twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

In rhythm――断章:光枝初郎

「In rhythm――断章」光枝初郎.pdf
PDFファイル 337.7 KB

 愛に似た偽りの感情の放出。それは一過性のものであり、ゆえに真実にあらず。好意を抱くはたいてい欲望のゆえなり。欲望と人間は切っても切れぬ関係にあるから、むしろ欲望の現象学を我々は学ばねばならぬ。しかし、自己がこの身体に一度限定されたのなら、もはや欲望を他に抱くことは不可避。決してこれは世界に対する愛ではない……。そうだと分かりながら今日も偽善を生きるのである。虚偽を戯れるのである。詐欺を重ねるのである。愛を消費するのである。

 

化合物というのは一種の概念である……即ち何かと何かが混ざって新種の物体が出来あがるというそれ。この場合、私が数日前に感じたものものしい吐き気というものも、いわば唯物論的な思考で原因を求めることができるだろう。すなわち、どろりとした父親への感情、そして胃に穴があくほどの酒、酒。いつの日か感じた眩暈もこれに加えてもいいのかもしれない。とにかく情けないものはそれを累乗するかのように何かの効果を生み出し、それがさらに精神的なものに対して悪を送り返す。そういうもので日々ができあがってしまったとき、私たちはそれを絶望と呼ぶだろう。このとき、絶望へ至る道というのが、案外遠くないことにも、今さら驚きを憶えるのである。

 

 素晴らしいものの組み合わせをひとつ挙げよう。それは太陽と心臓である。その類似点を挙げてみよう……。一、それは世界構成にとって必要不可欠であるということ。太陽は、地球環境が成立し生命が誕生するためにはなくてはならない。かたや、心臓は人間のポンプ、中心である――頭脳と共に、或いは頭脳無しでも(脳性まひ患者を思い浮かべよ)。二、それらは触れられない。太陽は直接見ることができない。心臓を取り出した時にはもう自分は死んでいる。三、それらはどちらもマグマである。おどろおどろしい生命力をふんだんにたぎらせた、真っ赤なマグマ。さてこのことから、ある一つの仮説が導き出される。太陽と心臓は隠喩的な意味において等価であるということ。つまり、人間の心臓は太陽なのである。対象としての太陽ではない。それ自身において、燃えたぎる生命の源、それ自身において太陽である心臓。人間は自己の内に心臓を持つ。つまり、太陽を持つ。人間は内在的な意味において、生命そのものなのである。或いはこう言える。生命、それが大切である、と。生命の哲学の系譜を洗い出す作業はすでに見たところ少なくない場所においてはじまっているようだ……。それとともに、生命―非生命の対立軸、いっそう「生命とは何か」が問われるであろう。このことを問うとき、私たちは生命が誕生した地球の発生にまで遡って哲学的な、あるいは文学的行為をなすことを私たちの内奥から要請されるであろう……。地球を問う作業はまだ始まったばかりである。

 

 詩的なもの、が……此処、から、退いていく、中断する。しかし他方でこの肉体の五感という五感は研ぎ澄まされていく感触もある。とにかく対立、男と女、資本家と労働者、神と人間、ライオンとシマウマ、政府と大衆、医師と患者、西洋と東洋、昼と夜、何から何まで……。“君とは肌の色がどうも違うようだ”、うむ、それはそうなのかもしれない、さてどうしよう。ねぇ、笑いあえる日はくるか。理解なんていい。ただ、ウィと、存在それ自身を、他としての存在を、半分は肯定できるかのような、そのような態度を人間は形成することができるだろうか? ひとえに歴史はこの点にかかっている。あなたとは違うもの、それを全肯定するでもなく全否定するでもなく、ただしかしフィリア――友愛――の精神を少しながら持って……。こうして、こうして、最初の詩的な感覚から、しだいに政治の舞台へと上昇していく。

 

