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「消灯」 新嶋樹(イコ)

 

 ふるさとの香川県を出てから十年、ずいぶん経ったように思うが、人と話していて、いまだに聞かれることがある。

「どうして島根県に?」

 理由をしゃべる、というのが得意じゃなかった。多くの理由があって島根県に来たことは確かなのだけれど、それを「~だから」と簡潔な言葉でとらえて説明することができない。ひとつひとつ相手に伝わるようにほぐしながらしゃべっていくと、どうも煩雑になってしまうような気がして、やめてしまう。聞いてくれた相手へ誠意を見せるために、どうにか短くまとめようとするのだが、口にすると、どうもうそっぽくなってしまうのだ。

 大学生のころ、最も多く使っていた理由は次のようなものだった。

「雪が見たかったからです」

「ふうん」

 相手の、ふうん、という声や、あまり納得のいっていないらしい表情を見るのがほとんどだった。「本当にそうなんです。香川では降らないから」「ああ」その相槌にもまだ、納得しきれないものがあるのを感じる。本心を隠していると思われたかもしれなかった。

「三年間、関東で仕事をしていましたが、島根の人と結婚しようと思い、戻ってきました」

 今はこう言うようにしていて、これなら、なるほど、とたいていの人は納得するが、肝心の島根に来た理由はわざと棚上げしている。それでもつっこんで聞かれるなら、また「雪が見たかったから」とか、「香川県の外に出てみたかったから」とか言うしかない。結婚しようと思い、という理由についても確かにそうだし、決して本心を隠しているわけではないのだけれど、どうもうそをついているような後ろめたさが残ってしまうのだ。

 思いがあっても言葉がぶれる。どんな言葉も思いに足りない。

 他人にうまく思いを伝えられる人になりたかった。人生のどの場面をふりかえっても、ただそこに突っ立っていて何かがひらけるわけではなかった。それでも中学校までは近所に住んでいる、同じテレビゲームで遊んでいる、同じ塾、同じ教室にいる、ということで、輪の中の、はしっこぎりぎりにいることができた。これは幸福なことだと思うのだけれど、ときどき輪から外れても大人が気づいてくれたり、子ども同士でなんとかなったりした。

 本当の難しさを実感したのは高校生のときで、だれとしゃべってもうわべだった。友だちだと思っている子も何人かいたけれど、ひとたび学校から離れてしまえば、連絡を取り合うこともなかった。

 何人かのグループといっしょに帰ろうとして、自転車を出そうとしたときである。自転車に引っかけていた傘が消えている。盗まれたらしい。みんなでラーメンを食べに行こうかと相談していたのだけれど、土砂降りの雨の中、傘なしでは困る。そこで傘を差し、今まさに自転車を走らせていこうとするグループの子らに、事実を告げた。

「傘、盗まれたみたいなんだけど」

「ふうん」

 しばらく沈黙があった。ひとりがこう言った。

「じゃあ、また明日ね」

「うん」とうなずいて、「じゃあ、また」と答えることしかできなかった。

 グループは行ってしまった。その背中を、あれ、ずいぶんあっさり置いて行くんだな、と思いながら見ていた。友だちという言葉が、そのときにぶれた気がした。しばらく軒下にいたけれど雨はやまず、家に向けて、自転車を全速力で走らせた。全速力で走れば、背負った鞄の中身は濡れないということが分かった日だった。

 後になってもこの駐輪場でのやりとりをずいぶん考えたけれど、今でもあのときのかれらに対して、被害者意識を尖らせているのを発見する。

 かれらの対応は冷たいんだろうか。いっしょに傘を探してくれるなり、自転車を降りて傘に入れてくれるなり、どうとでも手があったはずだ、冷たいやつらめ、と心の中で罵った、あのときの感情が今も消えずに残っていて、正当性を主張している。いや、どうにかしてくれ、いっしょにラーメンを食べに行きたいんだ、と伝えればよかったところをすべて呑みこんで、「なんだけど」で止めてしまったこちらが、いけなかったのかもしれない。あのとき、どんな顔でかれらに「なんだけど」と声をかけたんだったか。かれらに頼むような顔ではなく、むしろ、かれらを見送る顔をしていたんじゃないか。

