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第3回読書会資料

【資料1】

 

絲山秋子「海の仙人」を読み解く

文責:イコ

作品:絲山秋子「海の仙人」 初出『新潮』(200312月号)

 

 

<論考の手掛かり/視点>

1.「ファンタジー」という異分子をとらえる

①河野のもとに訪れるファンタジー(神様)

②知っている人間と知らない人間の違い

③ファンタジーの人物造型

④人間にとって、ファンタジーはどういう神様なのか

⑤現代小説に非現実をもちこむ意義

 

2.3人の主要人物の人生をとらえる 

①河野……敦賀、砂を部屋に敷き詰めている、ヤドカリを飼う

②片桐……東京、河野の元同僚、アルファロメオGTV

③かりん……名古屋、仕事好き、大きな車に乗る

◆意識的に描かれる時間の流れ、人物の関係の変化

 

3.絲山秋子のテクニックを見る

①会話を多用する小説

②この小説は「読みやすい」のか

③三人称→作家の人物への寄り添い方

④推敲を重ね、文章を削る、マイナスの作家

 

4.絲山秋子の文学性

①絲山作品における「海の仙人」の位置づけ

②絲山の人間観、世界観

 

 

【資料2】

 

Twitter文芸部第三回読書会 

~絲山秋子『海の仙人』を読む 

                   20115,20() 叢雲 綺

●全体像~ファンタジーって何?

冒頭

「ファンタジーがやって来たのは春の終わりだった。その気配、その存在感はもっと前から感じていたのだが、河野勝男が初めて言葉を交わしたのは水晶浜でその年初めて泳いだ日のことだった。」

 宝くじを当て、会社を辞めて敦賀に移り住んだ主人公の河野勝男は、ある時ふいに姿を現した出来損ないの神様()ファンタジーと生活をするようになった。そんな中、彼は中村かりんと出会った。二人の関係は自然に打ち解けていったように思う。

それから昔の仲間であった片桐や澤田、そしてファンタジーとの関わりあいの中で、少しずつ物語が進んでいく。特に片桐・ファンタジーとの会話において河野は過去の痛みに触れるようになる。

 結局のところファンタジーとはなんなのか。

 私は、それを「痛みを伴ったノスタルジー」だと感じた。

 ファンタジーを知っていた人はみんな、過去に何らかの痛みを背負っていて心のどこかでそれを引きずっている人々ではないだろうか。捨てきれない痛みが心にある限り、ファンタジーは関わり合いをもってくるように思われる。澤田の過去については特に語られていないが、151頁の段階で、片桐と河野、ファンタジーが彼に会ったことを忘れている。対して片桐はそのこと覚えている。昔からファンタジーを知っていたわけではないけれど、片桐は河野との関係に痛みを覚え、だけど手放すこともできずに抱えていくことになる。

片桐が「あたしのファンタジーは終わりだ。」(104)と言ってるのに対し、ファンタジーが「終わらない」と言ったのはそのためだと感じる。この痛みは「孤独」に通じる面も持っている。小説の中で、初めて強い痛みを負ったのが片桐だったと思う。それ故、なんども「孤独」が話題に上る(詳しくは次項目)

かりんの場合も「私ね、人の家を建てる仕事をしてるくせに家族が集まる家を知らないで育ったの。だから『うち』に対する憧れがあるのかもしれない」(111112)と語っているように、やはり過去に痛みを持ちつつも、それを捨てきれずに現在へ持ち込んでいる。

 

みんなどこかで「痛みを伴ったノスタルジー」を持っている。

それがファンタジーという形をとって小説に介在したのではないだろうか。

 「ファンタジー」の意味は「幻想曲」であり、それはどこかノスタルジーに通じる。

 

 

●片桐は孤独か

96

ファンタジー「誰もが孤独なのだ」

片桐「孤独ってえのがそもそも心の輪郭なんじゃないか?外との関係じゃなくて自分のあり方だよ。背負っていかなくちゃいけない最低限の荷物だよ。例えばあたしだ。あたしは一人だ、それに気がついているだけマシだ」

 

あえて自分の孤独について語っている片桐は、そう肯定して気がついているだけマシだと言う。そういうことによって自分を強く見せようとしているような気がした。

何気ない日常、一見成功しているような片桐が最も孤独だと思う。

 

160

ファンタジー「そうだ。だから思い出せないのが一番正しいのだ。真実とはすなわち忘却の中にあるものなのだ」

63

片桐「みんな、どこかで会ったことがあるとか知ってるとか言うの。私だけファンタジーのことを知らなかった。大体ファンタジーってどういう意味なのさ」

ファンタジー「うむ。『裏側』だな」

石原「(中略)多分、芸術とか、ほかのことでも自分を裏側まで突き詰めてたらファンタジーに会えるのかもしれない……」

 

ファンタジーがここでいう「裏側」とは、「心の裏側」だと思う。片桐は自分の孤独を自分で言ってしまっているから、その段階で心の「裏側」の深い悩みのような、自分を突き詰めるようなことがなかった、と解釈できる。

真実とは「忘却の中」=「裏側」にあるものだから、片桐は本当の真実までたどり着いていない。だから、ファンタジーのことを知らなかった。自分の内面(裏側)を突き詰められていない片桐であったが、河野と決して結ばれないと分かった時に、彼女は自分の裏側を見ることになったのではないか。そして痛みを知ってしまった(ファンタジー)。みんなが心のどこかに持っている「孤独」を片桐は最も鮮明に表している。

 

●海とは一体なんだろうか?

海=河野の越えられない過去の記憶

と考えた。

河野がファンタジーに会ったのは、その年初めて泳いだ日のことだったという。ラストも海であることを考えると河野の中に海が深くかかわっていると考えられる。

海の描写に以下のようなものがある。

 

6

「ゆるいカーブの壁を作って足にぶつかると、諦めたように白く砕けて引き返した。」

この部分の「壁」と「諦めたように」に注目した。壁は河野の足にぶつかると、諦めたように引き返していくのである。河野の心の中に「壁」を作っているものは過去の出来事であろう。それが「諦めたように」引き返していくということは、結局解決できない(乗り越えられない)ものとして、ただ時間に流されていくことを表しているのではないだろうか?結局、小説の中では何も解決していない。ただラストは盲目になることで、どこか達観したような態度になっているが、それでもなお、彼は過去に縛られたままであると考える(ファンタジーの存在より)