 うだるような熱気のこの中心から逸れていく、その衝撃的な死への恐怖、をどうすればいいのか……。何、またスコールがうずまく、それに対して我々は如何せん、どうしようもない、とりあえず小手先で対処したまへ。そんなことは分かっている、しかしナァ……。暑い、暑い、その熱気が、なんともこの球体をすっぽり包み、なんと、その球体は、どこからともなく、守られ、しかし閉じ込められ、つまり幽閉され、なんだかどんどんわけのわからないことになっていく……。息する、呼吸が苦しくなる、といっても別に死ぬ必要なんてこれっぽっちもないんだがね! そう、例えばあの人は人生の岐路に立たされた。それから彼がどうなるかは、ひとえに何か真摯なものに懸っているといっても、まったく過言ではないのだ。それも感覚では分かる……。それでは、それでは、私はあの人を窮極的に救うことができるのだろうか? 解答は保留のままである……。 

 

 なにゆえAとBがありとあらゆる諸存在の中から一挙に焦点化されるのか……それは存在がその己の中心を生きるがゆえのことである、そのとき彼が持つモノやヒトとの関係性は有限となる。無限からいい加減解き放たれよ。有限を肯定したらば、別の世界認識=構成がはじまる。

 無数の点のざわめき……星などという形容は合わない、なぜならば私は星が動くのをあまり見たことがないから。もっとおどろおどろしく、邪魔くさくて、手に負えなくて、もどかしく、切なくて、許せないような、しかし諸々の点は確かに流動して、あちこちへと飛び交い、それが時に美しい瞬間瞬間を作成する――世界ハ動ク。速度ゼロから百まで。動かないものなんてあるのだろうか? そして私は適当に/適度に動いていく貴方を愛していたい。

 

 変身願望。外、を見つめることであなたは何かを取り込もうとする。夢、蝶の夢、例えばそれは夢の中の蝶のように桜の花の色をした幻想的な色彩の……。えぇ、或いは根元から、根っからの異国人なんですねという言い方が妥当であろう、金髪を敢えてウィッグで装うんです、しかしそれはほぼ精神Cの持ち主によってまた別のものに変奏=変装されていく、実に巧いやり方で。けっきょく変身は厳密な意味では失敗するのだけれども、その失敗が新たな道へ結果としてつづいていく、希望があらわれる。変身願望にとりつかれる女の子たちはいつでもときめいている。美しい、可愛い、いやグロテスク、堕落的、変態的、猟奇的、幻想的。トリツカレタラバ、今度はあなたが憑りついてしまうほどに、対象を変えていくのです、あなたが蝶の夢や夢の蝶となって、胡蝶となって、跳となって――。

 

 那由他に拡がる空――無数の煌めき、ただ短いじかんの中で見ることのできる、感じることのできる、そんな世界があった――ある。夜だよ、夜の闇だよ、ここにはコンビニエンスストアも無いから、星がよく見えるね。天文学者の息子或いはそれに準じる者。ねぇ、なぜ星は在るのだろう、それとこの地球を見た人は「地球は青かった」なんて言ったらしいけど、それは本当なのだろうか? 青い星……聡明で、透明で、たくさんの命を決して放り投げようとしない、それが地球……なのかな。星。なぜ簡単には宇宙に行けないのだろう、たくさんお金を持ってないと、いやそれはやっぱり、星を見れる人は限られるんだよ……なんで? 幻滅とかいろいろしちゃうんじゃないの、実際宇宙に行くとさ。成程、そういうこともあるのかもしれない、地球とあの小さな煌めきは、信じられないほど距離が遠く隔たっていて、でもその存在を確かめる術はある。そう、那由他に拡がる空、幾つもの煌めき。僕たちはいつも空を見上げて、元気をもらう。

 

 ひるはひだりによってよるはみぎによってよりてこころここにあらず。がんめんのなかにてあかいろのにほひあらわれたり、かれらこいなかにありしとぞしる。

 

