は世界そのものであるっていう意識からきているのかもしれないね。
 る: どんなふうにも説明できるだろうけど、ニーチェが現代に与えた影響を考えると、ニーチェの考えた抒情という現象というのは抜きにして通れないと思う
 6: ニーチェの言う抒情は単なる主観だけではなくて
 6: 主客の混交したものを意味しているのだよね。
 る: うん、だからさっきの寺山とかハントケとは違うタイプの芸術家を考える必要がある
 6: 寺山や、ハントケは、どこか客観性を持ちながら、主観を
 6: 出して言ったんだね。
 る: うん、つまりヘルダーリンを語る必要が出てくる
 6: ヘルダーリン、
 6: 聞かせておくれ。
 る: ヘルダーリンはまぁ、神がかり的な詩人なわけだけど
 る: 彼は分裂病で狂ったと言われているが
 る: 彼が『エーゲ海』を歌うとき『イスター川』を歌うとき『ドナウ川』を歌うとき、ヘルダーリンはもうそれ自体なんだよね
 6: うん、
 る: そこにさっきいった抒情詩人のタイプが認められると思うし、この人が日本の詩人に与えた影響も大きいと思う
 6: 伊藤静雄などに影響を与えたみたいだね。
 る: 芸術は爆発だ、という言説もここに多く拠っている所もあるのではないかと
 6: うーんでもまてよ。確かにヘルダーリンの凄さは、分かったけど
 6: そこから<芸術性とは何か>を考えるのは難しいなぁ
 る: うん、
 る: だから列挙していこうと思っている、そして、詩がわからないけど小説は読めるという人に少しでも足がかりにしてほしいとも思う
 6: おk。ありがとう。
 る: そこで6さんの考える芸術を聞きたい
 6: そうだなぁ。僕が考える芸術か。
 6: ほとんど考えたことないけど、今考えるよ。
 る: おk
 6: よく話されることだけど、芸術と言う概念自体が怪しいのではないかな。
 6: たとえば、何でもないツボあるいは便器を
 6: 美術館におくだけで
 6: それは芸術となってしまうよね。
 る: あー、名前でてこない
 6: デュシャン
 る: そうだ
 6: マルセル
 6: つまり、
 6: 本当の芸術と言うのはそういったパッケージングされていない
 6: いわばむき出しの状態
 6: 名付けられないもののようなアウラを持ったものかな。
 6: それが芸術―って呼んでしまったら、その価値は死んでしまうかもしれない何か。
 6: 僕の考える芸術ってそれかな
 る: デュシャンによって美術館の便器は芸術という言明が可能になったわけだけど
 6: うん
 る: つまり芸術は変容していく
 る: ということも性質のひとつと数えられる
 6: どうだろう。
 6: それは単なる事後性に過ぎないものではないかなって思っている。
 6: もちろん価値は変わっていくだろうけど。
 る: 芸術と呼びうるものは世界中に溢れているわけだ
 る: 何を芸術と呼ぶかというのは、時代がきめる、というのはあるだろなと思う
 る: そして6さんは芸術と呼ばれてしまったら、その価値は死ぬと考える
 6: うん、それはごく最小の単位で各個人が見出していいものだと思う。
 6: 流通したり、交換したりすると
 6: 芸術はそのアウラをなくして
 6: ただのフェティッシュな愛好家たちのおもちゃになってしまうんじゃないかな。
 6: 伝説って
 る: それはケージとかの現代音楽家にも言えるね
 6: うん
 6: 言えると思う。
 る: 所謂前衛というやつだ
 6: 伝説って言葉があるよね。
 る: うん
 6: 伝説っていうのは、その光景を
 6: 観たひとが多いと伝説っていうふうには
 6: ならないんだよ。
 る: ほう
 6: 伝説をみた人たちが
 6: ごく少数だから
 6: それは口伝えに伝承されて
 6: もう振り返ることのできないもの
 6: 再現不可能なものと
 6: して
 6: 湛えられていくんだよ
 る: なるほど、
 6: 讃え
 6: か。
 る: ソシュールの講義もその類だろうな 笑
 6: まあね。つまり、本来の芸術って、
 6: ほとんど観たひとがいなかった絵
 6: や聴いたひとが少人数のライブ
 6: に宿るものじゃないだろうか。
 6: そこには、観客がまだ経験したことのない何者かが
 6: 出てきて、嵐のような体験となってしまう。
