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『Li-tweet』(2013冬号)創作合評その2

イコ: こんばんは。今日は、

 

あんなさん「エターナル」

イコ「消灯」

るさん「詩4編」

 

の順でやります。

 

○あんな「エターナル」

→作品はこちらから。

 

イコ:

それぞれの人生を歩んでいた姉と弟がホテルで再会する。弟には妻や息子との離別という悩みがあり、ホテルで姉と向かい合うときも、そこから逃れられない。姉弟は「さようなら、ごきげんよう」を歌いながら、ホテルの地下にあるプールで泳ぐ。

あらすじにまとめてしまえば、たったこれだけのようなのに、この濃密な時間はなんだろう。本当におどろいてしまった。何度も繰り返して読めば読むほどに味わいが出て、読むことの幸福に浸った。

読点の少ない文章で、何文にも分けられて記述されそうな情報を一文に詰めこんでしまう。この文章は、小説の情報をなかなか頭の中で整理させてくれず、キーワードを容易に見つけさせてくれないけれど、凡庸な一文はどこにもない。ゆっくり読む楽しさは十分に保証されていて、何度も読んで、このリズムに慣れてしまえば、もうどの文章も愛着のある言葉に変わっている。

弟の境遇が詳しく描かれるのに対して、姉の背景についてはほとんど語られないのもよい。弟の境遇の重さに比べて、姉の背景が軽いことが、うまくバランスを保っている。実際は姉の人生だって決して軽くはないだろう、作者がわざと書かないようにしただけで、想像の及ぶ範囲のぎりぎり外側に、きっと姉の切実な人生もひらけているのだろうと思わせてくれる。これがどちらの境遇もしっかり描かれていたなら、小説は重たさにたえられず、輝きを失ってしまうだろう。作者はものすごいバランス感覚をもっていると思った。

シャワーカーテンのポールにベルトをくくりつけるシーンは自殺を連想させたが、一行あけて、弟がきちんと別の場所で目を覚ますところを読むと、まるで心が宙づりにされて永遠にぶら下がりつづけているような恐怖が行間からあらわれてくる。そんなところもすばらしいと思ったし、「さようなら、ごきげんよう」という明るくさびしい雰囲気のある曲が登場するラストシーンも、たいへんニクい演出になっていた。全体として、映画のようだ。

こういう作品を無料で読めることの喜びというものを感じました。

 

日居月諸:

一読して思い出したのは多和田葉子の「犬婿入り」の書き出しだった。

 

『昼さがりの光が縦横に並ぶ洗濯物にまっしろく張りついて、公団住宅の風のない七月の息苦しい湿気の中をたったひとり歩いていた年寄りも、道の真ん中でふいに立ち止まり、斜め後ろを振り返ったその姿勢のまま動かなくなり、それに続いて団地の敷地を走り抜けようとしていた煉瓦色の車も力果てたように郵便ポストの隣に止まり、中から人が降りてくるでもなく、死にかけた蝉の声か、給食センターの機械の音か、遠くから低いうなりが聞こえてくる他は静まりかえった午後二時。』(多和田葉子「犬婿入り」)

 

一般的にこうした主語らしい主語がなく、読点で一文一文がつなぎあわされる文章は読みにくいとされる。しかし、「犬婿入り」に関してはそんな印象を覚えることはなく、むしろ情景がくっきりと浮かんでくる。なぜか。

もちろん音読しやすい文章だということもあるだろう。だが、それ以上に重要なのは、ここに配列されている一文がそれぞれ独立した事どもを描いているのではなく、それらが有機的に絡み合っている「景色」そのものを描いているということだ。

基本的に人間は動き続けている物事に対してはその機微を一つ一つ丁寧に捉えていくのではなく、ざっくりとした理解で認識を済ませ受け流してしまう。一方で静止している物に出くわすとマジマジと見つめてしまい、思考の力配分のほとんどの割合をそこに注ぎ込んでしまう。これは車の運転を想像すれば容易に理解できることだ。縦横無尽に行き来する車や歩行者は何事もなく無視できるのに、静止したオブジェ(看板、ポツンと立った店、)に出会うと人は思わず脇見をしてしまうだろう。なぜあれは動いていないのだ、と言った具合に。つまり、人間は動いている事どもを「景色」としてしか見ておらず、「景色」に従属しない物事に出くわすとそれをどうにかして引きもどそうとしてしまうのだ。