 螺旋階段につらなる一つの部屋、そこから瞬く光が現れて、その光は螺旋階段の艶美なうねりとともにひとつの系列をつくる――そうしてできた系列からまたほかの系列へ、そうしてそれらが集まってひとつのまとまった世界を作る。さきほど在った部屋はもうだいぶ遠い、それはしっかり包まれて安全な場所にある。この世界は僕たちの記憶を優しく守る。記憶は安全に保管されて、いつでも引き出されるように。偏執的なところはない。僕たちはポケットからひとつの鍵――それは金色である――を取り出し、その世界の扉をそっと閉めておく……ふたたび開かれる時が来るまで。

 

 一筋の光……その光のなかには暗きぬめりのようなものがあって、それは人を惑わせもするし、そればかりか人の心を誘惑して、虜にさせるどころか、人を堕落させ腐敗させる危険性をも秘めている。それを美的だと形容することもできるだろう……。光にはどこかおぞましい側面がある。そう、綺麗で聡明なイメージとして塗り固められたものでは決してないということに、私たちは思いを馳せなければならない。光、それは誘惑するものである。飛んで火にいる夏の虫たちのように? なぜ数多くもの人が、そういった光を飽くことなく求め、一部は退廃の道へと溺れて行くのだろう……。堕落への美学、いや美学などともったいぶった表現をしなくとも、それをそれとして肯定する私たちの態度が求められているのかもしれない。光、それはいつも両義的なものである。光、それは美しくもあり、同時に汚らわしいものでもある。光の悪点を肯定することができようか? 光に翻弄されていく人々、その人生、そのなかで葛藤し、あるいは激怒し、それでも真摯に受け止めようとする態度……。光ヲ肯定セヨ。単純に実行できるものではない。私たちはそれを理念として受け止め、光について思考や感性を発揮させ、光以上のものを追求することができる、そんな夢想を抱くことはできよう、思念はどこまでも自由であるのだから。

 

 分からないことに罪の刃を向けることは非道徳的なのであろうか。無〈知〉に罪を問うこと……。〈知〉の形態は二つある。一、ある事物を知る/知らないのレヴェル。情報というおぞましきものが氾濫する中で、何かひとつの物事を知る/知らないことに果たしてどれだけの価値・重みがあるのだろうか? 知らないことに対しては何の罪も問われない。二、理解する/理解できない/理解しないというレヴェルにおける〈知〉。サヨクとウヨク、オトコとオンナ。「君を理解できない」。対立という枠、軸足が与えられたうえでの唾の引っかけ合いならまだいいのだ。特に立場を取らないこと――つまり最初のレヴェルにおける「知らない」を特化した存在者のこと。拒絶者。これも存在論的カテゴリの一つの形式である。問題的なのは、この〈拒絶者〉――何モ我ニ寄セツケルナ……――と、「知らない」の立場/存立の間で揺れ動く者なのだ。そしてその揺れ動く者たちに対して理解を呼びかける、一連の運動の意味……。分かってほしい、分かってくれないと話ができない或いは話せば分かる、等々。ここには、他性というものがまだよく思考されてもいない、倫理の欠如(ある種の、という意味ではあるが)といったものが認められるのかもしれない。啓蒙の限界。

 

 ことばをつかいすぎないようにすること、ことばを敢えて使わないこと、ことばを止めてみること、ことばを使うことは文字通り魔法の効果をもたらすということ……。ありていにいえば、魔法使いについてもう少し多角的に真面目に調べて考察するひつようがあるのだということ。ことばはそれとしては何の重みも幅も持たないしかし、書かれたり話されたりしたときに効果を発するようになるから、それだけで現実世界に多大な影響を与えるということ――その原初に立ち返れば、ことばをつかいすぎることに対してもっと僕たちは慎重になれるかもしれない。

 

