twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

「アンファンテリブル」 崎本智(6)

子犬

 

子犬の名前はアンファンテリブル。……なんて呼びにくい名前だろう。

だけど一度決めてしまったからには名前を変えることはできない。

「名前を変えると言うことはその運命を逃れて、新たな運命に向き合うということだ。そいつはまだ世界にこぼれおちたばかり。まぁこれは受けうりのくだらない理屈だが、俺もそう思っている」古代ローマ史を研究している偏屈な兄がそう言った。埃だらけの眼鏡の奥に小さな彼の瞳が見えた。

アンファンテリブルの胴にはチョコレート色のしみがうずまき状にできている。あとは古いシャツみたいなくすんだ白色の毛を生やしていた。フラフープで遊ぶのが大好きで、よくガーデンパーティをするときなんかは大人の退屈な政治や株の話にまざらないように、僕は特大のフラフープを持ちだして、彼と庭で踊ってみせた。僕はそうやってこいつのおかげで上手く子供を演じることができていたのかもしれない。十三歳という年齢にからだも精神もやっと慣れてきた頃だった。

 

 

レキシントンにほど近いファイエット郡とはどんな場所だと言えるだろう。生まれた頃からここに住んでいるから他の街と比べて説明することは僕にはできない。丘の上には果樹園あり、平野にはたくさんの自動車の部品工場がつらなっている。大型のトラックもブンブン走っている。少し離れたところには牧場が点在し、牛乳や肉がこの街を経由して合衆国中に出荷される。

この街を訪れたひとはきまって「肉がおいしい」という。初めて訪れた旅人もレキシントンの街に行けばステーキを焼く匂いに胸をうつに違いない。肉がさほど好きではないひとも「果実のようだ」といって夢中になってしまうこともある。ファイエット郡には小川があちこちにながれ、魚釣りも盛んに行われていた。夜になればミミズクたちの合唱。狼たちの遠吠え。大きな月と鬱蒼としげる丘の上の森。森は果樹園を囲むようにして広がっている。

そして街や森をながれる小川が最後には一本の太い運河にながれこむ。僕たち家族の家はその運河の傍に建っていた。

 

霧深い朝

 

一九九三年六月の霧深い朝に子犬は古い木箱に入れられて捨てられていた。その木箱を兄が拾って来た時には驚いたものだ。古代史をめぐる文献にしか、興味を示さないやつだって思っていたけどそうじゃなかった。

「ジェイムズ、なんだ、めずらしく読書なんかしているのか」

言い忘れたけど僕の名前はジェイムズと言った。似合わない名前だよ。

兄は僕の本をとりあげる。

そのとき僕が読んでいた本はジャン・コクトー『恐るべき子供たち(アンファンテリブル)』だった。

蠅が優雅に旋回している。父と母は僕が見ていないとおもって一階でキスでもしているのだろう。メジャーリーグではニューヨーク・メッツとワシントン・ナショナルズの試合中継の音声がここまで聴こえている。

「やめてよ、兄ちゃん。それクロエ・ダダリオに借りたんだ」

「へぇあの黒髪に……」僕の顔は紅くなる。兄はスキャンダルみたいなことにはよく鼻がきく。その癖に、みずからはまったく異性に興味を持たなかった。   いつも花屋で白い花を買ってきて花瓶にかざり、黙ってそれをみつめているか文献を読んでいるかのどちらかだ。雨の降る日は、彼はいつも機嫌がよく霧の朝にもそれはあてはまった。クロエ・ダダリオについては後述しよう。

僕は薄汚い木箱に入った子犬に気が付いた。その視線に兄は弁解めいたように「家の前に置いてあったんだよ。お前、動物好きだろ。世話しな」と言った。

兄はすぐに部屋を出て、口笛を吹いた。口笛が止んだと思ったら廊下から「お前に名前を与える権利をやろう」と言い放った。

 

命名

 