その点で多和田の文章は人間の認識を踏まえた上で書かれたものだとわかる。洗濯物や年寄りといった事どもが、午後二時ごろの気だるい雰囲気に従属するように描いている。散歩の途中で何があるわけでもないのに立ち止まってしまう年寄りはいるだろう、何の音かはわからないがじりじりとした蒸し暑さをそのままに表現したような音が鳴っていることはあるだろう……それらの事どもは自律的に存在しているのではなく、「景色」を生み出そうとする文章が備えている磁場めいたものに操られるようにして存在しているのだ。

あんなさんの「エターナル」はこれに近しいことを実行しようとしている。

 

『彼女は切り刻んだパイナップルを口に挟みながら母親から届いた手紙を手の中で一度くしゃくしゃにしてからもったいなさそうにゆっくりと開いて、その手紙の内容を頭の中で音読し終わるとルームサービスでアイスクリームアソートを頼んだ。このホテルは一体どれだけの大きさなのか把握できないくらいに巨大で、ワンフロアーだけでも端から端まで見えない複雑な作りをしていたので中を歩いているだけで迷宮に迷い込んだのではないかと思わせるほどだった。等間隔に並べられたドアから漏れ出てくるテレビの音とシャワーの音とスリッパを絨毯に擦る音がかすかにきこえてくる夜の時間帯に、地下のプールに行くことも考えたがホテル内で迷子になりそうだったので大人しくクイーンサイズのベッドの中にからだを埋めたまテレビを見ていた。暗い室内を白い光が眩しく照らし、わずかに開いたカーテンの隙間から差し込んでくるヘッドライトや信号の点滅する光と混ざり合いながら目の前を横断していく。バスルームから湿ったタオルと歯磨き粉の匂いが漂いベッドシーツにゆっくりと染みこんでいった。』

 

無数の名詞が並んでいる文章はそれらをいちいち頭の中で想像する必要が出てくるため読みにくいものとなることが多い。しかし、引用に置いてそれらは全て夜のホテルに泊まっている女が作りだす「景色」に従属している。アイスクリームアソート、テレビやシャワーの音、地下のプール、クイーンサイズのベッド、カーテンの隙間から差し込んでくるヘッドライト……たとえホテルに泊まったことがなかろうと、我々はこうした事どもに見覚えがあるだろう。こうした事どもが作り出す、あるいは夜のホテルに泊まった女が作り出す、一人でいられるはずの時間を脅かしてくる切迫した雰囲気を感覚したことがあるだろう。音読以上に、全ての要素がひとつながりになって「景色」を生み出しているのがわかるからこそ、読みやすさを覚えるのである。

そしてこうしたテクニックは、一見脇道にそれるような一文が挟まれるときに力を発揮する。

 

『彼はやはりその顔からもわかるように寝不足のようでふらつく足でソファーに体を押しつけるようにして腰掛けながら言った。彼の革靴は擦れて薄くなり足の指の形が浮き出て見えそうなくらいだった。母親からの手紙で彼が結婚して子供ができたのだということを知った。そしてその子供が男の子だということ、まだやっと少し言葉を話すようになったばかりだということも書いてあった。実際には彼女は手紙を見なくとも一字一句間違えずに何が書いてあったか言えるくらい手紙を何度も何度も読み返していた。』

 

弟と顔を会わせる箇所にいたるまで設定を説明する文章はなく、ただただ場面が転換されるだけだったので、ここで少しテンポが悪くなるように思われるが、読んでいる限りそんなことはない。なぜなら以下に続く「手紙の文章には妙な切迫感があって~」という説明的な文章は冒頭で感じたような切迫感と合致するし、弟と出くわした時に認めた「寝不足」や「擦れて薄く」なった「革靴」に従属するものだからだ。

同様に地下一階のバーで二人で飲むシーンにおいて情景描写が行われようと違和感なく展開が続けられるのも、「時に指先に刺さった棘を抜こうとするような痛々しさもあった」という暗示的な一文がリードしているからこそだし、情景描写から観念的な「いつか『家族』という名で囲われていた二人のことと~」という叙述への展開がスムーズに行われるのも、そこまで積み重ねていた雰囲気が色調の変化を些細な物にするよう調整してくれているからだし、空白を挟んで視点が変わったところで読むスピードが落ちないように感じられるのも……。

とはいえこのようなスタイルにも問題がないわけではない。たとえば先程ふれたような観念的なパッセージがある。

 

『いつか「家族」という名で囲われていた二人のことと、「あらゆる場所に存在している他人としての二人」のことについて考えていた。実際に、五年間の間「家族」という名前を取ったらまったくの他人になってしまうくらい二人は一度も連絡を取ることはなかった。』

