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資料2 紹介者レジュメ

 

このページでは、各紹介者によるレジュメを掲載します。作品について、より詳しく、より深く知りたい方は、ぜひご覧ください。また、第1部のskypeログのページでも、各紹介者が作品の魅力を存分に語っていますので、ぜひこちらもどうぞ。

 

レジュメは、以下の順で掲載されています。

①タキートン ②イコ ③ちぇまざき ④緋雪

(※今回、プミシールはレジュメを用意していません)

 

なお、③④(レジュメ提出のみの参加者)については、私(プミシール)が紹介された作品を実際に視聴し、寸評を加えてみました。よろしければこちらもご覧いただければと思います。

それではどうぞ。

 

 

①タキートンのレジュメ

 

 Sound Horizon構造の物語  ~現実と虚構を結ぶ輪廻~

 

序論 Sound Horizonとは

 

・メンバーの特徴:「Revo」一人。彼は作詞作曲編曲を全てこなす。それ以外のメンバーを楽曲ごとにその都度編成するシステムを取っている。

 

楽曲の特徴:「物語音楽」という形態を取っている。従来の「音楽に物語を入れる」形ではなく「音楽で物語を語る」という新たな形。どう違うのかと言うと、前者が規定の音楽形式に物語を詰め込むのに対し、後者は物語を語るために音楽形式を組み替えるからである。つまり音楽に物語を導入したのではなく、物語を語るために音楽を導入したのである。

 

ハード面での特徴:アルバム一つで一つの物語を描くため、CDは本を表し、曲は章を意味する。三曲入りのシングルは短編として一つの完結した物語として構成される。

 

本論 Sound Horizonの物語性「現実と虚像のホライズン」

 

物語概要

Sound Horizonの物語の多くは「現実と虚構の相互入れ子構造」を有している。誰かの現実が誰かの虚構であり、誰かの虚構が誰かの現実なのであるという構造だ。具体的に見ていこう。今回は5thStoryCDRoman』に絞って見ていく。概要はこうである。

 

フランス人である主人公イヴェールは、すでに死んでいて実態が無い存在、すなわち幽霊的なものである。彼は一緒に棺に入れられた双子の人形達に「僕が生まれてくるに至る物語」を探しに行ってもらう。双子の人形は一見繋がりのない様々な物語を見守る。欲深い人々に殺された男、片腕を切られ復讐に生きる男、村を焼き討ちにされた少年少女、犬と兄妹になった盲目の少女…etc

 

Sound Horizonの多くの楽曲は、このようにポリフォニー的手法が取られている。そしてRomanにおいて主人公はこれらの物語を横断的に見れる存在である。Sound Horizonの比較的新しいアルバムは一曲目に物語を統括する「横断的視点の楽曲」を入れる。Romanの一曲目は『朝と夜の物語』である。

 

Sound Horizonが貫くテーマ

「生と死」 これはSound Horizonを最も代表する一環したテーマである。Romanで言えば、Sound Horizonは「朝を生」「夜を死」の比喩として使う。つまり『朝と夜の物語』という題名から読み取れることは、Roman内の個々の物語を貫くテーマが「生と死の物語」ということである。

 

「幻想」:『朝と夜の物語』にこんな一節がある。「時を騙る<幻想>の物語」。騙るというのは、言わずもがな「騙す」ことである。この一節を要約すると「これから語られる物語は時系列を偽った幻想(虚構)混じりの物語である」となる。曲の冒頭にも「嘘をついているのは誰だ」というセリフが入る。Romanの楽曲は一人称視点で語られていく。つまり「各人が嘘か本当かわからない物語を唄っている」のだ。

例えばイヴェールは「生まれてくる前に死んでゆく僕の物語」と言っている。生まれる前に何らかの形で死んだ人物であることがわかる。しかし最後の曲「11文字の伝言」では母と思わしき人物が「アナタを産めたことは『私の誇り』でした…」と言っているのだ。

だが、さらに二曲目の「焔」では、その母らしき人物が「生まれぬ君に」「目覚めぬ君に」と言っている。だが四曲目の「呪われし宝石」ではイヴェールらしき人物が宝石の採掘場で、妹を嫁がせるために働いているのである。妹が待つ家の窓辺に双子の人形があるとまで書かれているが、『焔』で母らしき人物は一緒に棺に収めたと言っている。

