twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

日居月諸: 今回のテキストは小島信夫の『抱擁家族』です。

イコ: こんばんは。ちょっと読みきれなかったので(あと50ページ)、残りを読みながら参加します。しばらくお二人のご意見を聞いています。

小野寺: 了解です。

日居月諸: わかりました。

日居月諸: まずあらすじを整理します。主人公の三輪俊介の家には、アメリカ人の居候ジョージがいます。

日居月諸: ある日、家政婦のみちよはこう告げ口をする。ジョージと妻の時子が浮気をしている、と。

日居月諸: 俊介は時子を問いただし、ジョージを問いただした末、このアメリカ人を追い出します。しかし、真相は明らかになりません。お互いの言い分は食い違い、二人とも姦通の原因を相手のせいにしている。

日居月諸: ジョージがいなくなり、家政婦のみちよもいなくなった後、俊介は時子と相談して家を建てようとします。しかし、その矢先時子が病に冒されてしまう。時子は結局、亡くなってしまいます。

日居月諸: 時子の死後、母親を失った家には山岸という俊介の友人、木崎という息子の友人がやってきますが、ことごとく不和を来すため、俊介は再婚を決心します。しかし上手くいかない。そして俊介は、息子である良一が家を出た、と戻ってきた家政婦のみちよに知らされます。ここで小説は終わっている

日居月諸: では皆さんの感想をざっくりとでいいのでうかがって行こうと思います

小野寺: はい。

日居月諸: 小野寺さん、お願いします。

小野寺: この作品は随分以前、まだ十代の頃に読んでいたので読み返してみて本当に良かったと思っています。

小野寺: 前半の俊介が神経を病んで同じように時子も神経をやられるみたいなところの俊介の描写が絶妙だと思いました。主観的にならないんですね。狂った部分も克明に描いている。

小野寺: けれどもジョージに対する憎しみとか時子に対する愛情とかに拘泥するわけでもないし病妻物のような方向にもいかない、それが多面的な読みを誘発する優れた小説だと思います

小野寺: あと追々語ります

日居月諸: ありがとうございます。

日居月諸: では次は私が。私も大学生の時に読んで以来だったのですが、印象が大分違いました。

日居月諸: この作品は悲劇を書いているのに喜劇的な要素がある、と評されることが多いので、大学時代はそうした感想に沿うように読んでいました。でも、今回読んでみたら相当切実な小説なんじゃないか、と思った。

日居月諸: 妻との離別ものとしての切実さなら昔読んだときにも感じたのですが、それよりも主人公の俊介が主体であろう、主体であろうとする姿がとても印象的なんです。みちよや山岸といった他人から家族を守ろうとするし、自分を守ろうとしているんです。俊介のことを近代の主人公像からはかけ離れている、と評する声は多いけれど、案外近代的な主人公、主体を頑なに守ろうとする主人公の、最後のあがきだったんじゃないかと思う。

小野寺: わかります、わかります。

小野寺: 島尾敏雄の「死の棘」くらいの深刻さがある反面、漱石や藤村のような部分もあるなあと思いました。

小野寺: 俊介は戦前の人という印象です。

日居月諸: 妻のことを容赦なく殴ったりもするし、ジョージやみちよにも罵声をあびせるんです。けれど、それで何かが変わるわけでもないんですよね。

小野寺: ジョージは外国人だからもとより違うのですが子供たちも山岸も家政婦たちも独身(みちよは違いますが)で俊介からみると朝も起きないいい加減な人たちなんで。

小野寺: ただ小島のすごいのはそんないい加減な人たちをきちんと描く点だと思いました。

小野寺: 特にノリ子や見合いで出てきた独身女性などは迫真的で、すごく納得できます。

日居月諸: 再婚の候補になった芹沢という女性も、朝早く起きれない人でしたね。

小野寺: 11時にしか起きない()

小野寺: 山岸の「あなたは奥さんに会いに行ったんだ」というセリフが非常に利いてます。

日居月諸: そうですね。俊介は結局のところ理想の家庭観を追いかけていた。重要なのはそうした家庭観がいい加減に生きている人間によって乱される、ということにあると思います。