 

姉弟の間の隔たりが大きいかのように記されているにもかかわらず、弟のエピソードは視点変換された形跡がないかのごとく、彼女の視点へと戻ってしまう。思い切って言ってしまえば弟の葛藤やらなにやらも物語を面白くするための道具立てであるかのように従属してしまう。この問題は、本文中に出てくる弟と彼の息子のエピソードを参照すれば更にクローズアップされる。

 

『もしかしたら自分が記憶しているあの苦痛や寂しさと同じ種類の感情を息子も感じているのではないかと思うたび落ち着かず、いつかは息子にも突然世界が反転する時が来るように祈ることしかできなかった。そんなことを思ううち、いつしか反転した自身の片一方が息子の中に入ってしまったような気がして申し訳ない気持ちと安心した気持ちとが一緒になってふつふつと湧き上がってくるのだった。』

 

ここでいう「安心した気持ち」とは、息子の聞かん気な性格をわかってあげられるくらいには自分も物わかりの良い人間にはなっていないことに対する安心だといっていい。彼もまた息子と同様に葛藤を抱えている。しかしその葛藤も、子供が物わかりの良い人間になるかのごとく、青年期にはありがちなこととして「反転」してしまうかもしれない。その葛藤は本当は何にも従属することなく、反転するどころかいつまでも抱えているべきものであるかもしれないのに。

この問題を小説はきわどいところで解決しようとしている。まず息子の夢を見る。息子は父に対して構ってほしげに振舞うが、母に制止され、いつものように癇癪を見せる。しかし、今回ばかりは様子がおかしい。息子はまだ喋らないはずなのに、なんで、という言葉を投げかけてくる。そればかりか、立ち上がって父のもとに歩み寄ってくる。小さな体を抱き上げてみると、実はそれは父自身であり、横ではその様子を冷ややかな目で見ている妻と息子がいる。

この夢は、弟は息子のことをわかってあげているフリをしているが、実のところ自分の中でくすぶっている葛藤を息子に仮託しながらこの悩みは簡単に解決されるべきではないと慰めているにすぎなかった、と思い知らされる場面に他ならない。父の葛藤が個人的なものであるのと同様、息子の葛藤もまた個人的なものであり、それはお互いにわかりあえないはずのものなのである。父の癇癪はくすぶり続けるべきものかもしれないが、息子の癇癪は別に早急に取り除いても構わないものかもしれないのである。

ここで小説は一度目の分離を果たした。父に従属しない息子を生み出したのである(実際に息子は以後二度と姿を現しはしない)。そして次に果たされるべきは姉と弟の分離である。それまでの切迫感で統一されたものとはうってかわって、ラストシーンの叙述は明るい色調で統一されている(もちろん文章の読みやすさは保たれたまま)。金色の光、赤い絨毯、オレンジ色の照明、買ってきたサイダー、そしてサウンドオブミュージックの歌詞――そこで繰り返される「さようなら」は、弟が自分の葛藤は自分自身の中だけで向き合うべきだと認識したことを表す象徴でもあるし、それを見送る姉の手向けの言葉でもある。

全ての物事をトーンを変えず語りながら、全ての物事がしっかりと個人の輪郭を保ちながら存在している。そうした隘路を渡り切った末に出てきたものがこのラストシーンに他ならないのだ。

 

小野寺(事前提出):

これまでのあんなさんの作品は非常にわかりにくく読みにくかった。この作品はまず読みやすく理解できない箇所はほとんどなかったし、そればかりか描写のきめ細かさは相当に質が高い。時折散りばめられるカタカナの日用品や食品名も利いている。少し説明があってもいいとは思うが。この作品は通俗的な言い方であるが「センス」が光っている。作者個人内的な衝動による素材の自由な切り取り方乱暴な剪定なのにそれでいて心地よいものになっているのはセンス以外のなにものでもないだろう。内容は非常に重い。

 

イコ: この小説、おもろかったです。日居さん、小野寺さんも、かなり評価されているように見えます。他の部員からも、あんなさんの小説についての好評を聞きました。

日居月諸: あまり掲示板の方では重要視してはいませんが、音読すべき文章だと思います。非常に音感が優れている。こういうと印象論になってしまいますが

あんな: (嬉しくて鼻水でる)

イコ: たしかにそうですね、何度も口のなかでもごもごしながら読んでいました

日居月諸: 欲を言えばもうちょっと具体的な場面が続いてくれればな、といったところでした。あくまで小説の中では解決されたような開放感がありますが、実際には弟の悩みらしきものがなくなったわけではありません。その辺のところへつなげて行ける力があると思うから、もうちょっと長く書いてほしいです。