これは本アルバム内における、ごく一部の矛盾を例に上げたにすぎない。あらゆる物語を繋げようと、一つの道筋で追うと、必ずどこかでぶつかり、ループが始まる。これが「幻想」である。

 

「輪廻」Sound Horizonは多くのアルバムで全ての物は巡っていると主張し続けている。最新アルバムで童話の復讐劇を描いた「Marchen」では復讐の輪廻が色濃く描かれていた。

 

 「歴史」Sound Horizonは世界史に基づいた物語を多く有する。歴史とは何か、多くの楽曲で暗喩的に語られている。

 

Sound Horizonをどう聴く(読む)か。

 

・イヴェール=聴衆

 

Sound Horizonの物語にはいくつもの解釈が与えられ、あらゆるところで論じられている。が、当然答えなど出てこない。私は物語そのものの解釈よりもそのメタ構造が持つ物語性を見ていきたい。

 

 まずイヴェールの目標を見てみよう。「僕が生まれてくるに至る物語」を知ることである。イヴェールは双子の人形に物語を探しに行かせ、イヴェールの元に物語が来たのだ。イヴェールはその幻想交じりの物語から真の「生まれてくるに至る物語」を導きだす必要がある。この構造はまさしく、CDを聴く我々と全く同じ状況を意味している。我々はRomanを聞いて、イヴェールが生まれてくるに至る物語がなんなのかを探すからだ。つまり「イヴェール=我々聴衆」なのである。イヴェールの視点で唄っている『朝と夜の物語』の歌詞には「君」「僕達」という言葉が多用されていることからもわかる。

 

・幻想が紡ぐ平行世界

 

このメタ物語性は「平行世界」を生み出す。我々は不十分にしか語られない物語を想像力で補う。しかしすでにそれ自身が、新たな「幻想」を紡ぎ出す行為に他ならない。イヴェールの物語を我々が想像することにより、もう一人のイヴェールが生まれ、また新たな矛盾を産むことになるのである。その矛盾を人形達は拾ってくる。Romanが抱える矛盾性を平行世界での出来事だと考えると上手く収まる。しかし、ただの平行世界ではない。人々の幻想によって紡がれる平行世界なのである。

 

人形が拾ってきた物語は一辺倒な時系列の物語ではなかった。物語とはすなわち人の想像力である。人の想い、幻想までをも一緒に拾ってきたのだ。イヴェールはその物語の世界を一つ一つ見ていくが、正解には永遠に辿りつかない。

 

 これは「歴史」とは何かの本質をも意味する。歴史とは、人々の想いによって紡がれ、いくつもの矛盾した平行世界を有している。

 

Sound Horizonの物語が常に矛盾を内包しているのは、このような物語(=歴史)がメタ性を有するという本質を描いているからだと言えるのだ。 

 

 

・歴史が内包する輪廻とは 間テクスト論

 

では、その本質とはどういうことだろうか。物語概要で述べたようにSound Horizonが多用する概念の一つに「輪廻」がある。

「物語は輪廻する」ものなのだ。物語は縦と横で輪廻する。6thStoryCDMoira」では時の縦糸と横糸という言葉が多用されていた。この論理はいわゆる「間テクスト論」である。

 

縦糸は歴史で考えて欲しい。過去の物語が、未来の物語に影響を及ぼすのは自明のことだろう。

 

横糸は想像力である。今生きる人々の想像力が重なりあって、それが一人の作家によって物語として生み出される。また今の作品に影響を受けた読者が、過去の作品を読むことで別の解釈が生まれる。

21世紀の人々が読む夏目漱石は、20世紀に読まれる夏目漱石とは違うものだろう。今の作品は過去のテクスト読解にまで影響を与える。ループしているのだ。

 

 

 

結論 Revoのメッセージ「僕達の繋がる<物語>」

 

Roman』を貫くテーマのひとつに「僕達の繋がる<物語>」というものがある。これはコンサートタイトルにもなった。 

『朝と夜の物語』ではそれと一緒に「いつの日か繋がる<物語>」とも記されている。通常の物語読解で言えば一見関係ないように見える物語が、実は繋がっているという意味になる。

しかしメタ的に浮かび上がらせれば、世界中の人々の記憶が語り続け、縦にも横にも、今この瞬間にも宇宙のように無限に広がる物語を指している事は明らかである。

 