名前を与えること―主人になること―責任を持つこと―僕は一瞬でからだが二つになるような気がした。「バードランドの子守唄」を口笛で吹きながら兄はダイニングへ入った。そして大量のウィンナーを茹で始めた。鍋が煮え立つ音がする。茹であがるとケチャップをどばどばかけて、リビングで食べ始めた。やがて自分が満腹になると僕のためにサンドイッチ用のパンをおろしてホットドッグを作ってくれた。マスタードもぬってくれた。

溜息がもれた。この上なく美味かった。どうやら観念するしかない。いつも気分屋の兄の思い通りになってしまうのは癪だけど抵抗してもむだだ。僕は犬を飼う決意をした。

兄は笑顔で子犬にも一本与えた。ウィンナーにおそるおそる鼻を近づけて匂いを嗅いでいる。まるで初めて食べるように慎重だった。そして子犬はゆっくりと咀嚼した。よく見ると毛並みも整っている。食べ方にも上品なものが感じられた。僕のなかに不思議な愛着がながれはじめる。

「名前、決めたのか」兄が僕に問う。

「長いけどアンファンテリブルにする」タオルでアンファンテリブルの汚れを拭きながらそう答えた。

 

クロエ

 

サマータイムがはじまって学校の始業時間はずいぶん早まった。僕は時差ぼけしたような気分で学校に向かって自転車をこいだ。田舎だから芝生が敷かれた家が広い間隔をあけて建っている。『ダブリンアース』という緑色のロゴをつけたトラックとすれ違った。季節が夏に近づくにつれ、この地域に引っ越してくる人々は増えていった。『ダブリンアース』という引っ越し会社はここ数年で初めて知ったのだが、近頃、この街でよく見かける。住宅街を抜けて牧柵がつづく平原をひたすら走ると少しずつ自転車の数が増え、やがて鐘の音が平原に響きわたる。教会のような形をした僕たちの学校に到着する。同級生たちと朝の挨拶を済ませて教室に入り、牛乳を飲んでいるとクロエの姿が見えない。

「クロエは?」

クロエの隣の席であるエミリアに尋ねてみると病欠ということだった。エミリアは他の友人たちとクロスワードパズルをするのに夢中だった。エミリア、その笑顔はいつもどんなときも完璧だった。それが彼女の怖いところでもある。地理の時間がはじまって僕たちは合衆国の州について学習する。僕は教科書にアンファンテリブルの似顔絵を細密画のように細かく正確に素描しはじめた。鉛筆でこんなにも上手く書けるなんて僕は天才かもしれないとおもっていたところへ、ベッキンセイル先生からチョークを投げられる。同級生たちの失笑。他愛もない時間が過ぎていた。あの瞬間、日常はどこまでもつづくものだと僕もクラスメイトも先生も信じていた。

 

話題

 

昼休み僕が弁当を食べているとエミリアたちが話している声が聴こえてきた。「あの子がいないとクラスの雰囲気が明るいよね」エミリアがそう言った。僕はエミリアを見る。「だってあの子がいるとさ、家族の話題とかだせないじゃん。しばらく休んでおいてもらっていいよね」笑い声が教室の片隅に広がる。僕はエミリアの方を見て黙っていたままだった。エミリアは顎を手の甲にのせたままそのポーズを崩すことはなかった。クロエの祖父は街の厄介者だった。〈ほら吹きダダリオ〉というあだ名をつけられ、昼間から酒を飲み、わけの分からない妄想をしてはそれを街の住民たちに話していた。クロエは昔からとても大人しく、学校でもみずから発言をするようなことは殆どなかった。じつは怪物、ゾンビ、宇宙人の出てくる映画が好きで、とても真面目な性格であることを僕は知っていた。彼女にノートを借りたときにはいつもその字や線の引き方の綺麗さに驚いた。エミリアもクロエのことをある部分でしっかりと認めていたのだとおもう。彼女の存在を認めるがゆえに自分にはないところに嫉妬していたのかもしれない。こういう場面で僕はエミリアに一言言う機会をいつも逃していた。クロエの恋人でもない僕が彼女をかばうのはおかしいかもしれない。そんな馬鹿なことを考えているうちにエミリアは話題を変える。ひょっとするとエミリアは僕の反応を見て、愉しんでいたのかもしれない。