イコ: なるほど。自分はこの小説、日居さんがおっしゃるように、弟の悩みがなくなったわけではないので、開放感は得られなかったです。もう少し分量があってもいいと思いますが、そうすると、この危ういバランスのもとに構成されているような小説の軸が、かわるような気もしました。

日居月諸: そうですね、どこかがふえてしまったらまずいとは思う。

イコ: この弟は、小説の中で変化しているのか、自分は少し疑問に思っています。もう息子に会えないということを夢の中で辿りながら、彼はまだ、自分の殻のなかで未練がましく、息子を求めているような。それに対して姉は、そばにいて話を聞いてやること、俗っぽい言葉でいえばリフレッシュをするように言うことしかできない。弟にはそれがとてもいいわけですが。プールで泳ぎながら歌われる「さようなら、ごきげんよう」は、明るい曲調だけれど、けっこうさびしい雰囲気の歌だと思いました。この小説のトーンを劇的に変えるわけではなく、明るさが糸を張るみたいに、逆に弟のかなしさを際立たせているような気がしました。人生の一瞬を、詩的にあらわした作品だと思いました。

あんな: おっしゃるように具体的に話を進めていくとバランスが崩れると思ったのでそこのギリギリのラインでほふく前進しながらそろそろ進めました。なのでこれ以上弟がどうなったか、または姉が弟に対して何かアドバイスするとかそういう具体的なことは書かないようにしました。

イコ: なるほど、あえて書かないことが、すごく効果的だったように思います。情報の出し方にしても、親切に出していくのではなくて、丁寧に読めば分かるようにしている。けどそれだけでも、きちんとすべてが分かる、というものではなくて、小説の中で必要なものしか分からない。

日居月諸: 詩人的な感性なんでしょうね。場面のつなぎ目や過去・現在の処理にすごく配慮されているのがわかった。具体的な場面を出すと粘ってしまうから、この感覚は出せない。

イコ: 場面のつなぎ目を配慮されているのは、すごく感じました。シャワーカーテンのポールにベルトをくくりつけるシーン、すごく好きです。あのあと、ふつうに別の場所で目を覚ます笑 えっ、自殺失敗? と思って、どきっとして、集中して読みました。自殺を試みたのか、試みてないのか、はっきりとは分からない。ただ、におわせている。弟の心情は十分に伝わりますから、それでいいんだと思いました。

日居月諸: 言葉ありきの散文だと思います。こういうと観念的ととられるかもしれないけれど、そうじゃなくて言葉がどれだけ流れよく機能するかを重視している。

イコ: 言葉の流れについては、とても考えられていましたね。読んでいて不必要につまずくところがないですし、きちんと考えると、この言葉しかないよな、と思えるようなものばかりでした。あんなさんから聞いてみたいことはありませんか?

あんな: この書き方で100枚、200枚やったらうざいですか?

日居月諸: 近い作家に堀江敏幸がいるから、問題はないでしょう。

イコ: えーと、自分は、この文章の集中を保ったまま、やってもらえるなら!(笑)

あんな: しかし言葉に集中するとストーリーにぶつかりストーリーに集中するとバランスが崩れ息も絶え絶えですよ(笑)

イコ: 時間かかりました?

あんな: はい、何度も書き直して締め切り間に合いませんでした。

イコ: こだわりすげぇな……(何度も書き直しているっていうの、よく分かります。ストーリーラインについては、もう作者が完全に消化している感がありました)

日居月諸: 堀江敏幸はストーリーを作らずに対処してますね。

イコ: 堀江は文章の流れが、ものすごくきれいな作家ですね。ただ、丁寧に読まないと、すぐに置いていかれる笑

日居月諸: もちろん現実的な事件は進行しているんですが、だからといってそこに粘らないんですよ。じゃあどうしようか、ってことで色々と考察する。あるいは過去の事柄を呼び寄せて、現在の出来事のかわりにそっちを進行させて、現在の補足とする。基本的にエッセイの人なんで、ああいうスタイルならいくら長くなってもバランスは崩れない……それが難しいといえばそれまでだけど(笑)

あんな: とりあえず堀江読んでパクってみます(結論)

イコ: さて、そろそろ40分ですので、なければ次に行こうと思います。

あんな: ありがとうございました!勉強になりました!

