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第11回「アサッテの人」

第11回芥川賞読書会

 日時:9月24日(月)21時~

 場所:skypeチャット

 ホスト:6

 作品:「アサッテの人」諏訪哲史(第137回)

 参加者:  緑川、安部

 

6: 『アサッテの人』読書会 はじめましょうか。

KOUSAKU Abe: こんばんはー。始めましょう!

6: 緑川さん、いらっしゃいませんか?

6: いらっしゃらないようで・・・いつでも入ってきてくださいねー

6: では安部さんはじめましょう。

KOUSAKU Abe: はじめましょー

6: 今回が初読でしたか。

KOUSAKU Abe: はい!

6: 自分は再読して、以前とはまた違った感慨を持ちながら読みました。読んでみていかがでしたか。

KOUSAKU Abe: なんだか、今までに読んだことあるような気がしながらも、読んだことのない作品でした。

既視観とは言わないまでも、どこかわかりやすさがあって、それがそつない感じを生み出していたような。でも、実際、彼が文庫版あとがきでも述べているように、滅多メタメタフィクションで、昨今蔓延るメタフィクションへのアンチテーゼとして書かれたというのも、文章からにじみ出る、嫌悪感と言うか孤独感というか、本質を言い当てたいという熱意を感じ、なるほど、と思いながら読んでいました。

あと、おじの気持ちがさりげなくきちんと描かれていて、なかなかやるな!とおもいながら読んでました。

面白かったし、怖かったですね。

6: そうですね。この作品は「何か」との距離を描いたものであるとおもう。それは今、世界にはびこっている「なにか」がこの叔父や語り手がとても嫌悪するものでそこからいかに脱却するか、その過程をみているような印象をうけました。文庫版のあとがきが気になります。ハードカバーでしかもってない・・・。メタフィクションのアンチテーゼとのことでしたが、僕がこの作品に見たある種の態度は二作目の「りすん」もそうなのですが、00年代にはやったある種の純愛小説に対する嫌悪感からきているかと思って読んでいました。当時僕もおなじような距離を世界に感じていたので痛快におもい、深く共感したおぼえがあります。

KOUSAKU Abe: そうですね、「何か」。恐らく反復的で正体をみせない、「何か」と呼ばれる者、呼ばれるしかないもの、呼ばれるしか値しないもの。まあ、それは例えば小説の作者だったりするかもしれませんが、とにかく超越的に存在する手によってある種の運命を決められる感じ、非常に紋切的な存在形式を押し付けられる感じ、作者が作品の中に入る事で、作者である自分が、作中に(自ずと没する)自分を操作し始める小説、それに対する嫌悪感かなと思いました。

あとがきは、これまでこの小説が「メタフィクション」と謳われていることに辟易として書いた方がいいことを書く、というスタンスで書いています。ちゃんと読めてれば大丈夫なあとがきですが、論じるなら根拠とはなり得るかな。でもまあ「アンチテーゼ」として、「テーゼ」の形式を取らなければならない、ってことを言ってますね。

なるほど、他の作品も読んでみたいですが、まだ読んだことないので、そこらへんの比較はできてません。が、なるほど、ある種の純愛小説とは、どういう小説群のことですか?

世界との距離感って、ありますね。

自我が後退していく感じで、肉体的に膜にくるまれた感覚を覚える。おじの存在はそこへの共感を深く呼び起こすような気もします。ただ、おじの結婚はそれほど奇異なものではないでしょう。おじはそのことについてなんて思っていたんでしょうね。

朋子さんの存在が何を意味していたのかって思います。

6: ある種の純愛小説というのは「世界の中心で愛をさけぶ」に代表される、難病ピュア恋愛ものというべきものでしょうか。そういう小説の嘘クササ、あるいは現実それ自体が、そういった嘘クササをはらんできてしまっているような危険を感じ取った諏訪さんの諏訪さんなりの抵抗のように僕は読みました。もちろん、そのような意識はなかったのかもしれませんが。

KOUSAKU Abe: なるほど!それは、あるんだと思います。

6: 作中でもある種の凡庸さから脱するための「アサッテ」という概念の説明があったので

僕はそうかと思って読んでいました。

KOUSAKU Abe: そしておじの「脱走」に対する逆説的な苦悩もまた、ある意味難病ピュア恋愛への嫌悪感へ置き換えできますね。てらってるんだよ、みたいな。

朋子さんが死んでしまったのも、まあ、現実のあっさり加減を意味しているのかもしれません。

おじは恋愛べたでもありましたしね。

小説のウソ臭さは出来るだけ排除したがっているのは、僕も感じました。

限りなく自分語りに近い「小説」という作品群に対して、その語りの内容の8割が嘘なんだって、はっきり暴露している感じがします。

6: 小説の嘘クササがないというのが決定的に現れるのはやはりラストで結局カタストロフィをなにも向かえないんだよね。最後は何か笑いでしめてお茶をにごす。しかしその試み自体が実にアサッテ的で成功しているなぁっておもいました。

KOUSAKU Abe: ええ、その通りだと思います!

