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繭たちのさざめき:崎本 智(6)

 

 

 

失われた翡翠色の時間が クラースナヤ・プローシシャチ に点在する

帽子をかぶった少女たちが水たまりのようにできた穴を避けながら

「秘密 秘密」ということばを繰り返す 熱がさまされて ひたすらに熱がさまされて

ポシェットからいまではもう存在しない街の名前が 広場におとされても

クラースナヤ・プローシシャチの婦人たちは だれも振りかえることもなく

毛皮をきて 襟巻をつけて歩いている 

高等学校がいっしょだったのかもしれない ねつ造された記憶かもしれないが

僕は航空課に進学して 彼女はもう存在していない街にとらわれつづけていて

少数民族のことばを専門課程に選択して 故郷のことを考えつづけていた

しょうが入りの紅茶に蜂蜜をたらして暖炉をみつめるのが好きだったあなた

街はずれの鉄橋の下では蝙蝠たちの死骸が積み上げられている 

「灰いろの雲へお供え」鍵盤をたたきながら音楽学校に通う生徒たちはそういった

調子外れのレの音が曇り空の広場におきざりにされていた

 

うまれるまえの記憶 名前をつけるならそんな場所 

たったゆいいつあなたと共有できた冬の花火 花火師たちは河畔林のなかに隠れてしまった 空の祭典 ゆれる水面がまぼろしをつれてきて 祭りの音楽がきえたとき静寂と共に星座たちがあとに残された あなたは星座をみつけるのが得意だった

 

冬の花火をかつて水面に映した湖で別れをつげるための最後の時間

太陽と星のすれ違う宵闇の一瞬に枯れ枝と落ち葉のなかで火の粉が燻りつづけている

火はうまれてもことばたちが矢継ぎ早にうまれることはなくて火は沈黙とあいしょうがよかった 繭のように僕たちはふわふわの毛布にくるまって 午睡にあらわれた翡翠色の時間のなかへおちていく 砂時計の砂はもう元にはもどせない

白い枝が雪の上に音もなくふってきた 雪の重さに耐えられなくなったのかもしれない ぐるぐるとまわりの景色がうずをまくように廻りはじめていて 認識の糸が彼女の記憶によってほぐされてしまいそうだった 名前をおもいだすこともできない 顔をおもいだすこともできない 彼女という代名詞だけがあの広場におきざりにされたレの音みたいに 火のなかで爆ぜている

 

連想することばから飛び火して唇をなぞりながら感触をおもい起こしていた 

メモリのなかは曖昧なことばでいっぱいで写真を保存することができない 

月が地球から見て蝕を孕むとき 地球に残した彼女のことをおもう 

忘却旋律をきいたときすべてを無にすることができた だから僕には感触すら残っていないのできっと唇の感触は記憶違いの産物に過ぎない

 

バッハ/ゴルトベルク変奏曲がだれもきこえないくらいのちいさな音で

「静かの海」の第18地区にある無人駅でながれている ゆらゆらと幽霊のように漂う調べ 残り火が弔いの日を予感させた 調べはきゅうに色調をかえてだれもいない空間を彷徨っている 演奏は20世紀のオーケストラによるものだ 埃が光を浴びて目の前をとんでいく それを目の錯覚といいきることはできないだろう 僕は帰球許可が下りたのにまだこのような場所にいる 胸がくるしくなるほどあなたに逢いたい 凡庸なことばが涙をひきつれてやってくる 感触としての記憶 無人駅には僕以外にだれもいない 真空の沈黙が永遠によこたわっていた

 

38の実験プログラムはすべて終了 同期生たちは祖国に帰っていった

クラースナヤ・プローシシャチで帽子をかぶった少女たちが 輪になっておどりながら「秘密 秘密」といっていたのが かろうじて渇かないで僕の瞼に残っている

あの曇り空の日 僕は微かに何かをとらえていた 誰の眼にも一瞬にしかうつらない 時間の裂け目を 人工知能でも解析することができない幕間を

「静かの海」の暗闇で 目を瞑ることは何を意味する? 僕は誰に問いかける

問いをたてることが 月面に国旗を競ってたてたこととどう違うのだろう そこにどれだけの血がながれたのだろう……

しょうが入りの紅茶に蜂蜜をたらして暖炉をみつめるのが好きだった彼女

あの部屋に洗濯物はずいぶんと溜まっているだろう 太陽はそれを見過ごしているのかもしれない 星たちは気がついているのに

 

繭玉の雨が風に色をあずけながら

春の嵐に溶けていく 

手からこぼれるように

冬は失われた翡翠色の時間を抱いて去っていく……