イコ: 他の方もあんなさんの小説を激賞しておられたので、色々感想聞けるかもしれませんよ。

P: 遅くなりまして申し訳ありません。

イコ: こんばんは。今、あんなさんの作品が終わったところです。感想あれば、後でまた、教えてくださいまし。

P: はい。

 

○イコ「消灯」

→作品はこちらから

 

あんな:

これまで読んだイコさんの小説とはまったく異なる印象を受けました。まずエッセイのような感じで読みやすく話も複雑なところなどはなくシンプルでした。冒頭で語られる人付き合いに関してのコンプレックスのところがそのままテーマとしてラストに繋がっていくのかと思ったんですが読み終わった後少し物足りない感じはありました。蛍のシーンと天の川のシーンを対にしてもう少しわかりやすく書き分ければもっとテーマがはっきりするのかなぁと思ったりしました。

 

P:

ことばに対する逡巡を、そのまま小説の流れにしたような小説で、とても良いと思いました。楽しいというより、真摯さが心地良いというような種類の味わい方をしました。そういう魅力を出せる人は、そうそういないのではないかと思います。

 

日居月諸:

出来のいい作品だと思います。思いますが、ちょっと承服できないところもあった。内向的な人々が多数出てきて、それが主人公の内向的な部分に重ねあわされる構成になっているのだけど、それが主人公への従属になっていないか。もっと踏み込んで言えば、主人公の自己肯定のエサになっていないか。このへんがひっかかって、良い作品だけど、では推すか、といったら推せない。もちろん主人公は様々な形で自己肯定を消去します。被害妄想と言ってみたり、社会でやっていけない、と言う言葉を肯定してみたり。でも、それはポーズであって、結論ではない。そしてこのポーズが、正直なところ鼻につきました。俺は考えてるんだよ、といわんばかりのもので。

 

小野寺(事前提出):

エッセイのような作品である。エピソードひとつひとつはそれぞれ短編小説の素材になりうる面白さがあるけれども自己紹介的な流れの中に収束されてしまっている。他者との関係性の希薄さが個人の資質なのか時代の流れなのかと言う問いかけにも答えられていなくて流れに呑みこまれてしまっている感がある。小説は流れに抗ってふみとどまる小石であって可能性を追求してもいいのではなかろうか。織田作之助や坂口安吾はそう主張しているように思える。ただ私の感受性と筆者の感受性には差異があるので共感できない部分があるのは否めない。高校時代のエピソードにしても蛍の箇所にしても私だったらそういう行動はしないだろうと思った。それは新鮮な部分になる可能性はあると思う。

 

P: 僕的には今号トップレベルです

イコ: ありがとうございます。Pさんから言っていただいた「真摯さ」と、日居さんから言っていただいた「ポーズ」と。書かれていることに対しての受け取り方が分かれましたね。これ以上作者として語ろうとは思いませんが、どう受け取られるか、悩むところでした。

日居月諸: 私は小野寺さんの感想がしっくり来ます。自己紹介的な流れの中に収束している、と書いていらっしゃるけれど、言いかえれば小説が作り出す磁場に呑みこまれている、ということでしょう。そういう点で熊田君の存在は重要だと思います。彼はどちらかと言えばアウトドアな人間で、主人公とは違って他人から自己肯定を得る人ではなかった。彼が最終的に主人公の目の前から消えてしまうことは、小説の流れとして腹に落ちるものです。

P: あれはそんな、みなさんが言うように、流れを恣意的に変えられる類の話だったのでしょうか。あんまりそうは見えなかった……。

日居月諸: それから校正の際には指摘しませんでしたが、ひらがなを多用している文章について、そこには何らかの意図があるとは理解しています。しかし、どちらかというとこの小説においてはひらがなが幼稚性を表すものとしか見えなかった。誤解のないように付け加えれば、語り手の幼稚性です。書き手、では間違ってもありません。はじめにいかなる意図があろうと、語り手は自ずと書き手から離れて性格形成をしていくものです。そして、おそらくひらがなを多用している文章が、主人公の自己肯定を助長しているように見えました。

P: 多用、っていうほどは思わなかった……。

日居月諸: 「つづける」「あやしい」「しずかに」これは私なら漢字に直します。もちろん文体は人それぞれだからそれでもいいです。だからこそ指摘はしませんでしたし、これを直したところで大筋が変わるとは思いませんが。

イコ: ひらがなの多用について、なるほど、という感じです。ご指摘ありがとうございます。ひらがなのこと以外でもかまいませんので、Pさんやあんなさんのご意見もうかがってみたいです。