6: 僕は初めてこの小説を読んだ時は爆笑の連続でこんな笑える小説をかけるのってすごいなぁって思っていたんですよ。でもね今回読んでみてすごい悲しかった。なにが悲しかったのか明確に語ることはできない。でもすごい言葉のはかなさみたいなものに触れた気がした。

KOUSAKU Abe: 確かにそれはあると思います。実際、疑似エレベーター空間のネット上には「変態」と呼ばれることに喜びを覚えている人はたくさんいますからね。まあ日常に頽落したくないんでしょう。俺は凡人じゃないって、言いたい人は余りに多い。

芸術は須く反復を嫌います。それは狂気との戦いの中で、形を手に入れる事であるとは思うんですがね。狂気を目指すのではなく。

6: たとえば、石原吉郎とかバルトとかデリダとかエクリチュールが人生の中で変ってしまった思想家・作家って結構いましたよね。それをこの叔父も日記の書き方で再現している。

すでにあるものではなく新しいものをうみだそうとするときに、ひずみのような形でうまれる狂気を芸術はつねにもつということですね。最初ふいに訪れていた「アサッテ」なるものがそれを呼ぼうとするあまりどんどん沼にはまってしまって、アサッテがもっていた快活なイメージが日記をたどるごとに消えて行く。これがすごい悲しかったのかもしれない。僕は三冊目の箴言でみたされた言葉にも結構魅力を感じたんだけど、それは一冊目二冊目があったという前提をふまえてのところがおおきい。

緑川: (すいません。遅くなりました)

6: (緑川さんこんばんわ!)

KOUSAKU Abe: ええ、僕も凄い悲しみと、それと同じくらい強い恐怖を感じました。

おじは吃音だったじゃないですか。僕はチックもちなので、ナルシストみたいについ自己投射しちゃいました。ああいうのって、意識しちゃうと(メタになると)我慢できる自分に気づくんです。だから酷くなるか、うそみたいにすっかり治るですよね。そうすると今までの振る舞いや悩み、ひいては自分の過去がウソ臭くなるんですよね。これは絶望で。

アサッテが消えていく感じはこれかなって思います。

6: でもアサッテ的な感性と言うのはどこの国のだれにでもあるものではないかなと一方で思うところはありますね。既存のシステム、つくられた社会にたいして、変態的な行動をとりたくなる瞬間ってやっぱりあるべきものであってもよいものだと思う。僕だってチューリップ男のようにエレベーターの中でチューリップを咲かせたいと思うことはしばしばありますw 狂いたくなる。それは物書きにとって逃れられない考えかたかなともおもいます。

KOUSAKU Abe: うーん、というか芸術を創造することは正気を手に入れるためのものと思います。狂気って、実際凄く反復的なんです。というか反復に呑み込まれている状況。現代社会の病理(紋切)っていうか()バルトやデリダのポスモ思想家との関連の指摘は、流石6さんですね。

6: あ、自己を対象化して行くことで普通になっていくんだけどそれは定型のなかに飲み込まれていくっていくってことかな。普通の人になるんだけどそれがアサッテ的感性の消失って意味?反復と言うのが安部さんの言葉では芸術から遠いものというふうに理解されるんだけど僕はいままで反復こそ芸術なのではないかと思っていました。反復って言葉の使い方が違うのかもしれないけど。

(バルトとか、デリダとかだしてるけどちゃんと読めていないので申し訳ない・・・。)

KOUSAKU Abe: そうですそうです、普通の人になる権利を手に入れちゃんです。でも、もう普通の世界に馴染んでいる周囲の人々の中にダイブすることができるわけもないんです。違和感から逃れられない。だけど権利を放棄することはもうできない、なぜなら治ってしまってるから。ああああ、って感じなんでしょうね。