日居月諸: でも、序盤では理想的な家庭観を拒んでいるシーンがあるんです。

日居月諸: みちよが掃除をしないからといって、時子が雑巾がけをして、やがて息子や娘にもそれを要求する。俊介はそれを見て、嫌な気持ちになる、というシーンがあった。

小野寺: 今の理想とは少し違うんでしょうね。俊介は浮気もしているし、けっこう身勝手です。

小野寺: 志賀直哉なども独身の時は親のカネを偸むようにして遊郭通いしたり晩年も芸妓と恋愛してたりしたのに家庭内では厳格な父親を演ずると言う。

日居月諸: 結局のところ、両方ともモデルに対する憧れなんでしょうね。放蕩息子のモデルに沿いたい、厳格な父のモデルに沿いたい。

小野寺: どうなんでしょうね。

小野寺: 文学者に限らず一般の人もそういう感じだったから。

日居月諸: いずれの憧れも男性にとって都合のいいものでしかありません。そんな時、時子という妻に不意をつかれる。時子を描写する時に、睨む、という表現がよくつかわれるんですが、単に睨んでいるんではないんですね。そうしたモデルに憧れる浮薄な心持を睨んでいる。両方とも結局のところ、女を蔑ろにしているじゃないか、と。

小野寺: なるほど、

小野寺: つまり作者は気づいていると。

日居月諸: 気付いていなければこう言う作品は書けないでしょう。小島信夫の来歴に沿うように書かれているから、私小説だと思われがちですが、これは相当批評的な小説だと思います。

小野寺: 家父長的な身勝手さは嫌だがかといってアメリカ風の民主主義にもなじめないような雰囲気がありますね。

日居月諸: この小説は叙述がアバウトなんですが、時子と体を交える場面になったらやたらと肉感的になります。結局、この11の関係こそが大事なんだと豪語するように。すれ違っていがみ合っていた二人が、寝室で二人きりになると、途端に睦まじくなります。家父長でもなく、フリーセックスでもなく、一対一が大事なんだと。でも、その関係は死によって途切れてしまう。

小野寺: 俊介のような前近代的にみえる男にとっては浮気は浮気、本気じゃないよ。相手だって本気じゃあるまいという論理もあるかもしれないです。

小野寺: 家庭を築き守って行く同志みたいな存在になっていたということだと思います。。

小野寺: 思いますっていうのは私も独身なんで山岸みたいな感じになってしまう。

日居月諸: この小説が発表されたのは1965年なんですが、小野寺さんから見て古めかしいという印象はありますか?

日居月諸: もちろん小説的に古めかしい、でもいいですし、家族の描き方でもいいですが。

小野寺: 以前、読んだときは感じました。村上龍などと比較するとああ第三の新人ぽいなあと。

小野寺: いま読み返すと家庭や国家を守るということを考えればさほど古いとは思わないですね。

小野寺: 同じようなやり方をするしかないですから。

日居月諸: 徹底的に内にこもるしかないんですね。新しい家を塀でかこったりするし、居候や家政婦を追いだしたりする。

小野寺: そうですね!

小野寺: あと癌に関する記述などでも変わってないなあと。

小野寺: 本人に告知しなくても同じ病棟に癌患者がいたり亡くなってしまえばわかってしまうものなんですよね。

小野寺: 国立ガンセンターという名前の病院を紹介されれば嫌でも癌と知れてしまう。

小野寺: つまるところ新しさというのは風俗的なものが多くを占めていて本質的なものは少ししか変わっていないと思いますよ。

小野寺: 本作品が戦後屈指の名作と言われる所以はその少しの違いを突いているからだと思いました。

日居月諸: 実はこの小説って、読者の目も拒んでいるんではないかと思うんですが、

日居月諸: まず徹底的に文章が省略されています。場面転換も改行なしに行われたりするし、文法もねじれていたりする。

小野寺: 葬式を4行で終わらせてました。

日居月諸: それが小島信夫ならではの文体と言われればそれまでなんですが、かなり解釈や理解を拒んでいる描写が多かったりするんです。

小野寺: 服装や経歴のカットも多いですね。

小野寺: いきなり清水とか現れるし。

日居月諸: 書き出しからしておかしい。「三輪俊介はいつものように思った。家政婦のみちよが来るようになってからこの家は汚れている、と」

日居月諸: 普通なら汚れ始めた、と完了形で書くべきはずなんですが、進行形、あるいは現在の状況を説明しているんですね。いうなれば思ったことをそのままに書いているような文章です。

小野寺: ああ。

日居月諸: このほかにもおかしな文章をあげればキリがないんですが、総じて言えるのは読者に説明するための文章ではないんですよ。最低限の説明があるだけで、後はシーンがただただブツ切れになってつながっていくだけ。監視カメラをブツ切り編集したかのような小説なんです。

小野寺: 会話は詳細な部分もありますね。

日居月諸: でも読者はちゃんと読めてしまうんですね。これは姦通小説だと。家族の崩壊だと。なぜか。典型があるからなんです。俊介や時子が映画や小説の例を引いたりしていますが、不倫だとか家庭崩壊だとかのストーリーって、典型があるんですよ。