P: 内省の向きについて。人の心を上下でマッピングした場合に、下に落ちて終わり、という類のこれは内省だと思いました。僕はこの矢印の向きや動きこそが文体だと思うのですが、そう考えると、これはいったん下まで落ち込んだ場合、また上がって来るというようなサイクルを描ければ、もっと良い文体になったのではないかなと思っています。

日居月諸: それは保坂和志の言うような文体ですね。文章の装飾で決まるのではなく、文章の運動で決まる、という文体。

あんな: 具体的にどんな感じですか? すいません、わかんなくて……文章の運動……。

P: なんならそれは別に「文体」と呼ばなくてもいいんですけど、例えば「言葉の定義がブレた」というところ、「友だち」だっけな? 行動の結果、その「友だち」の定義がブレたというか動いたのだとしたら、それがまた、現実へも反映されるはずです。この小説は、常に「定義がブレて、それはそれとして、……」と次が始まってしまうような流れになっていて、結局、ここで言えば「友だち」ですけど、それを周回するうちに別のものになる、というようなサイクルとか志向がないというか、そういうところが、あんなさんの言った「そのままラストにつながっていって~~」とか、「結論がなんだろう」といった感想につながるのではないかと思います。

あんな: ほう……わかってきました。結局この主人公はぐるぐる回ってるのか。

P: いや、矢印がストンストンと同じところに落ちているんです。

日居月諸: 一点に集中しているわけではない?

あんな: じゃあ結論はない方がいいんですね。

P: 僕の言い方でいえば、サイクルですからね。もう一つ根本的なことを言えば、内省の種類が古いということです。詳しいことは省きますが、文学こそが内省という形式を作った。だから、われわれは新しい内省を作り出せるはずです。

 

○る「詩4篇」

→作品はこちらから

 

イコ:

◇「オートマタ」について

 機械はそこにありながら、壊れて動かなくなる予感をはらんでいる。今では歴史のなかに位置づけられているオートマタならなおさらのことで、この詩はそうした、止まってしまうことの予感に満ちた詩であると思った。「壊れてしまう」のリフレイン、言葉のつながりを断ってしまう括弧、降り続ける雪や雨(人工的なものとの対比になっている)が予感を醸し出す。わたしたちは詩や小説を書くとき、やがては筆を止めて作品としなければならない。「止められてしまった言葉」を歴史のなかに置いて、降り続ける雪や雨に、たえさせてみなければならない。そういうテーマにもつながっていくと思った。

 

◇「波打ち際の人魚のために」について

 女の子に話をしていたはずなのに、当の女の子は眠ってしまい、それでも言葉を発し続けている。届かない誰か(匿名性の高い「女の子」)の背中に、淡々と言葉を続けていくけれど、自分の言葉が誰に聞いてもらえないことも分かっている。「オートマタ」とは違う方向に、とてもさみしい詩だと思った。セミダブルベッドは、2人分にはちと狭いけれど、シングルのサイズよりはやや広い、という微妙なサイズである。他者の存在が、語り続ける自分から少しだけ離れている、この微妙な距離感が「僕」の意識の中ではとても遠い。

 

◇「夜に」について

 20代にとって身近なテーマとなりそうな、やさしく感傷的な詩だと思った。夜は空気が静まりかえり、1人の時間が意識される時間である。他者とのかかわりの中で生きていく昼の時間に作られた指の「しこり」を、かすかな違和感と呼んでもいいだろう。夜になり、OLや院生に、自分と向き合う時間が与えられる。違和感の答えがすぐに見つかればいいのだけれど、OLも院生もまだ、問題自体がどこにあるのか分からないような、悩みの渦中にある。「僕」はそういう者たちに共感の視線をこめて、「優しい音楽」や「暖かい暖炉の火」や「曖昧な相槌」といったやさしく感傷的な答えを投げている。

 

◇「失踪期のモノローグ」について

 とても冷たい感覚のある詩である。冬に登場する「赤蜻蛉」からは、死と憧憬、さびしさを受け取った。「モノローグ」とあるから、赤蜻蛉や傘は、「わたくし」の思いの象徴風景なのではないかと考えられる。埋立地に埋葬されている傘のイメージは、この4編の詩のなかで、もっとも鮮やかに直立してきた。なんとも壮観である。けれども埋められてしまっているのでは、それを見ることもできない。読みながら頭のなかに映像が浮かんでくるのに、実際のところ、それを映像としてとらえることはできないという、この矛盾が、とても美しいと思った。

 

あんな:

詩についてはあまり内容に触れたくないのでふわっとした感想になっちゃいますが、ますまするさんが何者なのかよくわからなくなった感じがした。ツイ文に出された作品しか読んでないけれど、いつもまったく異なるスタイルで書かれていて今回もそうだった。四編すべて一見するとばらばらな言葉の断片がつなぎ合わされているように見えるけれど、読んでいるうちにストーリーのようなものが浮き上がってくるしくみになっている。一番はじめの詩が一番集中して書かれている感じがした。題名がすごくかっこいい。

 

日居月諸:

全体としてはあれ、心地いい詩が多いな、という印象を受けました。るさんのこれまでの詩はどこかしらにえぐさを備えているものが多かった気がするのですが、今回はそのあたりは抑えめで、言葉がなめらかに展開されています。「波打ち際の人魚のために」などはエロティックな素材が使われているので、本来はそういう一面が強調されがちになってしまうんだけど、これは上手く言葉をころがせている。「失踪期のモノローグ」もイメージを出してから感傷的な言葉が出てくるので、仕上がりは暗くない。むしろイメージだけが残っていく感覚がある。

 

P:

詩のことは、本当によくわからないので、あんまり語りたくはないのですが、

 

1 「オートマタ」 こういうトリッキーな「(」の使い方は、意味を追いかける上で何度も読み返させる工夫の一つとして自分は好きだ。

2 「波打ち際の人魚のために」 この「とてもきれいな二回ひねりだったけれど」という、俗っぽいフレーズをそのまま使うような言葉遣いは好きだった。

 

いつもるさんの知識のレンジには驚かされます。

 

イコ: 順番にいきますかね。「オートマタ」から。この詩にははじめ、拒絶されましたねー。なんで「(」を使ってんのか、しっくりくるまでずいぶん悩みました。人形→やがて止まるっていうイメージで読め出してからは、しっくりきました。

P: 椅子に座ったら(壊れてしまう 寝っころがったら(壊れてしまう ……って、なんかドリフみたい……。いや、ウソです。

イコ: たしかに(笑)でも今回、なんか笑わそうっていう雰囲気もなくて、どれもまじめだったな。今まではどこかしら「ちゃかす」感じがあったんだけど。

P: 僕はオートマタ感に欠けるなと思いました。

イコ: オートマタ感(笑)

P: オートマタっていうと、コンピュータ用語でもあるんですけど、これはそういう意識ではなく、単純なしくみを持った自動人形みたいだ。ゼンマイじかけとか、勝手に動き出すとか、もっとオートマタの「オート」な部分が、恐怖とか楽しさとかいろんなものをかき立てるイメージの源泉なはずなんだけどなあ、という感じ。雪っていう静的な言葉が、どうも僕の中では合わない。

イコ: これは他の詩でもそうだけど、似たイメージを多用しているんですよね。イメージのふくらみをスポイルしている。

P: 詩を流れさせてるけどハネさせてないってことですかね。

イコ: そうですね、流れはきれいだと思いますけど、意外性はないですね。

P: ハネるか流れるか、っていうのは、小説にも多く応用出来る見方で、けっこう根源的ですよね。ただこの一篇にはそのハネの部分が少なかったんでしょうね。他の詩にはけっこうある気がします。

イコ: 他三篇も、自分はあまり感じられなかったかな。

P: 僕はもうけっこうこの「とてもきれいな二回ひねりだったけれど」にハマってしまったんですよね。

イコ: じゃあ「波打ち際の人魚のために」にいきましょう。

P: こういうところには、イメージの重ね合わせの面白さが出てると思うんですけど、これはやっぱり、詩を読むのに慣れてるか慣れてないかの違いかもしれないですね……。

日居月諸: この詩では、比ゆ的な意味でだよ、という言葉を使っていますが、その点では一つのイメージに様々な言葉が比喩でもって連接されている感じを受けますね。

P: そうですね、プラスして、そこに自己言及するねじれもある。

イコ:シングルベッドや、波打ち際、カスタネットなど……

日居月諸: 一つだけじゃないのかな、海、ベッド、音楽、ぱっと浮かぶところでは三つイメージがある。

イコ: 「ヴィーナスの誕生」を連想させる。

P: 「シングルベッド」という「範疇」とか「概念」という言葉をくっつけるのが面白い。

イコ: そうですね。セミダブルの部屋が最初に出てきたのに、途中からシングルベッドになったのはなんでやろうってずっと考えて、そこから、ああ、距離感の話か、と解釈しました。