(いえいえ、読まなくてもいいですよ、どうせ。記号とか脱構築、差延の概念がなにかを他の言葉で判っていればどうでもいいです、この小説においては特に。なぜならこの小説がそういう構造になっているから。)

判ります。その二冊がないと、三冊目は小説の中にあるには浮いてしまいかねないですね。というか、強引に理解させる力を二冊で蓄えてた印象を受けます。

6: 小説や映画の中で繰り返される出来事・書き方、リフレインを美しくすることが大事なのではないかと思っていたので、一度目の何かと、二度目の何かは絶対的に違う意味をもつと思うので。

6: 安部さんの反復と言うのは人生の中で同じような絵を描きたくないって画家がおもうような意味での反復でしょうか。

KOUSAKU Abe: 6さんが言ったのは、多分作中でいったら「ポンパ」とか「チリパッパ」とかが指すところの反復ですね。

僕が言ったのは、例えば靴下の履き方。るさんからのまた聞き、というかビュルガーが言ったそうなのですが、なんど同じような営みを繰り返すのか、っていうことですね、つまり。6サンの言うとおりです。〔あ、でももっと社会とかそういう集団に敷衍されますけどね)

6: なるほど・・・。そろそろ、緑川さんの感想を聞きたいとおもうのですがどうでしたか。「アサッテのひと」は、どう読まれましたか。

緑川: 日常を逸脱したはずの感覚が、それを繰り返すことによって作為に転じるという構図は、まあ普通の読みとして、そこから先例えば、ラストの部分

≫失意から転じたかりそめの楽天なのか

≫感覚を抜け出た風狂の融通無碍なのか

ここをどう読めばいいんだろうと考えてました。結論出てないんですけどね

KOUSAKU Abe: なるほど。

緑川: 日常から垣間見えるアサッテを直接描くって、どういうことなんでしょってね。結局は、それを扱う手つきの問題だろうかという気もしますが如何でしょ。うーん……、手つきというか、何を対象として選び取るか、っていうことなのかな

KOUSAKU Abe:

<<< ≫失意から転じたかりそめの楽天なのか

≫感覚を抜け出た風狂の融通無碍なのか

ここをどう読めばいいんだろうとこれはランボー的境地かと思います。

緑川: エレベーターの箇所は、分かりやすい例だとして、だけど、この作品の主題は言葉、そのもの?

KOUSAKU Abe: あるいは、本当にアサッテに行ってしまったのか、ってことでしょうかね。

6: うがった見方かもしれないのですが、この作品が言葉が少なくなっていく箴言でひっそりと終わるよりも、一瞬でも最後に「アサッテ」的ユーモアを再燃させることがしたかったのではないかなと思います。しかしそれを考えるとある種の回顧にこの小説の最後も帰着してしまうとおもうのですが、僕はそう読んでしまう。

KOUSAKU Abe: ああ、でもそれで正しい気もします。 >6さん

6: 語り手は朋子さんのお葬式でも泣いてしまうから結構、情にほだされやすいやつだとおもうんです。そこで、どこでもいいから叔父の叔父らしさを最後にもってきて引用したかったのかなと。

6: 作品の主題は言葉そのものだとおもいました。もっとも小さい単位の単語レベルにまでおとしこんで、かつ意味をはく奪した音声のみのぬけがらにまで言及すると言うこころみ。

でもそれは一読目に感じたことで、今回読んで見て注目したのは日記のエクリチュールの変遷ーその悲しさについてでした。

緑川: 直接には語りえないものを語ろうとすると、結局はユーモア(寓話)として語るしかないということなのかな

KOUSAKU Abe: 言語ゲームですね。語りえぬもの~。

抜け殻でいいと思います。ポンパとかの指す反復もそれでしょう。

そういうことでしょうね。 >緑川さん

6: さまざなな描き方があるとおもうのですが、この作家はユーモアという手法を選んだのではないでしょうか>緑川さん。

緑川: 選んだというのが、数ある選択肢の中から自由に選んだのか、選ばざるを得なかったのか

KOUSAKU Abe: 選ばざるを得なかったのだと思います。

6: 選ばざるを得なかった印象です。

緑川: と、私も思います

6: 書き方とともに内容が表裏一体だった印象。

緑川: 今まで読んできた文学作品の中でも、そういうのは多いのかなと例えば、高橋源一郎の「さようなら、ギャングたち」とか

KOUSAKU Abe: 選ばざるを得なかった作品ってことですか?

