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編集後記――永遠対話のために――

 ドイツのある写真家が撮った写真には、被写体が醸し出す不気味な雰囲気に反して、「舞踏会に向かう三人の農夫」という無骨な題がつけられているらしい。小さな丘が見えるだけの農地を背景として、揃いのスーツをまとい一様にステッキをついている三人の若者が、右肩越しにこちらを見つめている。真ん中の男は悠然と構え、左手でわずかにポーズを取るくらいには自らの容姿への誇りを抱いている。右の男は姿勢を正しながらも、隣の男の取り澄ました様子に気後れしているのか、レンズという無機質なものに目を合わせることに慣れていないのか、強張った顔を浮かべている。その二人から左手に少し離れて立つ男は、タバコをくわえ、シルクハットからくせ毛をのぞかせ、ステッキをだらしなくぶら下げ、と言った具合に幼児性を表しているが、顔には30とも40とも取れる皺が刻まれている。
 この写真を見た者はまず、三つの目線をいちどきに食らってのけぞるような戸惑いを覚えるだろう。続いてこういう疑問に駆られるはずだ。彼らは何を見ているのか、何に対してそのような表情を浮かべているのか? この三人を始めとした二十世紀初頭の人々の顔をまとめて撮影し、写真による博物館を作ろうとした写真家の無謀に皮肉な笑みを浮かべているのか。写真を見て会社を辞めて小説を書こうと決心した若者の無鉄砲な情熱に驚き呆れているのか。それとも、写真を目の当たりにした多くの人々に対し、共に歩こうではないか、舞踏会へと向けて、このどうしようもなく救い難い世界という会場で共に踊ろうではないかと、わざわざ幼さを見せて親近感を漂わせながら誘っているのか。

 1914年にこの写真を撮影したアウグスト・ザンダーは、『二十世紀の人間たち』と題する膨大なプロジェクトに向かって邁進していた。写真という人間のありのままを映じられる機器でもって、容姿、性格、社会的地位のあらゆるタイプを撮り続ければ、百科事典にも劣らぬカタログが出来上がるだろうと思っていたのだという。
 1910年にスタートした遠大なる構想は、1929年、『時代の顔』と題された縮刷版によって一定の成果を収める。19年間撮りためた写真の中から選りすぐりの60葉を収録した写真集は、農民から成金まで様々な社会的階層を網羅した後、一人の失業者の不吉な姿を最後に印刷を終える出来となっている。しかしこの最後の写真は、同時期に台頭しつつあった政治勢力にとっては不都合極まりないものであった。不吉な写真を客観的な姿だと主張することによって、経済復興を目指す気運に冷や水を浴びせかねないと取られてしまったのだ。
 1934年、ナチスドイツの介入によって写真集は発禁処分を課される。さらに、彼の息子でありプロジェクトのパートナーであったエーリッヒ・ザンダーが政治犯として逮捕されたため、嫌疑は写真スタジオにまで及ぶこととなる。ネガは気まぐれにやってくる家宅捜索によって没収され続けた。挙句の果てには戦争中のゴタゴタによってスタジオが破壊され、コレクションの大半はザンダーの元から離れていった。戦後になれば、手元に残った僅かな素材と、新たに撮り加えた写真を元手に展覧会を開けるくらいには地位も回復していたが、『二十世紀の人間たち』は未完のまま作者の死を迎えた。
 とはいえ、時代の掣肘がなくともザンダーの計画は不完全のまま終わっただろう。一人の人間がカバー出来る認識の範囲などたかが知れているし、何より写真とて一つの角度からしか撮影できない、恣意的な記録方法なのである。しかし、そうした膨大にして不完全なコレクションの中から何かが浮かび上がってはこないだろうか。不完全であるがゆえに、自らの欠陥を補完するように呼びかけてくる声が聞こえては来ないだろうか。私はここに自らの労力を注ぎ込んだ、もとよりそれが時代の全てを覆い尽くせるとは思っていない、田舎生まれにして新しいテクノロジーに目がくらんだだけのアマチュアに編集の技術などあるはずもない、ではなぜこんな企てを思いついたのかって? こうした無謀な記録を未来へと差し向けることで、無鉄砲にして情熱に溢れる若者が俺ならもっと完璧に出来る、とばかりに動き出してくれるのではないかと思ってな、いうなれば導火線に火をつけられないかと思ったのだよ……。

