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マイ・フーリッシュ・ハート(第二回):る

 そういった音色が僕の耳のなかで、まるで小さなコップにオレンジジュースを注ぐかのように、溢れ出しそうになったとき――こういった空想は、ちょうど今が夕暮れ時であるから、僕の頭の中に現れたのかもしれない――一人の花売りの少女が、タタラン、と上手にステップを踏めないで、西日色に染まる街路で、佇もうと思ったわけでもなく、丁度、佇んでしまっているのを見つけた。それに至る過程を注視していると、彼女の足取りというのは、他の少女達のように、この世のことなら何もかもわかりきっているの、といった風の、訳知り顔で、かつはっきりとしたステップではなく、足場のつかめない、真っ暗闇の山の中で、我々人類が強いられざるを得ないような、あの朧げなステップを、踏むかと思ったら、途端に次のステップのやり場を失くしてしまうような次第で、動力を失ってしまったネジ巻き人形のように、だんだんと歯切れが悪くなり――とはいえ最初から歯切れが良かったとはいえないのだが――やがて動くことすら適わなくなる、というのを、何度も繰り返していた。僕はそれまで、西日色に染め上げられたこのとりたてて注釈する必要も感じられない街路にあって、タタラン、という健気な音楽に、ある種のセンチメンタリズムを刺激されていたのだが、その少女――彼女はすでに舞踏というものを半ば諦めていた――の弱弱しさというほどでもないが、なんと言えばいいのか、つまり、覚束なさに、はっきりとステップを踏む他の少女達にもまして、心を奪われていたのだ。彼女を見つめていると、不思議と、詩のことを思い出さずにはいられなかった。幼いころに読んだことのある詩、というのも僕はかれこれ20年近く、公式に詩と銘打たれた書物を読んだことはないのだが、不確かな記憶をたぐり寄せていくと、そこには確かに、詩、と呼ばれうる、或いはそう呼ぶほかないような記憶の領域に突き当たってしまう、というよりも、もっと柔らかく繊細に、或いは真綿のようなもので包み込まれてしまうように、僕の思考のベクトルというものが絡め取られてしまうのだが、そういう原初の記憶の領域というものははっきりと、というほど確かなものではないが、僕にとっては自明と思われるようなあり方で、脳みそのどこかに存在していて、彼女がまた覚束ないステップを踏むたびに、そういう幼い頃の記憶、というか感覚が、愛撫されるように、他の雑多な領域から際立たされ、識別され、意識のうちに首をもたげるのを感じたのだ。

 いつまでもこの光景をみていたい、そしてそのまま朽ち果ててもいい、というような感覚が僕の考える力を奪い去ろうとした時、座っていた街路沿いのベンチからは見えない方角にある公園から、大勢のダケントルルスと思しき足音が背後に迫っていることに気がついた。威勢よくステップを踏んでいた少女達はダケントルルスの足音が聞こえるや否やそのステップを止め帰路についたことを、僕は誰も居なくなった街路を見ることによって――このとき僕は紛れも無くその街路を見ていたという事実と、その見ていたはずの街路から一斉に少女達がいなくなってしまったことに気付かなかった事実との相反する状況に、自らの認識能力を疑いの目を向けた――知った。けれどもその一人の少女だけは、いつまでも、そのステップとは呼べない、ステップを踏もうとし続けていたのだが、花を売るべき相手もまた、ダケントルルスの足音と共に去ってしまったことに気付いたのだろうか、いつのまにかその行為はきれぎれになっていき、しまいには薄い闇が垂れ込めるただなかで、どこか救い手を求めるような目つきで中空を見つめているだけになっていた。

 明くる日も仕事を終えた僕は、彼女のあのステップとは呼べないステップを、舞踏と呼ぶにはあまりにも覚束ない、その足取りを、求めるようにその街路沿いのベンチに座っていた。その足取りが、僕にとってとてつもなく大事なことのように思われたのだ。けれどもそれはとても微かな予感でしかなかった。しかし予感とは一体なんだろうか、とすかさずそれを問わずにはいられなかった。僕は予感という語彙が持つ、ある種未来への志向性を、訪れるべきものという性格を、頑なに拒絶したい気分になった。それというのも僕が彼女を通して得るものというのは、全くもって僕の過去であり、ただし過去と呼べるほど確かな、つまり遡れば確かにそこにある、という確実性を完全に放棄したものであるのだが、結局は過去としか呼びようがない領分に属している事柄であることに変わりない、その曖昧な心の揺れは、ただただもう訪れないものを懐しむ感覚としてだけ、この身体というフィルムに焼き付いた残影としてだけ、僕に享受されるべきものだと思われたのだ。しかし(と僕は思った)それは同時に予感としか呼びようがないものではないか。頑なに過去という領分に押しやられたそれは、本来訪れるべきものとして、つまり未来として、僕の中で萌芽しつつあるものではないか、とも思われるのだ。