 

朗読

 

ギリシャ語の時間にエミリアが古代の詩を朗読した。感情をこめて詩を朗読する。古代詩というのは音楽と密接な関係があった。ギリシャ語の教師は平然とそう言う。まるで自分の目で見たかのように。さらにとりわけ美しい詩は吟唱されるときに音楽と共に韻律を豊かに読みあげられたと言う。エミリアの朗読は録音されたテープのようによどむことなく、単語の連なりを発音していった。ときに感情的に、ときに歌うように彼女の朗読は先生に褒められてクラスメイトからは拍手が起こった。僕は彼女の声を通してずっと昔の古代壁画のことを考えていた。彼女を見る僕の視線が霞む。あくびが出る。周りからは白い目をされる。

 

啼き声

 

校舎の裏に沼があった。沼にはアヒルが生息していた。そのアヒルたちがとつぜんぐわぁぐわぁと啼きはじめた。けたたましく、止むことがなかった。あまりにもうるさいから僕たちは窓を開けて何事か見ていたが狼どころか野犬の一匹もおらず、猟師たちが狩りをはじめた様子もなかった。

 

午睡

 

サクラの木漏れ日のなか舟をこいでいた。数学の時間はそうやって夢のなかで過ごすことが多い。ほら、さっきまで一緒にいたクラスメイト達が岸辺で手をふっている。僕らの真上を雲が幾条も連なり、水平線の彼方までつづいている。しるべのようにどこかへ誘う白い雲。先生が何かを伝えようと大きな声を出しているのに僕にはそれが聞こえない。「See you again ! 」僕はそう言って櫂を握る。意識は海と教室を交互に行き来する。ノートに書いた代数の文字がつぎつぎと崩れる。xの右下へ走る線がノートをどこまでも下に落ちていく。静かな教室、そして辺りは凪いだ海の世界へ。風もないのに波の動きは激しい。小テストがはじまったのか鉛筆を走らせる音が海にまで届いた。僕は鉛筆よりも櫂を持ち、冒険がしたい。幾条もの雲はやがて重なり、灰白色へと様変わりする。舟はゆっくりと大きな波の谷を下りはじめる。時間が巻きもどされていくような感覚。「やめ」先生の声か、テストが終わったのか。僕は後戻りできない。しばらく波の谷を下りはじめると、いくつかの群島が見えてきた。と同時に僕は自分の目を疑う。海に雪が降り始めた。指先で溶けて消える雪。雪は海面の上に薄く積もっている。それでもちっとも寒くない。

群島の方角から裸足の少年が海の上を歩いて来て僕に問いかける。

「あの本は面白かったかい?」

僕はどの本のことか分からなかったから、首をかしげると少年は笑った。「金属の熱伝導や、白色矮星の安定性に関する基礎的な理論を知識として持っていないとあの本は読めないからきみたちにはまだ難しいかもしれない。私の考えた巨人は確率解釈に基づく数学的な見地からの創造物だからね」僕には少年の言葉が外国語のように聞こえてならなかった。

瞬きをした僕は白銀の世界から、真っ暗な暗闇のなかにひきずりこまれていく。暗闇で声がする。「起きてジェイムズ」

忘れな草の匂いが鼻をつく。すずらんが揺れる丘で花冠をしたクロエが微笑んでいる。「え?」僕は半目で彼女を見る。「草原に横になった瞬間、眠ってしまうんだもの」彼女はまた笑う。そのとき僕の顔をぺろぺろ舐めるやつがいる。アンファンテリブルだ。僕はアンファンテリブルを抱きかかえる。クロエは水筒からアルミ製のカップにレモンティーを注いでくれる。

「喉渇いているでしょ。あなた魘されていたもの」

「クロエ、きみは花冠をつけるような趣味はなかったはずだよね」

「ええ、そう。これはあなたの夢だもの。あなたの願望よ。ほら、あの雲を見て。どんどん黒く大きくなっていくわ。あっちには祖父が眠っているの」

丘の向こうには葡萄を加工する小さな工場。工場を超えると森が続いている。森の上空には暗雲が立ち込めていた。クロエはつづけて言う。

「祖父には祖父の願望があってわたしは向こうの夢にも出演しなきゃいけなかったの。でもさぼってしまったの。気晴らしにあなたの夢のなかに現れてみたんだけど、まるで何も起きなくて退屈ね」