 る: つまり6さんは芸術を、人間関係で捉えようとしている
 る: 広義の
 6: うーん
 6: 芸術は、貨幣ではないって言いたいのかな。
 6: 貨幣は王様と同じように
 6: 絶対的な存在だけどさ
 6: みんな貨幣を欲しがるよ。
 6: でも、貨幣はその下にある無数の商品と
 る: しかしその話は、ラカンの焼きまわしになりはしないだろうか
 6: 需要によって交換されてしまうよね
 6: かもしれない。
 6: ラカンも言ってるのかな
 6: そういったクラインのツボ的な
 6: 循環の輪に
 6: 陥るものではないはずだってことを言いたい。
 イコ: こんばんは。
 る: 俺と6さんは思想が好きみたいだから、これを聞いて、ラカンかなとか
 る: あ、こんばんは
 6: こんばんはです。
 6: 僕はベンヤミンの複製技術時代の芸術を参考にして
 6: しゃべっているつもりだけど
 6: そこで、写真のような、
 6: アウラをなくしたものをベンヤミンみたいに
 6: 賞賛したりは、何となくできない。
 6: ベンヤミンの逆で
 6: 流通してしまわないものが芸術だと言いたい。
 6: つまり凄いクラシックのライブがあって
 6: そこに参加して、感動する。
 6: だけどそれがCD化されたり、盗聴されていて
 6: ようつべとかで流れた瞬間
 6: 終わってしまうと思うよ。
 6: もう振り返ることのできないもの
 6: たとえば、故人を偲ぶときのような気持ちで
 6: 過去に体験した芸術を語るしか
 6: 方法がないことを言いたいのかな。
 6: 再現不可能性こそが芸術だと。
 る: ピカソの絵を見て芸術的だとぬかすのはちゃんちゃらおかしい?
 6: 難しいなぁ
 6: 理想を高く言えば、
 6: ピカソって芸術家が
 6: まだ無名のときにその絵をみて
 6: 感動することができたら、それは芸術を感じたことになると思う。
 る: タイタニックにそんなシーンあったね
 6: だっけ。
 る: しかし、その定義だと文学における芸術とは何かという問題から遠ざかってしまう
 6: そうだね。
 る: 俺は文章を書くのに、模倣というのをかなり使う
 6: うん
 る: ある程度再現できる、しかしそれだけではだめだ
 イコ: ごめんなさい、まだ回線不安定です。しばらくログ読んできます。今日は二人に勉強させてもらうつもりで来ました。たぶん言葉数は少ないですが、率直な気持で語れればいいと思います。
 る: りょうかいです。
 6: いや、イコさんの助けも必要だと思います。
 イコ: うん、盛り上がってるとこ、水差してごめんね。続けてください。
 6: 模倣ではだめだって話だよね。
 る: しばし整理させてくれ
 る: 6さんの考えにしたがえば、芸術ってとても前衛的だよね
 6: かなぁ僕は前衛って言葉が嫌いなんだけど
 る: 真の意味でプログレッシブっていうのかな
 6: 『さようなら、ギャングたち』で高橋源一郎が
 6: 登場したとき、あれは文学における
 6: 芸術だったんじゃないかな
 る: それならば、小説においては、コンセプト、設定、語り方の新しさが芸術性に寄与するわけ?
 6: うーんそういう風に腑わけされてしまうと
 6: その通りかもしれないけど、
 6: まだ見たことないギョっとするものが
 6: でた感覚じゃないかな
 6: 世界文学で言うと、ベケットの誕生時のような。
 る: ならばそういう意味での芸術ではない純文学もあるよね
 6: そうかもしれないね。
 る: しかも優れたやつ
 6: あるだろう。
 る: そこが最初に話題にした純文学と芸術性の乖離に繋がるのかな
 6: こんどわさ。純文学を定義してみない?
 る: 贋金づくりを語るの?
 6: ジッド?
 る: あれはジッドが純文学とはこういうものだというのを提唱した小説だよね
 る: それを輸入して日本でも純文学論争というのが盛んになって、オダサクやら横光やらが、面白いことを言っている
 6: ああ、確か、面白いからこの小説はダメだとか言ってたやつだっけかな。
 る: 政治的だからダメとかね
 6: [21:56] る: <<< 小説においては、コンセプト、設定、語り方の新しさ
 6: やはり、これではないのだろうね。
 6: つまり、異化効果って
 6: あるじゃない?