 彼女は今日もまた、あのステップとは呼べないステップを、舞踏と呼ぶにはあまりにも覚束ない、その足取りを、誰に披露するわけでもなく、繰り返していた。その一歩一歩に、僕のある感覚が、他の雑多な領域から際立たされ、識別されていくのを感じ、その感覚が僕の意識の中でもうこれ以上ないくらい膨張しきったときに、「きまって」ダケントルルスの足音が聞こえるのだ。きまって? と自らにそう問いただした。しかし、きまって、としか言いようがなかった。僕はこのとりたてて注釈する必要も感じられない街路沿いのベンチに座って、一人の少女が繰り返すあの覚束ない足取りを「再び」眺めていただけのはずだった。にもかかわらず、僕にとってそれは「きまって」としか言いようがないかたちで現れ、いつのまにか自らが寓話とでもいうべき、いわば必然性の迷路に迷い込んでいることを確信した。つまりこの出来事が、過去にも起こり、現在にも起こり、そして未来にも起こり得るという、通常我々が関わり得る出来事とは全く異質なあり方で、つまり一種の寓話として、今、現に差し迫っているということを、一抹の恐怖を覚えつつ、確信したのだ。少女は「いつもと同じように」薄い闇が垂れ込めるなか、視線を中空に固定したまま佇んでいた。薄闇のなかで、大勢のダケントルルスの背に敷き詰められた尖りが、街灯の光を受けて、ぼやぼやと浮き出しにされ、やがて街路の向こうへ消えていった。

 家に帰ると、そこには見慣れた家具や日用品や嗜好品がいつものように配置されており、確かにその配置というのは見慣れたものであるのだけれども、決して今日の午後に感じたような必然性の迷路という現れ方ではなく、一回性というものを帯びて、つまり僕が今、靴を脱ぎ、玄関に上がって洗面台の前まで行き、手を洗うために泡立てたこの石鹸が、やがて小さくなって、この世から消え去るだろうという確信を伴って現れ、僕を安堵させた。僕は今日の午後の出来事について考えようと試みたのだが、その試みはいずれもうまくいかなかった。それは論理の届かないところに位置する寓話であり、まるで蝶のように思考の少しだけ上方でひらひらと舞うだけであった。そうしているうちに時計の針は十分に深夜と呼べる時刻を指し示していたし、のしかかる睡魔もじわじわとその重さを増していくように思えたのだが、僕はある一つのことが気がかりで、このまま眠ってしまってもいいのだが、という考えを押しのけ、かといい何かを一心に思い悩むでもなく、夜の独特な孤独感の中で、どこかしら浮遊感を持ったように感じる自らの心情を、ただ闇雲に浮かばせるままにしておいた。その心情というのは、言うまでも無く、今日の午後――それは昨日の午後でもあり、同時にかつてと呼ばれる時間全てでもあり、そして未来でもあり得るのかもしれない――に感じた、あの少女が引き起こした感覚に違いなかった。彼女のあのステップとは呼べないステップ、舞踏と呼ぶにはあまりにも覚束ない、あの足取りというものを、僕は以前どこかで、遠い昔か、はたまた遠い未来で、確かに経験したのだ。詩、と呼びうる、そう呼ぶほかないような領域を……。一昨日、あの部屋で――そう、部屋と呼ぶほかないその空間で――ある詩人と思しき人物に出会ったこと、そして彼を直感的に詩人だと断じたこと、彼もまたこちらのことを詩人だと知っていたことを思い出し、その記憶がまさか嘘ではなかったか、と疑念を挟んだが、スーツに入れっぱなしにしておいたあのフジツボを見つけ出し、やはりあの日起きたことは確かに、つまり夢とか幻の類ではない、現実として起きたことだということを確信したのだが、それと同時に、僕は、何故そのことに今まで気付かなかったのだろうか、何故彼は僕のことを詩人だと知っていたのか、そして何故僕はあれほど簡単に自らを詩人と自称することができたのか、といった次々に溢れ出てくる疑念に愕然とした。


 つまり、僕は生まれてこの方、詩なんてものを一度も書いたことがないのだ。