Revoは「Roman」において物語の中で「我々は出会うことができる」「我々は繋がることができる」と主張しているのだ。僕達の想像が紡ぎ出した世界が誰かの想像と繋がっていく。この『Roman』という物語が人々の想像を経てどこかの物語に繋がっていく。

 

Sound Horizonには国歌なるものがあるがその一節にはこう書かれている。

 

我等…生まれ落ちた地はそれぞれ違うけど 胸に同じ故郷を抱いて  

 

現代は、ポストモダンの進行により人々が現在進行形でバラバラになっている。しかし、我々は物語(想像力)で繋がっているのである。

 

 

 

②イコのレジュメ

 

14歳」の精神の旅 

~戦うこと、選択すること

文責:イコ

対象作品:交響詩篇エウレカセブン(2005

 

【はじめに】

同作は株式会社ボンズ製作の、日本のSFロボットアニメ。近年のオリジナルロボットアニメでは類を見ない長さ、4クール50話構成のアニメである(現在ほとんどの青年向けアニメは2クール以内で終了する)。これがその重い内容にかかわらず朝子どもの見る時間帯に放映されていたことも、今となっては考えられないようなことだが、現在のアニメ表現に対する世間の目、偏見、そして規制について筆者は首をかしげざるをえない。「エロ」「グロ」に頼らざるを得ないアニメ製作会社にも責任の一端はあるだろう。しかし同作のように、日本のアニメーションのクオリティの高さを裏付けする、世界に誇れる良心的なアニメもまた存在するのである。このような「表現」の意識のつよい作品が今後日本のアニメ界をけん引してほしいと筆者は思っているのだが、現在のようにアニメがレッテルを貼られ、なんでもいっしょくたに深夜に追いやられるようであっては、それものぞめないだろう。同作が同じ時間帯に放送される子ども向けの「健康的」なアニメとは明らかに一線を画す内容でありながら、きわめて多くの人をひきつけ、人気を博した事実を、もう一度考えるべきである。

ここであえて詳しいあらすじを書くつもりはない。14歳の少年が少女に一目ぼれし、自分の故郷を出て、ロボットを操縦して戦いながら世界を知っていく話、とだけ書いていこう。これ以上は実際に第1話に触れてみてほしい。ここでは作品をただの娯楽としてではなく、「文学」的なものとして、よりおもしろく見るための、キーワードをあげておこう。

それは「14歳」である。同作の主人公であるレントンの年齢だ。14歳とはどういう年齢なのであろうか。ぜひみなさんも考えてみてほしい。ちなみに「耳をすませば」の雫も14歳、エヴァンゲリオンの少年少女も14歳である。14歳はアニメの主人公になることがきわめて多い(15歳に次いで多いのではないだろうか)。

「交響詩篇エウレカセブン」には、14歳の前に立ちはだかる様々な壁が描かれている。以下にその大枠を示す。

 14歳 vs 自分

→ベルフォレストという、レントンいわく「何もない」町から出るレントン。かれは常に現状を「最悪」だと思っていて、雑誌「レイアウト」を読みながら、女の子との恋愛やリフ(サーフィンのようなもの)に憧れる。自分には何かあるに違いないと思いながら、何もできず現状に甘んじているのである。この作品は、あるきっかけにより外の世界に出たレントンが、「自分」と戦っていくストーリーであると見ることができる。「一体自分には何ができるのか?」「自分はどういう人間なのか?」中盤、精神世界に入っていく描写を、否定する見方がある。ここで作品は単純なエンタテイメントからの意図的な脱却を果たしているからである。

 14歳 vs 大人

→14歳は、大人が必要な年齢だろうか? もう子どもじゃないのだから、大人がかまってやる必要はないのだろうか?この作品にはひとつの答えが描かれている。14歳は大人を知り、大人に立ち向かっていく。現実の大人はかれが思い描くような存在ではない。大人とのいくつもの戦いを経て、少年は成長していく。

 14歳 vs 宗教

→物語に重要な形で宗教が描かれる。チベット仏教をもとにしていると思われる宗教で、作品にある色調を与えている。少年は世界を知るなかでいつの間にか宗教的なものに踏み込むことになる。目の前で差別により満足な医療を受けられず死にかけている一人の少女。少年は救ってやりたいが、宗教は医療を拒否し、安らかに死ぬことを選択する。「なぜがんばれば救えるかもしれない命を救わない?」少年の剥き出しの感情が迫ってくるのだが、感情を剥き出しにするということはつまり、「若い」ということなのである。

