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「浸入」:深街ゆか

 

 

それは悪い冗談を言ったあと、舌の根も渇かぬうちに(取るに足らない)などとくちにする、けれど、誰に迷惑をかけるわけでもなかったから、幼いころのわたしは父や母と、思春期をすぎてからはともだちや恋人とそれに立ち寄って、入場券を人数分求めた、わたしは、結末のない物語に挟んでしまった栞を提供され、そしてまた物語を、と書くために商店街の雑貨店で購入した日記帳の、赤い表紙に金文字で刺繍された(diary)があまりにも少女趣味で、夢みがちの、それっぽかったということをまだ誰にも言えない、おととい封切された 〔あるいはマイナス〕 という映画の冒頭で湖のほとりに青くけぶった朝靄が女優の、髪やワンピースを鈍く重くして、垂直に滴り、女がポケットから出して広げた手紙に楕円のシミをつくった、そのシミはじわじわと大きくなって、映写機のレンズに付着した塵のようになる、けれど、今はもうそんな時代ではなくて (退屈することがあるとすれば、これ以前を考えたとき) という字幕が不意に浮かび上がり、消え (それから、ゆっくり、昔のはなしをはなしたい) という字幕が浮かび上がる、わたしが映画館の売店で買ったジュースのストローの先端を噛みつぶしながら魅入るのは、関節を抜き取られたようなやわらかな字幕が漂わせる、何者かに飾られたようなにおいで、朝靄で滲んで癒着しあった文字と文字を撫でる女優でも、その女優の腰に腕を絡ませる、伏し目がちの、眠たそうな表情浮かべる、イアンという名前の俳優でもないのだけれど。

 

 

 翌日になると、細部ばかりが陽光にちらちらと、断片的に照らし出されながら舞う埃のように思い出されるそんな作品だった、ベランダに干している衣服がときどき風に揺れて、開け放っている縁側にさまざまな大きさの影が絡み合い、光の斑点をいくつも作り出す、いつまでも眺めていると閉じた目の裏側にまで光の斑点を作り出したりして、眠気を誘う、わたしは、あいかわらず結末の無い物語を、際限無く誤読するので、などと赤い日記帳に書けば、あの字幕を模写することができなくて誤魔化せなかった抑揚に我慢ならず、破り捨ててしまう、そんな、出来事というよりは風景が印刷された絵葉書にありもしない近況を書いて、演技者であるイアンに送る、届かないとわかりきっている返事がポストに投函される音に耳を澄ますほど、未遂に終わった手紙のやりとりが半透明の午睡になる、遠くて、浅い、ねむりに滑り込む前、病院へ予約の電話をいれるために押した数字が、身体の不調を整えるものだと彼ら(劇中のイアンと女優)は知らない、だって彼らは浮かない顔をして湖のほとりで立ちつくす、彼らを観賞した人々の待ち合わせ場所でしかなくて、彼らはスクリーンの向こうにある眼と眼があったとき(病院)という単語を思い出す。

 

 

あの夏のイアンはジョシュという名前のごろつきを演じていて、今よりも長い髪や煙草を吸う仕草で、ミニスカートをはいたり流行の髪型で毛先が傷んだ少女たちの、恋心や敵意を引っこ抜いたりして、ありふれた台詞ばかりくちにしていたけれど、美しかった、わたしが半券を右ポケットに入れ、ほの暗い、通路側の席に座ってスクリーンを眺めているとジョシュは(取るに足らない)と馬鹿にするような口調で言うので、わたしは、たまらなくなって映画館を飛び出し、明かりのついた家へ帰宅した、玄関で脱いだ靴もそろえずに脱衣所へ向かい、裸になってシャワーを浴びると、よく泡立った、石鹸の泡が渦をまきながら排水溝へ流れていく、タイルとタイルの隙間にこびり付いた水垢の、ピンク色が気になって水垢を指の先でほじくりかえしていると、電話が鳴っているのが聞こえてきた、けれど風呂場の中から聞く、こもったような呼び鈴は、どうしてこんなに他人事のように感じるのだろう、今は蛇口をひねって身体を洗ったりすることのほうが電話に出ることよりも大切なことに感じる、わたしは、こんなふうに女優がシャワーを浴びるシーンを何度も繰り返し見たことがある、女優は濡れた髪から効果的に水を滴らせ、誰もいないベッドルームへ向かう、サイドボードの上で点滅する電話機の赤いランプ、規則的に、点滅を繰り返す部分を押すと留守番電話が再生される 「わたし、あなたは(取るに足らない)のひとことを言うことができない、言えないまま夜になって、完全に明かりを消せない部屋に鍵をして逃げるように飛び出す、そして映画館の、薄明かり、列車の窓から眺める景色のような、映像、物語の流れとともに、訪れを待つことになるんだわ」 