 6: ロシアフォルマリスムの
 る: 俺は独文なのでブレヒトの理解に従うことになるけど
 6: 純文学に求められる芸術性ってあの異化効果を
 6: 追求するものじゃないかなって思う。
 6: 異化効果を振り返ると
 6: つまり描写って言う概念が
 6: 大事だとおもう
 6: ある物体を
 6: 描くときに、説明ならそれがその物体の概念を
 6: なぞるように描くのだろうけど
 6: 描写である物体を30枚とか描いてしまうと
 6: それは「そのもの」から離れた異なるものに
 6: 変化してしまうよね。
 る: 描写と説明ね
 6: 強引な例だけど、そういった異化効果を代表する文学だけが
 6: つくれる読書体験を与えてくれるものが
 6: 芸術性に寄与しようとする純文学の目的ではないだろうか。
 る: 横光とかオダサクはそんな純文学なら自分はやらないと言いだすんだけど、
 る: 「純粋文学」って言いだすね、スタンダールの「赤と黒」をもちだしたりして
 6: メンドクサイ話になりそうな気がしてきた。横光とかの話についていくと
 る: ちょっと小休止しようか
 6: 煙草すうんでしょww
 る: いや、禁煙中なのですよ
 る: お茶のみ―
 6: そうなのか。おk
 6: 小休止だね。
 イコ: すごいなあ
 イコ: 夢中で読んだ
 イコ: だから歯磨きしてる
 6: 歯磨きですか?
 イコ: さっぱりした!
 イコ: 「異化」って考え方は、今、大江健三郎がしきりに、「文学の言葉」って言ってるものと同じなんじゃないかな。
 6: だと思います!
 イコ: かれもロシアフォルマリスムを例にあげてたよ、たしか
 6: イコさんは芸術についてどう考えますか?
 イコ: まとまんないやー。
 6: うーんそうですね。まとまってしまってはダメなのかもしれない。
 イコ: んでもさ、いわゆる「純文学」と「詩」は、決して対立するもんじゃないな、って、最近思ってるよ
 る: もちろん
 イコ: むしろね、小説書く人は、詩人である必要もあるよなーって。
 る: この座談会では両者をちょっとづつ歩み寄らせようという試みもあったり
 イコ: なるほどね!
 イコ: 芥川の、文芸的な~にも出てきたけど
 イコ: 志賀直哉の、腹についてる砂の表現
 イコ: あれは志賀の、詩人の面が出た表現だと思うんだよね
 る: うん
 イコ: なんかね、ちょっと話は前後するけど、新聞記者と、文学者って違うよなって思いがあって
 イコ: 新聞記者は、起きたことをできるだけ客観的、ありのままに記述することを求められる(実際そうなってはないんだけど)
 イコ: 文学者は、そうじゃなくて、さっきあげた志賀のような、「実際には見えていないかもしれない」ものまで、膨らませて書く必要があるんだろうなと
 る: つまり伝達としての「記号」と、表現としての「記号」の差異、かな
 イコ: そうですね
 イコ: その表現のために、とにかく血道をあげるのが、文学者だよなと。
 る: ただ文学は、伝達でもありうると思う
 イコ: うん、たしかに。
 る: マックスフリッシュ、というスイスの作家が、「報告」という小説を書いているんだけど
 る: ほとんど行政的な報告とかわらないの。
 イコ: へえ
 る: 伝達としての「記号」のなかに異化として表現を埋め込む。
 イコ: あ、なるほど。じゃあ伝達「のみ」ではないということだね
 る: うん、
 6: 現代で言うと青木淳吾だー。
 る: 6さん詳しいなぁ、ちなみにフリッシュも現代作家
 6: いや、青木さんを好きなだけなので
 イコ: 6さんもるさんもほんとにお詳しい。上のやりとりだけで十分勉強になりました。
 6: http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AA%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%A5
 6: フリシュのwikiです
 イコ: ありがとう!
 る: 『勤務日誌』というのがさっきいったそれかも
 る: 記憶があいまい
 イコ: 図書館に行けばある・・・かな?