 14歳 vs 異性

→レントンの旅立ちのひとつの動機は、「少女」との出会いである。この少女が、いかにも14歳の思いに沿うような、色の白く、少し天然で、かわいらしい顔立ちのアニメ的美少女なのである。少年は、この少女を守りたい、と考える。相手を上から見たうえで、勝手に守りたいのである。しかし現実はそうはいかない。レントンは異性との付き合い方に思い悩む。

 

もっとも大事なことは、この作品が14歳の選択を丁寧に描いているということである。少年はよく考えもせずに選択してしまったり、逆に怖気づいて選択しないことを選択してしまったりする。そしてぜひ視聴者には、物語の最終話での、レントンの選択の意味を考えてほしい。かれの最後の選択は、実は、大人であるわれわれに投げかけられているのである。そしてこれこそ、筆者はたまらなく文学的であると思うのだ。

 

 

③ちぇまざきのレジュメ

 

1.「黄色い本 ジャック・チボーという名の友人」

  一作目は漫画です。高野文子著。1999年アフタヌーン10月号初出。

主人公は数十年前の学生です。主人公の「実地子」は変哲のない生活を送りながら小説を読んでいます。物語は実地子の「現実」と「読書と空想」が織り交ぜられて語られます。雪に囲まれた日本の今より古い一般的な暮らしを家族に囲まれながら実地子が生活する。生活に対する描写はリアリティのかなり強いものです。その生活の中で、実地子が小説を読む。『チボー家の人々/ロジェ・マルタン・デュ・ガール』。作品名も特に伏せることもなく出てきます。というより本文が頻繁に作品に出てきます。

 作品ははっきりとした時系列があり、学生卒業と小説の読了が同時期になっています。小説とともに主人公が成長していくのです。ただし、漫画の中の小説『チボー家の人々』の文学性や意味や主張が書かれる事は一度もありません。身もふたもない言い方をすればこの小説でなくても成立したかもしれないくらいです。ただ、プロレタリア闘争を扱った場面で実地子自身が自己の進路を考え、日本にはプロレタリア思想の無い事を自覚する面が自然に書かれています。登場した文学を紹介する作品ではなく、「読書をする」といった行為そのものを一番のテーマとして扱った作品と言っていいのではないでしょうか。

  

2.「Program music I

『小説をモティーフにした理由は、皆が知っている物語を音で表現してみたいといった思いからです。でもそれは、決してその物語のサウンドトラックという補佐的な意味ではない。音楽そのもので積極的に物語を表現することで、原作を知らない人が聴いても、原作の世界観や登場人物たちの心情が伝わればとても楽しいなと思います。サウンドトラックだと、物語に合わせて音を作りますが、それとはちょっと別の発想です』

 二作目は音楽作品より「Program music I / Kashiwa Daisuke」です。この作品は全編インストゥルメンタル(ボーカルなし)の作品です。全二曲で一曲目が36分の作品「stella」、二曲目が26分「write once, run melos」です。文学作品から作った曲で「stella」が「銀河鉄道の夜」から、「write〜」が「走れメロス」から作られた作品です。ピアノをメインに、ノイズ音まで用いた作品になっています。

 

(プミシールの寸評)

1.について

 あらかじめ「チボー家の人々」のあらすじを見たうえで読んだ(小説自体は、長すぎて短期間では読めなかったです)。主人公の女学生は、日常の流れの中で小説を読むことによって、小説の世界と日常の世界を、彼女が得意とする編み物のように織りあげながら生活していく。これは、どちらかの世界がもう一方を侵食しているといった意味ではない。若者が素晴らしい本を読んだ時に経験するような、二つの世界の幸福な融合、絶妙な距離感の接触とでも言えるだろうか。

 小説=フィクションである。この作品の中の小説(チボー家…)は、主人公にとって完全にフィクション=非日常の世界と言える。通常、非日常は日常よりも目につくものかもしれない。しかし、この作品では、確かな画力による異様とも言える人物たちの動きの捉えと、方言のセリフにより、日常からもまた、非日常と同等の主張を感じることができる。つまり、この織りあげられた作品は、均整のとれた、確かに美しい模様を描いているのだろうと、思われるのである。

 

2.について

 『音楽そのもので積極的に物語を表現する』というアーティスト自身の言葉があるものの、既存の文学作品をもとにすること、インストであることなど、タキートン氏によって紹介された作品とは全く違ったアプローチの作品であるのが分かる。今回はまず1回音源を聴いてから、もととなった小説2作品を読み、その後再聴して、この2曲のことを考えてみた。

