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部員による『若い小説家に宛てた手紙』の感想文

 

マリオ・バルガス=リョサ 「若い小説家に宛てた手紙」 読後感想etc

神崎裕子

 

 現実に対する不信から、これが文学であるというのは納得する。そもそも訴えたいことがなければ筆をとることはない。他の人はわからないが私はそうである。文学は粘り強く訓練することによって時に天才が現れる。この具体例は芥川龍之介や夏目漱石などを思う。


 形式について技巧、つまり所作、演出を、これが素晴らしい作家であると思うのはサリンジャーである。「ナイン・ストーリーズ」や「フラニーとゾーイー」などに見られるように、葉巻など、人物よりもむしろ彼の手にもつものを追う形式や、「ライ麦畑でつかまえて」などのように、一人称視点で敢えて汚い言葉も選びつつ、普通なら思ってもすぐに忘れるようなことを仔細に語りつくしていく、これはより「舞台」の上の出来事であると感じさせる。またこの作家は小説が現実によりかかっていることを感じさせることのうまい作家であるとも思う。


 文体の真似は絶対にしてはならない。この点に賛成。文体規範に則ることは重要ともいえるが、一概にそう言っていいかというとそうでもないのが私の考え。つまりは文法が乱れていても、一定に彼の規範のもとに書かれたものならばよろしい。とくに日本語の場合、文法などあってないようなものである。


 個人的には空間、時間は切っても切り離せないものであると思います。リョサは書簡であるので簡潔であれということで章を分け書いたことであろうと思う。つまり二つの章のabcを引用させていただくと、aaabacbbbc型の、謂わば時間空間ともいうべき場に語り手は立つことになると思います。それぞれは形式上重要なものであり語る話題や文体により使い分ける必要があると思います。


 通底器の概念は小説を書く上で常に意識することであるし、これは個人的にリョサの話していることのうち最重要であると感じた。生憎リョサが提示した小説が読んだことがない。よってうまくは説明できない。例えば水面に蛸が足のみを出していたら(蛸を知らずまた水の中を見られないとしたら)それは別の生き物に見えるが実際は一つの生き物である。もし通底器を意識していなければ足一本だけの蛸が生まれると考える。多くの小説は蛸を最終的にすくい上げることになると思うが、その結果一本足の蛸では興ざめもよいところであると思う。

 

 

 

「若い小説家に宛てた手紙」を読んで

 あんな

 

 全体的な印象としては、バラバラになっているいくつもの小説の要素をわかりやすくひとつにまとめてくれた本、という印象。例として出てくる何冊もの本からの引用は最後の方になってくると複雑で実際に読んでからもう一度読みたいと思った。

 

 最初に目についたのが帯の「作品を書くには何をし、どこから手をつけていいか分からず悩んでいました」という文章。私が小説を書こうと思ったのは二〇〇九年十一月のはじめのある日で(きっかけは長くなるので省略します)その日のうちにワードも入っていない自分のパソコンにビッグカメラで一太郎を購入しインストールし、白紙の画面を目の前にした時の感想がそれだった。それまで読書体験がほぼ皆無だった私は(国語の教科書すらまじめに読んだ記憶がない)その時にはじめて「フィクションを組み立てる」ということの壁に一瞬でぶち当たったのだった。

 

 小説というものはリョサが十二章にもわたって解説してくれたようにあらゆる手法、表現が多種多様に存在し、何を選び、選ばないかはすべて書き手に委ねられている。その点において、こんなにも自由な表現活動はないのでは、と思うが、それ故に「責任」が生じ、そしてそれを負うのもすべて書き手である。リョサの言葉をかりると「文学に仕え、その犠牲者になると決めたのですから、奴隷に他ならない」ということになり、いよいよ真剣に小説を書こう、と思っている人なら誰でも「書くために生きる」というサナダムシを常に体に飼っているような、栄養を吸い取られながら苦しむ生活に身を置くことになる。小説家というのは、そういった決意をもって志すものであって、私のように気軽に「書けるかも~」などと言って始めるものではなかった。私はそれをあの日の一瞬で悟ったが、もう後戻りはできず、ずるずると小説を書く生活に入っていった。そのような軽々しい思考になるのも、小説が言葉でできているからに他ならない、と思う。言葉は人間誰もが日々無意識に使い、あまりにも身近に存在するため、その言葉を使ってフィクションという嘘を書こうとしているのだから、困難なのは明確なのだった。その上で、「何年もの間ねばり強く修練を積んで」という部分は納得できる部分だった。

 

 さて、この本は十二章にわたって小説のしくみについて様々な方向から解説してくれているありがたい本で、特に私がありがたい、と思った部分は、第五章 語り手。空間 の部分で触れている視点や人称の説明で、というのも私が今一番頭を抱えているのがこの部分の認識の曖昧さだったのでとてもクリアーになり今後の作品に取りかかる際とても役立つと思えた。その物語に一番有効な人称は何か、というのは毎回悩む選択のひとつで、この問題を解決できれば次には物語を大きく作用する様々なことを組み立てやすくなるからである。ここで例に出されているフォークナーの作品は参考のため是非読んでみたいと思った。


 話が前後してしまうが、文体に関しても経験の少ない私ではその作品に対してどのような文体が効果的か、決めかねることがよくあり、しかも自分の中の選択肢が非常に少ないために文体が定まらず、後から読むとちぐはぐな部分が目立ってしまうのが悩みだったが、第四章 文体 でリョサははっきりと「耳に快くひびけば〈適切〉な言葉」と発言している。このようなひとつの基準があるととてもわかりやすい(それでも難しいのだが)

 

 その他色々語りたい部分があるがキリがないので最後に一番印象に残った部分は「テーマが小説家を選ぶ」という部分と「文学においては、テーマ自体がいいとか悪いとかいうことはありません」という二つで、後者は確かに小説を書いていれば実感することだが、書いているうちにテーマに寄りかかりすぎることは事実。所謂本質が見えなくなっている状態。自分の実力がないことを隠すための必死の足掻きのようなものかもしれない…無意識にやってしまっているこのような意識をもう一度見直すきっかけになる言葉だと思った。生活していると様々なテーマが頭の中に次から次へと湧いてくることがあり(この時点でもう何かしらの経験として自分の中に入ってきていると思うが)それらをまとめてフィクションとして構築していく力がまだないため、やたらめったら浮かんだテーマに手を出していくと自滅する結果になってしまう。かといって自分の中に強烈に存在している経験をテーマに据え、そこにばかり意識がいき客観性が失われ、リョサの言う「伝記的資料としての価値しかない作品」になってしまっては失敗だ。そのことを改めて実感し、自分の経験の少なさに唖然とする(いい意味で)機会となった。これからも立ち止まる度に再読したい、と思える本になった。