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「黒い秋の訪れに」 安部孝作

 階段を上りきって左に進むと突き当たりに工場主の部屋がある。吊り掛けられた金属製の通路が、固い靴底に打ち鳴らされ、高い天井に音を反響させる。扉の窓にはブラインドが掛かっていた。取り込み中のようだった。一応扉の前で待っていた。手にしている書類が扇風機に煽られている。工場の内部で唸っている機械、軋んでいる歯車や発条、鉄板と銅線の巨塊、この複雑に連絡しあう単細胞生物の群体――反復的に生産される小さな金属の数々と、型違いの系統種の数々――進化の袋小路に突き当たった部品の塊――が発する音は、結局通り沿いの木立で翅を擦りあわせている蝉の声に負けてしまう。噴出する生命は短くとも激しく、哀感の漂う様は遠く北国の詩人の姿を思わせる。食堂で他の工員が話しているのを聞いていた時、昆虫は地球外から飛来した生物だという話を聞いたことがあるが、なかでも蝉は土星の生命体だったという。話していた男は肺を病んでいるような顔色をしていて、以前内装業の会社で働いていた時、石綿をマスクなしで扱っていたというから、実際病んでいるのかもしれない。彼はカレーライスをスプーンですくったまま、ちっとも食べずにしゃべり続けていた。前に座っていた二人の男は相槌こそうってはいるが、話している男の後方にあるテレビを見ていて、ちゃんと聞いているのかどうかはわからない。テレビでは熱中症での死亡者数が増えていることを報道していた。

 

 手摺に寄りかかり、工場の内部を見渡す。外から差し込む陽射しが影となす境の、波打つ縁が気になって見つめているうちに、感覚の一切が鈍磨して、次第に見ているものを見ているとは思えなくなり、見ているものは見られていることから解放され、人には見せることのない姿を見せ始めているような気がして、明暗の扉が開かれて覗き込もうとする、見えているものには見ることのゆるされぬ世界が足音を立てて――それは甲高い、細いヒールが釘打つ音で……。扉を開けて、一人の女性が出てきた。亜麻色の豊かな髪は緩く巻かれ、気だるげな瞼に切れ長の目、その奥には大きな、漆黒の瞳があった。帽子も服も黒く、その人の肌の白さ、唇と頬の赤さが際立っていた。挨拶を交わす様に一瞬眼が合い、その眼は強く印象に残り、瞳孔の奥から漏れ出していた赤い光が鮮明に思い出される。高貴で知的な雰囲気を漂わせていたのは、服装によるものだろうか、もう何度か眼を合わせたことはあるが、まだその女性のことを何も知らないのだ。誰なのかも、一体工場主とどういう関係なのかも知らない。

 

 ノックを三回して中に入ると工場主は窓際に立ち、背を向けていた。どうやら携帯電話を弄っているようだ。「失礼します」、と言うと工場主は漸く気が付いたようで、「お前か。まだ少し外で待ってくれないか」と言う。黙ってまた外へ出て、手摺に寄りかかると、高いヒールの釘打つ音が下方から聞こえてきた。手摺を乗り出して見下ろすと、切断されて山積みになっている材木の間を、あの女性が歩いている。綺麗な黒の服の通った後は空気が渦を巻き、舞い上がっている黄色い木粉が吸い寄せられている。

 

ちょうど昼休みのベルが鳴った。このベルの音が、どの機械の発する振動音や軋み、打音に比べて大きい。これもまた蝉と同じく、生命の、その欲求の鳴らす音には違いない。そして警報としても用いられるこの種のベルは、暗鬱と恐怖の入り混じった気分を掻き立てる。それが飢餓感を盛り立てるのだろうか、こうして食欲解放の許可を報せる音として用いられていると思うと、人の欲求の罪深さを覗くような心地になる。仕事に没頭していた工員は顎の先で雫となった汗を拭った。

 

(続きはPDFをダウンロードして二番目のアスタリスクからご覧ください。総計11P)

黒い秋の訪れに.pdf
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