小野寺: なるほど。

小野寺: ただ映画的でも小説的でもないですね、この小説。

小野寺: きわめて現実的です。

日居月諸: そう。いうなればドキュメンタリーです。テレビ的なドキュメントではなく、日記を書いたようなドキュメント。

小野寺: 不倫は藪の中に入ってしまうし、人の死も意外とあっけない。

小野寺: 日記は感じました。

日居月諸: あっけない展開に読者は肩透かしを食らいます。でも、それは作者の狙い通りだと思う。なぜなら大仰に書いてしまったら、不倫が面白い物になってしまうから。小説家としてそれをタネにして食っていくことになるから。不倫はあるべきものだということになってしまうから。

日居月諸: 同様に家庭の崩壊もそうですね。一切説明を排して、読者からの目を拒んで、ただただ現実にあったことを記していく。そしてそれを不倫小説だとか、家庭崩壊小説だとか、この小説はそうあるべきだという願望で余白を埋めていく読者に向かって、テキストはこう罵声を浴びせるでしょう。ほら、お前らはこういうことがあってほしいと望んでいるのだ、と。

日居月諸: もちろん罵声を浴びせるだけが目的ではありません。読者に向かったものではなく、ただただ自分のためだけに書いたテキストとして、『抱擁家族』が存在する時、それは何にも似ていない、きわめて個人的な物語として存在することになるでしょう。

日居月諸: その個人的な物語がなんのために語られたのか。おそらく、時子との一対一の関係を記すため、息子や娘とのかけがえのない時間を記すため、ではないかと思います

小野寺: 息子や娘との会話はきっちり書かれてますね

小野寺: ノリ子がすごく巧い

小野寺: まず自分ではとうてい書けないです。

日居月諸: 俊介は家庭を守るために悪戦苦闘しますが、作者も悪戦苦闘してるんですね。時子や良一、ノリ子が何にも似ていないものになるように、彼らの発した言葉の一語一語を丁寧に描いている。

小野寺: つかみどころのない生きた人間という感じですね

小野寺: その点、ややみちよや医師や山岸は類型的に描かれていて心憎いです。

小野寺: 他の小島作品と比較するとどうなんでしょう?

小野寺: 私は他の作品、特に後期はほとんど読んでないです。

日居月諸: 後期になると完全に作風が変わっていきますので比較はほとんど難しいと思います。でも、『うるわしき日々』という『抱擁家族』の後日譚は描かれますが。

小野寺: 興味深いですね。

小野寺: 今日、「うるわしき日々」も併せて買いに行こうかと思ってましたがやめてしまいました。

日居月諸: 『うるわしき日々』はかなり回想が交えられていた記憶があります。この時期になると引用やら何やらで叙述が混濁していくのが小島信夫の持ち味になるんですが、その点、『抱擁家族』の叙述はかなりストレートですね。

小野寺: 海外文学のような印象もあります。

小野寺: 日本的な情緒のようなものは感じないです。

日居月諸: 事情はかなり日本的なんですけどね。でも粘りがさっぱりない。ただ、残していくものが何もない、というわけでもないんですが。

日居月諸: イコさんは読み終わりましたか?

イコ: おっと……

イコ: 読み終えましたが、仕事やなんやでばたばたしていました。

日居月諸: あぁ、失礼しました。

イコ: いやいや、すみません笑

日居月諸: ではひとまず終わりにしたいと思いますが、語り足りないところがある場合はご自由にどうぞ。

小野寺: 私は特にないです。

小野寺: これから小島信夫を読んで行こうと思ってます。

イコ: 死の棘と、春は馬車に乗って、が連想された小説でした。

イコ: 死の棘で妻の狂気が笑いに転じながらも、すごく切実に感じられるように、この小説も、そういう切実さがあるように思いました。春は馬車に乗ってで奥さんと主人公の見ているものが違う、そういう悲しさがとらえられたシーンがありましたが、この小説の冒頭も、妻と夫のズレから始まっていました。印象深いです。

イコ: 戦後を処理しきれない日本人によって多く描かれてきた、「アイデンティティの喪失」が、こうした家庭崩壊の様子によって、うまくとらえられた小説だと思います。だから文学史的に、とても評価されてるんだろうなあと。

イコ: 好きなシーンやおもしろい場面はいっぱいありましたが、具体的な話になるので、読書会にきちんと参加できればよかったですね。すみませんでした。

日居月諸: ありがとうございます。

日居月諸: ではこの辺りで『抱擁家族』読書会はお開きということで。お疲れ様でした。

小野寺: お疲れ様でした。

イコ: はい、おつかれさまでした。