P: なるほど! 言葉がどこまでいっても実態ではなくイメージなんですね。そういう読み方には、やっぱり慣れてないからなあ

イコ: うん、イメージを分かりやすくとらえられるように実体化して見せているのかもしれないです。でも詩を読むの、リテラシーが必要なのかなあ、って、るさんの詩を読むたびに考えるんですよ、自分。なんでこんなに考えてるんだろうって。もっと、イメージが鮮やかに直立するものを書いてほしいんですけどね。自分の頭のなかで、ほとんどの言葉は流れて行ってしまうんです。無理やり、待て待て、部員の詩だから、ちゃんと読めよって、自分にストップをかけて読みこんでいる。

P: そういう面もありますね。この人、何かに対する強いこだわりとか、あんまりなさそう。

日居月諸: こういうとなんだけど粘らない人ですからね。言葉を転がすのが上手いんですよ。

P: これも両面大事なことだと思うんですけどね。

イコ: イメージの階段を作って、一見つながらないものをつなげているのは、非常にうまいと思いますよ。でも器用だからといって、それが魅力になるかといったら、自分にはならないです。

P: ぜーんぜん関係ない話なんですけど、岡田利規のウェブ上の日記を読んでいたら、ある後輩の振付師だか、演者だかに「すごい良い動きだとは思うんだけど、もっと、何かフェティッシュな動きというか、自分だけが持ってるこだわりみたいな動きが君には足りない」って言ってたんですね。まあ、岡田利規自体がそういう、個の中に埋没しているだけの動きみたいのを取り出し続けているような演劇を作っている、というのもあるんですけど。そして、詩と演劇だから、ぜんぜん関係ないんですけど、僕はそれはそういうことなんじゃないかなあと思っているんですね。

イコ: なるほどー。

P: 詩って、すごいそういう方向性を持ちやすいと思うんですけど、完全に自足してます。詩ではない何かを伝えようとしているのではなく、伝えたいのは詩それ自体であり、他のなんでもないです、というような自己目的化したもの、とは、完全に割り切れるものでもないと思うんですね。

イコ: そろそろ40分なので、「夜に」と「失踪期のモノローグ」についても何かあればどうぞー。

P: なんか急に全般にわたる話をしてしまったので、あんまりないです……。

イコ: ありがとうございます(笑)でも楽しい話でした。「夜に」は、いちばん読み解きやすく、言葉ひとつひとつにこれと思うものはないけれども、わりと好きな空気をもっていました。「失踪期の~」は、埋め立てられた傘のイメージがとてもよかったです。こういうイメージをばんばん出してほしいんだ。

P: 『埋立地に何万本もの/傘が埋葬されている夢を見る』なんかエヴァっぽいですね。

イコ: モノローグだからか、いちばん自分の精神世界に降りているような感がありましたね。どれもさみしすぎや(笑)

P: それは何かの反映なのかもしれない……(笑)

日居月諸: デカいイメージがドンとかまえて、その周りに言葉が集まってくる感じでしょうか。

P: ただ、そういう「イメージ」って、割と作り易いのかもしれない。

イコ: さっき自分が言った、流れの中からはみ出るものがないというのは、そういう印象からも来ていてですね。これらとまったく違うベクトルの詩が一篇あれば、だいぶ広がるし、読み解きもおもしろくなると思うんですよ。

P: るさんにとって、あんまり興味のない領域なのかも。加えて、僕は「言葉って、広がれば広がるだけ良いものなのか?」ということも、こういうところを読むと、疑問として上がってきます。

日居月諸: 「浮遊していく」「輪郭だけをあいまいにして」「罅割れた指先」「孵化した冬」「立方体でしょうか」「円環をなすのでしょうか」「あいまいな光」……形象のあいまいなものすべてが傘へと収斂していく感じがありますね。

イコ: 自分にとっては、まあ正直、辛いですね(笑)以前はこういう自己言及的なものも求めて読んでいたけど、今は求めてないから。

P: 単純に時間をくわないから、辛いとも思わなかった……(笑)

イコ: このところ、『月刊twitter文芸部』の初期のころのように、るさんにきちんとフィードバックできてなかったから、今度こそと思って、感想を言うためにめっちゃ読んだ、その過程がしんどかったです(笑)

P: なるほど……。

日居月諸: 私はこの路線で良いとは思うんですけれどね。るさんの名詞の取り扱い方は上手いと思っているし、ちぐはぐなものをくっつける力がある。でもそれが何を為すわけでもない、という身も蓋もなさもまた良いと思う。起源のちぐはぐさに忠実でね。ただ一方で、るさんにはもうちょっと猥雑さがあったのにな、とは思います。

イコ: さて、ではこのあたりで、今日の合評を終わりにしようと思います。

 

 

(文責:イコ)