 曖昧な領域の中で、きいろの君だけを取り出してみる……君は甘くて切ない、よく卵の焼かれたプリンの味覚。君から嫌われたくなかった。僕はたぶんずっと前から君が好きだった。だのに何も反省的でない僕は、君から距離を取ろうとした。丸みの中にある中心、それはとても秘蹟的で、そこからまばゆい瞬光が幾筋も放たれているのだ――そのために君の顔はいつもよく見えず、ぼやけている。その輪郭の曖昧さがたまらない。それでも君は僕に対して真剣に腹を立て、こことあそこが気に食わないの! と言って、僕を心底驚かせた。あまりに君を失ってしまいたくなかったから、僕は卒倒寸前だった、といえばそれは言い過ぎなのだろうか? もう一度、この瞼のなかで、君が僕に笑いかける。君はポラリス。

 

 フロリダから一種の防衛戦―線をはってここまでつなぎとめる、苦いコーヒーの味。暑い夏だからレモン果汁がよく染みる。私この前筑波に行きました、とてもクリーンな街並みでした、それ以上も以下もなし。そのあいだにこぼしたコーヒーでつくった一本の線に、蟻が群がる群がる、レモンの果汁に群がる群がる。それは駄目です、捨てておきなさい違うんだ母さん。所詮は子供、さりとて百七十回の奇跡をおこなう。白い宝石を見つけた時が全てのはじまりだった。そうこうしているうちに蟻は群がる、こぼしたコーヒーとレモン果汁に蜜を求めて群がる群がる。おい、今鐘の音が聞こえなかったか、幸せの音が、いやあれは単なる時報だ。鐘の音を聞いて神経症にかかった老人がいた。今や群がった蟻はたちどころに黒々とした領域を作って、こぼしたコーヒーやらレモン果汁やらを全て埋め尽くしてしまった、それらの存在など跡形もなく奪い取ってやるかの如く。

 

 kioku toku no kioku hoshi yume sora ai dokoka no kioku ituka mita nizi dokoka de okita senso kohi no azi yume ha yume de atta dokokaraka hitotuno utaga kikoeru natukashikute totemo sensaina dokokaraka sukui ga kaesareru tikaraduyoi tashikana toku no kioku yume de atta kioku natu no kioku.

 

今の人間が生きることはそれだけで真の犯罪を構成する。生き延びようとする意志はすべからく罪的である。

 

 瞬―切断。圧倒的なまでの非―意味、非意味的切断の、実に心地よいスピード。凛として時雨のTKが紡ぐあの全く意味の欠落した歌詞。しかし彼はいかにも情感的に歌を歌いあげるのだ――そのエネルギーと攻撃性と繊細さは一曲一曲を比類なき美しさへと昇華させる。あのような歌詞を、ポエムを聴いて、現代の若者たちは何を思っているだろうか――? あるいは、あのようなポエムを、ちらちらと、自分ながらに真似てみたりしているのだろうか?

       さらわれたい夏 Sadistic summer

                       (凛として時雨/Sadistic summer

 詩を書けば、世界が現れる、否、世界と自分との見えるようで見えない糸、道、そんなものが現れる。突如として現れる世界との結び付きに、いろんな角度から眺めてみては、もがいたり、それを必死で掴もうとしたりする。僕もかつてそんな高校生だった。詩を書け、詩を書け、歌を書け、ポエムを書け、自分の叫びをあげろ! そんな事を言ってみたい。こんな時代に、言葉というものにいろんな人が挑んでいくのも悪くはないだろう……。

 

 今のところのドゥルーズについて。時間が経てば経つほど、『差異と反復』はますます謎めいた書物のように感じられ、ドゥルーズの思想に対するドゥルージアン(追随者)の理解が様々に増えていく。小林徹氏の手による『経験と出来事』の言明は素晴らしい。氏による『意味の論理学』の素描と、それから『思想地図vol.4』に載っている千葉雅也氏のそれの解釈とを読み合わせると、ドゥルーズが哲学の世界観の地図として提示する表面―表層―深層という三つ組の構造論は、私にはますます地球の地質学的構造のアナロジーのように思えて仕方ない。表面、つまり地球の地上、地表では、人間たちがモノをいい、勝手に高層ビルなどを建てては〈自然〉破壊に勤しむ。このことに、意味はないのだ。それは、例えば資本主義に究極のテロスといったものは存在しないように。「意味の意味はない」、その非意味の論理を掴むこと。