 輪の中にタダでいられると思うのは楽観にすぎるのは分かっていて、思いを察してもらおうとするには関係が足りていなかった。分かっていながらも、冷たいやつらだ、どうしてあのとき置いていったんだ、と尖った言葉が、ふるえながら頭の奥を飛んでいる。精神に時効はなく、自己弁護ばかりは優秀で、勝手に犯人を作り上げて呪いつづけることを許可する、手前味噌の司法機関をもっている。人とうまく関係が作れる人間ならよかった、そういう人間に生まれてきたかったと、まるでその能力がだれかから当たり前に与えられるもののような顔をして、雨の軒下に立っている。

 島根県が香川県の真北にあって、冬には雪を降らせるらしかった。中学生のころに家族で出かけた松江城や武家屋敷前はでこぼこの雪道だった。小泉八雲がここの冬に耐えきれずに一年足らずでいなくなってしまったという逸話の残る土地だった。高校三年生の冬、ひとりで電車を乗り継いで大学受験に来た島根県は、雪は降っていなかったけれど、あつい雲が立ちこめていて、香川県のさわやかに晴れた冬空とは対象的だった。

 大学の前でバスを降りるとき、バスの料金を間違えて、両替専用の投入口につっこんでしまった。気がついた運転手が腕を伸ばして、下から出てきた細かい金を次々に料金入れに投げていく。その挙動を見て、どうやら間違いを犯したことに気がついたけれど、きちんと判断をする頭が働かず、無言のまま、両替口に小銭を入れる手を動かしつづけた。うしろに立っている受験生がみな、こちらを見ている気がした。運転手は何も言わず、すばやい手さばきで、料金入れに十円玉を入れていった。押し出されるようにバスを出て、大学の門をくぐり、しばらくしてから、ああ、しまった、と思った。申し訳なかった、せめて一言、謝ればよかった、と。ふりかえるとバスはもう次の停留所へ向かっており、後ろにいた受験生の集団がきびしい顔をして近づいてくるのだった。

 新しい土地にいれば自分にもまともな友だちのひとりやふたりくらい、簡単に作れるような気がしていた。高校ですっかり懲りたはずなのに、まただれかが寄ってきて、思いに沿うようなやさしい言葉をかけてくれるものだと考えていた。大学入学の直前から始めたひとり暮らしの数日間は、だれとの会話もないままに過ぎ、いくつかの手続きや荷ほどき、生活の準備で埋まってしまった。入学式の日、すでに周囲はグループを作っていた。

 いったいどこにグループを作る時間があったんだろうと思う。説明会のときも、そのあとの簡単な自己紹介でも、教育学部の同級生たちは、自分はひとりではない、というオーラを出しているように見えた。だれかが立ち上がるのを見つけると、あ、あの人はまだひとりかもしれない、と思う。その人の挙動を目で追っていると、すぐにどこかのグループに合流し、話しかけているところを発見するのだった。しかもその人は、もう、それが一度目の接触ではないことが明白な、打ち解けたような笑い方をするのだった。

「これからメシ行く人ー」

「あ、行くー」

「どうする?」

 どうする? 今出れば、きっといっしょに話すことができるだろう。けれども男女入り混じった十数人のグループの会話が、どうしようもなく遠く聞こえていた。講堂の、長机二つ分の距離を詰めることができず、悩んだあげくに、ひっそりと、出ていく。

 ”ひとりさがし”をつづける日々だった。教室の後ろの方に座って、同じ講義に集まった人たちの中に、ひとりで行動する人を見つけようとした。学生食堂やメインストリートでも、この人はひとり、この人はひとりじゃない、という分類作業を頭の中で行っていた。少しずつ、ひとりは見つかっていった。次は行動だ。でもなんて声をかければいいだろう?

 新入生の一斉健康診断は、うってつけの機会に思われた。何しろ人間が密着している。まだどこにも属することのできないひとりを見つけるのは簡単なことのように思われたし、行動もしやすく感じられていた。「まだ寒いね」「背ぇ高いね」くらいなら言える気がして、口の中で何度も唱えていた。靴や貴重品を外すように言われ、身長、体重をはかられ、渡された尿検査用のコップにトイレで尿を流しこみ、尿を渡し、たっぷり二本分の血を採られ、血圧計にぎゅうぎゅうしめつけられ、まばたきをし、上下左右を答え、ボタンを押し、シャツ一枚でレントゲンを撮られる。まさかその間、だれとも話すことができずにただ流されて、「はい、これで終わりですよ」というあっさりした声を聞くとは思っていなかった。うそはよくない。本当は、きっとそうなるだろうと思いつづけていた。(続)

 

(続きはPDFをダウンロードして二章からご覧ください。)

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