 面白いのは、音楽の展開が、もとにしているという小説の構造を思わせはするものの、完全には従属していないことだ。それは特に「stella」に顕著である。なぜか。「銀河鉄道の夜」は抜けた原稿もある、未完の作だからある。アーティストは、現存する小説の先まで、音楽によって表現したのだろう。しかし自ずから小説を“終わらせる”ことまではしなかった。この曲の最後は、最初と同じメロディーである。円環構造にすることによって、終わりを作らなかったのは、未完の小説への敬意と言えるのではないだろうか。一方「write once, run melos」の展開は、小説の構造と比較的シンクロする。小説は完結しており、曲もしっかり終わる。

 具体的な音楽内容については詳しくないので触れないが、2曲ともに小説を読むような、カタルシスを味わえる音楽だと思った。

 

 

④緋雪のレジュメ

 

紹介

作品 「ほしのこえ」

制作者 新海 誠

作品ジャンル アニメーション映画

紹介者 緋雪

 

概要

新海自身がすべての制作をほぼ一人で行い完成させた25分のアニメーション映画。

アニメジャンルとしては、セカイ系と呼ばれる主人公とヒロインを中心とした世界観の物語。セカイ系の定義は曖昧だが、二人の関係性を中心として世界が回り、「この世の終わり」や「世界の危機」に直面した様子が描かれる。

 

内容

2039年 人類の調査隊は火星で異文明の遺跡を発見したが、突然現れた異星人に全滅させられてしまう。異星人の脅威に対抗するために地球人は国連宇宙軍を結成する。

中学3年生のミカコはあるとき国連宇宙軍のメンバーに選ばれる。

 

 いつもの学校の帰り道、少しだけ違う雰囲気。二人乗りの自転車の後ろでミカコはノボルの耳元で国連宇宙軍に選ばれたことを告げる。

 ミカコが宇宙からノボルにメールを送る。相手に届くまでに徐々に時間がかかるようになる。1年以上、ノボルはミカコからのメールを待つのをやめる。

 ミカコを含めた国連軍が目指す目的地シリウス。シリウスからはお互いにメールが届くまでに8年7カ月の時間がかかる。

 二人のメールは想いとともに届くのか。ミカコは、、、ノボルは、、、恋の行方はぜひ、皆さまで確かめられたし。

 

文学を感じるところ

冒頭からの物憂げな雰囲気。本編の全体通してなくならずに常に視聴者の心の中に植えつけられる。拙い人物画からは同一人物が制作したとは思えない、壮大な風景。ヒロインの声優の演技はお世辞にもうまいとは言えないレベル。だが、物憂げな世界観を背景として、その中での拙い一言から心の声を見ているような感覚に陥る。錯覚させられるといっても過言ではない。決して演技とは呼べない雰囲気はリアルで等身大な少女像を見せてくれる。

10代の生きていく上で葛藤する姿には答えの出ない文学が生きているのではないだろうか。

 

(プミシールによる寸評)

 冒頭のミカコのモノローグに「私はもう、あの世界にはいないんだ」という部分がある。ここでミカコともう一人の主人公ノボルが、今はもう別世界にいることが暗示され、次にフラッシュバックで示される過去の(学生生活の)シーンの切なさが際立ってくるのだが、実は彼らは今も同じ世界にいると私は思うのだ。

 確かに“物理的距離”と、それに伴うメール受信遅延が示す“時間的距離”は、二人のいる場所が、別世界であることを示すのかもしれない。しかし本作には決定的に別世界であることを示す、ある要素がない。それは他者である。二人には、想いを向け得る他者が他にいない。だから想いの方向は変わらない(ノボルが別の女性と付き合っているのを示す場面があるが、その雰囲気を見れば想いがどこにあるかは明らかである。またノボルは「一人でも大人になること=他者には想いを向けない」という、目標も立てている)。

 想いにとって距離はあくまでも環境であり、断絶ではない。つまり彼ら(の想い)にとって、やはり世界はひとつなのだ。だから(詳しく書かないが)最後のシーンも、私には“救い”であると、受け止められるのだった。

 最後に、本作はほとんど一人の力で作り上げられたものだそうで、そこは純粋に、大変驚いた(月並ですみません)。