 地球の深層では、マグマが沸き立っている。私たち人間はそこに立ち入ることができない。管理もできない。星の謎。星の中心には、燃えたぎる破壊的で生命的なマグマがいつも在る。

 地球の深層というと、私はモグラを思い浮かべる。地層の中を自由に? 勝手気ままにかは分からないが、掘っては動き回ってミミズを食べるモグラ。確かに彼らは地上の世界から身を隠している。ミミズもだ。ミミズは地上で捕えられたら、人間の魚釣りのエサなどにされたりもする。環世界。モグラ的生=ツイッター的(いつ浮上しても構わない、過去のツイートを「掘る」、基本的にはネクラな連中がワイワイやる空間、等々)だとはいえないだろうか。モグラの生態学とツイッターの社会学との総合が必要だ。

 ドゥルーズの研究者たちは、(一)ドゥルーズ本人が何を言ったかの解明に次第に決着をつけはじめ、やがて(ニ)ドゥルージアンとして思想を批判的に継承していく、という動向になりつつある。それにしてもドゥルーズは「危険」な思想家だ。ドゥルージアンが大真面目に自分たちの主張を展開しはじめたということは、これから世界には危険がまとわりついて離れない、そんな戦慄にも恐怖にも似た事態が待ち受けていることを示唆している、間違いなく。

 

 月を見る―月を想う。あの星の表面に奇しくも人類が舞い降りただなんて! 私には信じられない、ひとつも信じられない。あるいは月に舞い降りた宇宙飛行士は遂に地球に帰ってくる事が出来なかった……、とかいうほうがまだマシだ。月に人類がいるなんてバカバカしすぎる……。地球と月との絶対的距離。夜想曲の旋律が、消えてしまう。日本人も西洋人もそれぞれに想いを馳せたあの月は、将来見る影もなく跡形を消すかもしれない――。

 

In rhythm. In-rhythm, rhizome. リゾーム、リズムの中に。リズムの中へ。この馬鹿げた精神と身体をリズムの中へすっぽり包ませてしまうこと。ダンスの境地。音楽だけが在る、何と美しいんだろう! 世界は声voirの響きでひしめきあっている、あなたの声、私の声、誰かの声、リフレイン、リトルネロ。

 

 愛が美しい。何が美しい。人が美しい。誰が美しい。彼が美しい。どれが美しい。緑が美しい。何が来る? 誰が来る? 聞こえない声にそれでも注意して耳を傾ける……音の複雑な絡み合いがある。誰も聞いた事のない音がある。誰も実現したことのないリズムがある。誰も思いだしたことのない速度がある。頭の調子がちょっと重い、でも体は軽い、何よりもバランスが大切だ。今日は誰が来て、明日は誰が来て、昨日は彼が来て、明後日は彼女が来て、来ることだけが来る。何度も、何度も。

 

 藍色のガラスの破片が宙に飛ぶ。夢だと思って夢の中でその破片に手を伸ばす。掴もうと思ったらそれは球体になって手をかすめて横に飛んで行った。何もかもが曖昧だ。路上でギコギコと三輪車を走らせる男の子。上から受ける日射しに眩しそうにして男の子についていく若い女性。体があたたかい。そう思って手を見たら段々水の中で絵具が溶けて広がっていくように、手の輪郭も空気にゆっくり溶けていくのが分かった。膨張。何度も見たことがある。こうやって消失することは悪いことではない。声が飛んでいく音がはじけとんでいく。真昼の既視と消失、幾つかの光と色、怠惰。(了)