同級生が投げた消しゴムがあたまにぶつかって僕は目を覚ました。

 

地震

 

白い雲がひとつぽっかりと空に浮かんでいた。

極めて静謐な午後の時間がながれていた。「授業に集中しなさい」政治学の先生がそう言って僕たちはまたノートに視線を戻した瞬間……。床にかすかに震動し、蛍光灯が揺れる。

「地震?」

皆は机の下に避難する。やがて大きな揺れ。太平洋上の島国で起こった大地震が報道されたばかりだったから、生徒たちはすぐに安全確保に意識を集中することができた。しかし奇妙なことに大きな揺れの後にはまた静かな時間がながれる。そのあとにまた大きな揺れが走る。断続的にそれは大きくなり、小さくなりを繰り返す。余震が何度も続いるのだろうか。それにしても奇妙な地震だった。短時間でこんなにも断続的に揺れる地震は誰も経験したことがなかった。家族は無事だろうか、アンファンテリブルは……。僕の脳裏を家族とあの子犬の顔がよぎる。学校は授業の振替措置をとり、すべての生徒を帰宅させる指示をだした。電話回線は混み合っておりまったく使い物にならない。携帯電話もつながらず、とにかく自分の足を頼りに家に帰って現実と向き合うしかなさそうだった。

 

避難

 

学校周辺は平原だったから地震の直接的な被害はすぐには分からなかった。地割れや液状化現象が見られたわけでもなく、また海が近いわけでもなかったから津波の被害もない。牧柵が幾つか仆れていただけだ。僕はファイエット郡へ帰宅する方向の下級生を集めて一緒に帰ることにした。

「暑いけどヘルメットをかぶって帰宅しよう。そして皆、水分を大事にすること。いつ補給できるかわからないからな」

そう言って僕は先頭に立ち自転車をこいだ。積乱雲が澄みきった青空にソフトクリームのように浮かんでいた。何でもない夏の日の一ページのようだった。けれど下級生たちも含めて僕たちはおだやかではなかった。学校はつぶれなかったが体感としてもかなりの震度が予測された。しかし携帯のニュースは一向に地震情報を報道しない。ふざけている。一体マスコミは何をしているんだろう……。途中僕たちはファイエット郡の小さな集落に立ち寄った。そこは雑貨店とガソリンスタンド、それから発電所に、数軒の家があった。雑貨店に立ち寄って僕たちは情報を集めようとした。店主はインディアン王冠をかぶった男で新聞紙をレジでひろげて読んでいた。

「すいません」

「どうしたんだ。血相変えて、お前たち学校は……?」

「地震により、帰宅指示がでました。さっきの地震は震度いくつですか」

「地震?」

「三〇分ほど前に起きた地震です」

「あれ、そうなのか。地震なんてオレは気がつかなかったぞ」

僕たちは顔を見合わせる。この男はあれほど断続的に大きな地震があったことに気が付かなかったのか。それとも十キロと離れていないこの場所では地震は起きなかったというのだろうか。

 

そのあと僕たちがいくら口をそろえて地震の体験を話したところで、男とは全く話が通じなかった。僕たちは蜂蜜入りのパンとミネラルウォーターをその店で購入して先を急いだ。下級生たちとは少しずつ方角が異なってきた。ひとり、またひとりと別れをつげる。その度、言いしれぬ不安が宿る。ついに僕は独りになる。地震は確かにあったはずなのに、途中の雑貨店やあるいは他の民家なども全く影響は受けていないのだった。幻想だったのだろうか。白昼夢だったのだろうか。僕は自転車をこぐスピードを速めた。

 

(続きはPDFをダウンロードして7ページからご覧ください。総計32P)

 

アンファンテリブル.pdf
PDFファイル 689.4 KB