 る: 売れっ子だから多分
 イコ: よさそうなものを教えてもらった
 る: ぼちぼち見えてきたと思うんだけど
 る: 詩と小説ってそこまで違いは無いんだよね
 る: 詩も表現としての「記号」を扱うジャンルだ。
 る: ただ密度が濃い、
 6: そうだね。
 る: ここでいう小説というのはさっき6さんが言った純文学とは違うけれど
 る: あ、『勤務日誌』日本語訳出てないんだ。。
 6: 詩の芸術性
 6: 小説の芸術性は
 6: つまるところ
 6: 同じということかな。
 6: 記号で何かを与えるって点で……。
 6: もう少し何かにせまりたいね。
 る: そうだなぁ
 る: ただ、芥川が長編を書けなかった理由が、詩と小説の違いにあるのかもしれない
 イコ: 芥川は自分を詩人だと言っていたね
 る: うん、その気持ちはすごいわかる、詩の密度で小説を書こうとしてもそれはムリ
 る: だからといって小説がスカスカというわけではない
 イコ: そうだなあ
 イコ: 小説書く人にはある程度分かってもらえると思うんだけど、小説はある種のめんどくささを抱えてる
 イコ: たとえばカギカッコの後に、誰が言ったのかを書かなきゃならなかったりする
 る: 俺書かないww
 6: でも分かります。
 イコ: 極力排したとしてもね、そういう鬱陶しさってあると思うんだ
 る: 伝達としての「記号」をね
 イコ: そうそう、伝達が、どうしても必要になってくるんだ
 6: 読者を置き去りにはできないですよね。意味を放棄できないジャンルだ。
 イコ: すべて表現、というわけにはいかないんだよね、なかなか。
 6: 対して詩は、意味の呪縛なしに
 6: 言葉を選択することができるんじゃないか。
 イコ: その言葉の短さが、逆に、自由につながってるよなーって思う。だからこそ小説  とは別の意味で難しいのかもしれないけれど。
 る: どっちも読み手の生理に適った表現様式だと思う、小説も詩も
 る: まぁこの辺で、出尽くした?
 6: そうかもしれない。出尽くしたのかもしれない。
 イコ: すんません、ろくなこと言えず・・・
 る: というか、今のおれらの限界かなぁ
 6: 整理して行こう。
 6: 最初に詩と小説について
 6: 芸術性とはどこから来るのかを考えた。
 イコ: うん。整理してもらえると助かります。
 6: そして、
 6: それは
 6: 客観性を担保して、主観的な感情を
 6: 様式の中にのせていくことで
 6: ある種の照れを消していた。
 6: 一歩ひいて主観的な芸術として、生み出していた。
 6: しかしヘルダーリンに代表されるように
 6: ニーチェが芸術に見出したのは、
 6: デュオニソス的な、主客の混交ーもっと正確にいえば
 6: 喪失によって、
 6: 芸術は生まれえるものだというのが
 6: るさんが教えてくれた芸術性
 6: そして、
 6: 6が示したのは、芸術という言葉は既に
 6: ある感動をパーッケージの中に押しとどめてしまう
 6: 死の言葉に過ぎないと言った。
 6: 美術館に並べられた途端にその意義をなくしてしまうような
 6: つまり、感動は名前のない感情が沸き起こる瞬間にこそ
 6: 生まれる。
 6: なので、芸術はそうした流通していないまだ未成熟な
 6: 生まれおちた何かであったり、まだ発見されていないものだと思う。
 6: 交換して貨幣のように誰かの手から手へと手あかにまみれたのは
 6: すでに、倒錯した感動があると思う。
 6: それが6の芸術性について考えること。
 6: それでは、上記2つの芸術性を
 6: 考えた後で、小説における芸術性とは何かを考えて見ると
 6: 小説においての芸術性ーつまり純文学における芸術性とは
 6: 文学だけが体験させられることのできる、感動。
 6: それは、異化効果のような言葉で説明可能かもしれない。
 6: そうしたときに、詩と小説を並べて見ると
 6: この二つに大きな違いはないことが分かる。
 6: 新聞記者と小説家は同じ言葉と言う記号を
 6: どのように使っているかと言うと
 6: 新聞記者は、伝達を目的として
 6: 小説家は、表現を目的として使っている。
 6: 詩も同じく表現として、記号を使用する。
 6: ごめん、あとぎろんについていけてなかった
 6: 後誰か最後まとめてww
 イコ: ありがとう。おれの意見は本筋からは少し離れていたと思う。だからこんなとこ  ろでいいんじゃないかな。明快です。
 る: うん
 る: 6さんがいてくれてよかった 笑
 6: arigatou
 る: 課題は残る座談会でしたが
 る: 以上をもって閉幕ぅ閉幕ぅ