その声の主がわたしであることにわたしは安心する。

 

 

病院の待合室に置かれていた映画雑誌にイアンが頬杖をついている写真が掲載されていて、その眠たそうな表情のわけは、長すぎる重たい睫のせいだと知る、最近のイアンは何も連想させないつまらない役ばかり演じているけれど、数年前に演じた男娼の評価は高かったことが手のひらほどの記事にまとめられていた、なんだったら、その証拠をみせてもいいとイアンは女優に右腕を差し出す、体毛にうずもれた三日月のような傷跡、二人は岸辺でありきたりの結末を手繰るありふれた演技者、そのていねいに整えられた眉も横顔も、風にはためく女優のワンピースも、早朝の湖の空気はひどく疼かせる、昔はそうでなかったけれど、ここは最適な場所ではない、言ってしまうなら不鮮明で (僕はつぎへ行かなければならない)(イアンあなたって規則性がないのね、わたしはここで暮らしていたい)女優は人差し指をくねらせて、岸辺の砂利をほじくり返し、気に入った色の小石を見つけては湖へ投げ込む、そのたびに水面のひかりが飛び散って女優の顔にひかりを投げる (あのころのわたしはひどかった、裸になる女の役ばかりで、日記に書くことなんてできなかった、あれを自身の体験と認めるのに、そこらじゅうについた指紋を、活字になったわたしの印象を、こそぎ落とせないということを知らなければならなかったんだもの) そういった女優の流行の色に塗りつぶされたくちびるは、この映画作品で再びひらかれることなく、とざされて、小石も投げ込まれることも無い (台本を暗記して、それをくちにするたび僕は、露骨に磨り減っているようだったけれど、そんなのはでたらめで、最初から、在ると思い込んでいたものを紛失して途方にくれていただけの、演技者で、台本は、僕が演技者でない時間を作るための、僕がそれになるように誘うものと考えるようになったら、僕は僕のために眠る時間がこの世にはないことを認めなければならなかった) イアンは女優の身体に腕を絡ませ、女優の顎の線それから鎖骨の線を鼻の頭でなぞってから、女優の首に顔をうずめる、一番熱を持ったところ、血液が流れ、脈打つところ、みているだけのにんげんには到底わからない、演技者たちの首の線や窪み。

 

 

それから、たわんだようにしなやかな波の音に包囲されたイアンと女優の二人の影が、ジュースの空き缶や水草にまみれた波打ちぎわを、あてどなくうろついて、曇天を映す湖に音も無く沈む、淡く青いひかりを帯びた結末、曖昧すぎて批判の対象にもならなかったと映画雑誌に書かれていた、病院の待合室でいちばんよく陽光の差し込む窓際の長席でわたしは、親切な老婦人にのど飴をひとつ貰って舐める、舌の上で甘い唾液がつるつるとひろがって、あの映画には飲食のシーンが無かったことを思い出す、そのことは悲劇的であったのかもしれないけれど、わたしはわたしで意識的に甘い唾液を飲み込む、風邪で腫れた喉が痛む、けれどすべて取るに足りないことなので、と、清潔な消毒液のにおいをただよわせた看護師が患者、わたしに微笑みかける

お気をつけて、おだいじなさい。

 

 

確か(end)という字幕がほんの少し、揺れていた。

 

 

 

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