緑川: ん、ちょっとよく分かりませんが安易に結論を出さないようにすればこういう形になるのかなと

KOUSAKU Abe: すみません、ちょっと判りにくいです。

緑川: 申し訳ないです。ちょっと考え中です

KOUSAKU Abe: 急かしてすみません。二人とも言葉に難渋したんですよね、そういえば。安易に類似点をあげるようですが。

言葉というか、コミュニケーション。認識ではなく、表現。

緑川: そうですね。言葉そのものを対象にしてる。自己言及?言葉でもって、言葉を取り扱うって

KOUSAKU Abe: 自己言及だと思います。

この作品のような日記、書簡を用いるとか、高橋さんの(ありえない内容の)私小説という形式とか。

言葉って、どちらにしても高度のプライバシーですし。まあ、それは非常に皮相的にも存在しているんですが、そこはセキュリティーのパスワードの取り扱いと同じかなって思います。

まあ、この作品の場合、その言葉でもって言葉を取り扱う円環的な構造について、逆にそれを行っている事に自覚的でなかったがために自覚して生まれてきた、そういった文学諸作品の凡庸さに苛立ちを覚えているんでしょうね。

6: 何かに対するアンサーというのは冒頭でも安部さんとお話していました。でも新人作家のデビュー作がこれとは驚がくに値しますね。ほんとすごい。だって、新人作家がその作品の最後に「作為による破滅」を描いているのだもの。これは僕なら怖くてぜったいできない。自分がそうなってしまうのではないかっていう小心者的な恐怖があるので。

クライストのエッセイとかも引用されていましたがあのエッセイの引用するタイミングとかチョイスとか完璧であの引用がすごい好きです。美少年が鏡に映った自分にうっとりしているところへ「同じ行為をもう一度してごらん」(考えて見れば反復ですね)と言われる残酷さ。ひじょうにスパイスのきいた出し方でした。

KOUSAKU Abe: ええ、あれはかなりうまく引用されてましたね。

繰り返してやるが、お前は同じもの見れねえよ、って言ってしまう少年が出て来る作品が読みたいですね。

まあボルヘスがそう言う作品書いている気がしますが。

KOUSAKU Abe: 同一性とか、差異と反復というか、言語ゲームと言うか。こういうポスモ的テーマにきちんと対応してますね、諏訪さんは。そこらへんの思想家より。嫌悪感の表明と言う形で。

6: 小説の中で思考するというのはこの作家の良さだと思います。小説はなにか考えさせるきっかけを与えてくれるけどあんまり考えることが多分苦手だとおもう。けれどこの作家は笑いをともないながら、思考するということができていてそこがひじょうに上手いと思います。

KOUSAKU Abe: (日本文学史のソーカル事件として反復に組み込んでやろう、っていってしまうのが思想家の対応)ええ、本当、うまいです。

6: 思想家の対応っていうのはこの作品に対する評のことですか。

KOUSAKU Abe: クライストは因みに知ってるかもしれませんが、「しゃべりながら考える」というエッセイも書いています。

6: 諏訪さんそのものだ>書きながら考える。

KOUSAKU Abe: この作品と言うか、ポスモ的テーマです。ええ、まさに。天晴れですね。

6: 朋子さんが亡くなられたぐらいから、この叔父は浮沼団地に住むことになりますが、この叔父が破滅して行った本当の要因はやはり明子さんの喪失にあるように思います。というのは朋子さんの語りから、明子さんが観客(読者)として叔父の奇異な語りをみていてくれたんだけど独りになってからはそういう対象化してくれる存在がいなくなったことにより、アサッテの魅力が半減し、アサッテの行き場がなくなってしまったんじゃないかと思います。

緑川: (なるほど、アラン・ソーカル事件か)

6: さて、そろそろしめようかとおもいますが何か他に話したいことなどありますか?

KOUSAKU Abe: 朋子さんが実はこの小説のかなめ石なのですね。

緑川: 最初、見通しがつなかった作品が今回の読書会で、糸口が見えてきたと思います。参加してよかった。

KOUSAKU Abe: 同じくとてもよかったです!

6: 僕も刺激的でした。話すことで見えてくるものはありますね。

KOUSAKU Abe: ありますね!

6: もっと語れることがきっとあるはずなのですが、それはまたTLなどにながしてもらえたらとおもいます。おもいついたときに・・・。

緑川: はい。では

緑川: ありがとうございました

KOUSAKU Abe: 僕はどちらにしてもまたブログに感想書きます!ありがとうございました!

6: ありがとうございました。おつかれさまです~。