 アメリカの小説家リチャード・パワーズは、デビュー作である『舞踏会に向かう三人の農夫』の中で、写真を見た時、人は見る者と見られる者の二重人格に分かれるのだと書いている。見る、とは言うまでもなく、被写体を眺める行為の事を指す。では見られる、とは?
 絵画と違い、写真は大量生産を当てこんだ表現手段であるため、作品は大衆の手元へと容易に舞い込んでくる。ゆえに、一対一の対面を迫られる。そこでは全てが自由だ。鑑賞者は昔ながらのサロンとは違い、誰の目を気にすることなく写真を評価することが出来る。人によってはザンダーの写真も不気味だと評価するだろうし、人によってはスタイリッシュな出来だと評する場合もあるだろう。場合によっては落書きをするなり、パソコンでコラージュするなり、自分の小説の表紙として用いるなり……そうした鑑賞の営みの中で浮かび上がってくるものがある。実は写真を見ることで人は自分をさらけ出すように迫られているのではないか、という疑問が浮かび上がってくる。特に被写体がレンズを見つめているような作品ならば尚更だ。その眼差しは意図の有無を別にして、レンズの向こうにいる人間にこう語りかけているだろう。君は何者か、と。私はここにありのままをさらけ出している、ならば君も全てをさらけ出すのだ、あらん限りの力をもって私と対話するのだ、とばかりに訴えかけているだろう。その時、人は写真に見られている。素性を明かすように写真に迫られているのだ。
 パワーズはザンダーの写真をきっかけに、日本語訳にして400ページ(二段組)にもなる小説を書きあげた。ここには彼が有する知識のほとんどが描かれている。時に自動車王ヘンリー・フォードの伝記が挟まれ、時に写真に関するエッセイも挟まれ、と言った具合に様々な要素が絡まりあいながら、三つの視点からなる物語を盛り上げている。彼は小説の中で自分を模した人間にこう語らせている。

  私はやっと理解した。かつてのアウラを、ただひとつしかない芸術作品への宗教

 的畏怖を犠牲にしてしまったとしても、我々は機械的複製において何かをその代償

 に得ている。プリントを“本物”にする上では写真家も我々見る者と同様に無力なのだ

 とすれば、逆に我々見る者は、プリントに歴史と意義を注ぎ込む作業において、写

 真家と少なくとも同等の資格を有しているはずだ。(中略)私もそうしなくてはな

 るまい。大切なのは、感光乳剤の浮かんだ歴史の一断片ではない。我々がそれを“現

 像”することなのだ。

 特に、ザンダーの写した三人の農夫をフィクションによって描きながら、自分なりの歴史に対する認識を語っているシーンは、この引用を端的に表現している。写真を見ることでそこに写る人々に解釈を与えながら、自分自身をも作り上げていく。パワーズが成し遂げたのは、我々が普段写真を見つめながらなんとなく行っている対話を、膨大な小説に仕立て上げて芸術的に表現することであったのだ。

 何も写真に限った話ではない。我々は小説を書く時、モチーフに解釈を与えながら、自分自身をも作り上げている。いや、小説の執筆に限った話でさえない。我々は生きながらにして、たとえ口を閉ざしていようと、絶えず対話に巻き込まれている。目の前にいる誰かに解釈を与え続け、自分自身を作り上げている。
 “対話”とは常に行っているものであるから、“永遠”という言葉を付けるのさえ、そもそも余計なことなのかもしれない。しかしながら、小説家は常に孤独にあって作業しているゆえにこの事実を忘れがちだ。ともすれば、一人で小説を作り上げていると錯覚してしまうことだろう。保坂和志は師匠格であるところの小島信夫に、書き手が小説に奉仕する限りにおいて小説は小説たりうるのであって、それが出来ているのは小島先生だけだと言ったという。それに対し、小島信夫はこう答えたそうだ。みんな小説家は自分の力で小説を書いていると思っているんだから、こんなことをうっかりどこでも言ったら反感を買うだけだ――こうした事実がある限りは、“対話”の前には“永遠”という言葉を付し続けなければならない。我々は一人で小説を書いているのではない。常に誰か、もしくは何かとの対話関係にありながら小説を書いているのだと言い続けなければならない。
 とはいえ、私もこうした認識に達するまでは時間がかかった。というか、こうしてエッセイとして書いている限りにおいては威勢の良い言葉を並べられるが、実際に小説を書く段になるといつの間にか忘れてしまう事も多い。そうした忘却を少しでも食いとどめられているのは、twitter文芸部という存在があってこそ、と言える。面白いと思っている拙作の文章も、刺激し合っている仲間から教示を得たからこそ書けているのだと自覚することが出来る。

 私が今回書いた小説の中には、どこかしらにtwitter文芸部の仲間の声が潜んでいることだろう。あるいは他の部員の作品にも同様の事が言えるかもしれない。今回残念ながら寄稿を見送った部員達の声もまた、多かれ少なかれ鳴り響いている。こうしてこの雑誌は読者の元へと届いていく。そして読者の周りへと派生していき、どこまでも広がって未来へと続き……私はそうしたヴィジョンを夢見ている。同時に、小説という様々な要素を混ぜ込める媒体の中で多くの人間達が生き続け、読者の元へと伝わっていくという展開図を、どうにか表現したいと考えている。
 最後に今回雑誌作成のお世話になった人々に対し、その労力の多寡にかかわらず感謝を述べると同時に、拙い編集能力から出来た代物によって部員一同の切磋琢磨する姿が少しでも読者に伝わるよう願って、筆を擱くことにする。

 

                               夏号編集長・日居月諸