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離れ、交わる:牧村 拓

 乾ききった草原にへばりついた雑草を思わせる産毛とよくかき混ぜられた上等な生クリームを思わせる白い肌。後ろを向いてブラウスをはだけ、上半身をさらけ出し、ただ君は『なにか』をじっと待っている。君にそれを届けてあげられるのは僕だけだ。『なにか』とは君にとって自分を固定化し、地に足をつけさせてくれるもので、精神が浮揚している君に与えられるべきものだ。だから僕は君の肌を焼く。焼くという表現はよくない。それは言ってしまえば、ありったけの愛情を込めた『キス』のようなものだ。愛しさと憎らしさをないまぜにして出来上がった僕の中の君の像を、君の中へと焼きつかせるための『キス』。

「ねえ、今からすることについて君はどう考えているんだろう」

 返事はない。だから僕は『キス』をする。ふたつの肩甲骨、そのちょうどまんなか辺りの肌が焼け焦げ、爛れていく様をじっと待っている。ゆっくりと慈しむように、けれど性急な残酷さを持って、僕は火を灯した煙草を君に押し付けていく。祈りを捧げているような姿でもあった。僕に表情はない。今の僕と君との間に介在するべきものではないからだ。そこにはどんな不純物も混じっていてはならない。混じってしまえば、それはもう『キス』としての意味を果たせなくなり、ただのありふれた下劣な行為に成り下がってしまう。

 煙草を少し下にずらし、また『キス』をする。肌から火種が離れた瞬間に、君がちいさく呻き声をあげる。一層のこと君を愛おしく思う。僕はまたじっくりと待っている。どんどん満ちてくる水を必死に湛えている水瓶みたいだ。君みたいに大切な存在を傷つけるのは、必ずしも僕の望むところではない。けれど、何かしらの変化を望むならば、そこでは血が流されなければならない。それはもちろん形而上学的なことではあるのだけど、『ここ』では君に実際の血を流してもらう。なぜなら君と僕の関係は、お互いの夢と空想だけを材料として作りあげたものだからだ。そのような関係を地に根付かせるためには実際的なものが必要になる。

 火種の消えかかる煙草に火を点けなおして煙を吸い込む。肉の焦げたような匂いと血のなま臭さが鼻につく。これはしかるべき犠牲を払うことによってなされる尊い行為なのだ。いっそのこと『儀式』と呼んでもいいかもしれない。君の肌を生贄として捧げ、君の血を供物として預かり、僕が君を昇華させる。一連の行為の正当性について、僕は何の疑いも持っていない。生贄として身を捧げる女を思わせる。犠牲についても僕と君の間では些細な問題としてすら立ちはだからないだろう。僕らは激しく傷つけあってきた。そのたびにお互いに癒し、お互いに傷を掘り返し、そしてまた舐めあって生きてきた。そのような関係性においては、犠牲とは日常的に払われるコストでしかない。そう、コストなのだ。僕らが夢と妄想の上に浮かんだ生活を続けるために必要であったコスト。もちろん僕は定期的にきちんと払い続けてきたつもりだった。けれど、僕らの前ではいささか小さすぎるものであったらしい。だから今の僕はこうして彼女の同意を得たうえでコストをまとめて支払っている。帳尻合わせをしているみたいだけど、世界はそういう風にできているのだ。頭が出っ張れば尻尾が隠れてしまう。それだけのことだ。

 君の白い肌にまた赤黒い痕が残ったのを確認して、また少し下に煙草の先端を持っていく。君も『行為』に慣れてきたようで、黙って自分のつま先を見つめている。世界というものが何であるのか。僕にとっての命題のひとつだ。それは随分とあやふやなイメージで成り立っているように思われる。たとえば僕にとっての世界と君にとっての世界はまったく違うものなのかもしれない。さらに言えば僕らそれぞれの世界と僕ら二人の世界もまったく違うものだろう。でも僕らはこうしてごく近い距離で生きている。それはイソギンチャクとクマノミみたいにも見える。互いの世界が衝突してしまわないように、あるいは互いの世界が溶け合うように、便宜を図りながら生きている。果たしてそんなことが可能だったろうか。その歪さの証明として僕は今、コストを払っているようにも思える。けれど、世界というものは意外に優しいものなのだとも思う。少なくとも僕らが抵抗する余地を残してくれている。それだけで十分なのではないか。それさえも許されない、本当に絶望的な世界だってあるのだろう。僕らにとっての世界が優しい。それを感じ取れただけでもこの『キス』には意味があるのだろう。

 最後に煙草を押し当てる。今まで以上にゆっくりと確実に君の肌を焼いていく。君は変わらずじっと押し黙って耐えている。ひとつの声も漏らさない。僕と君の息遣いと煙草が燃えていくちりちりとした音だけがある。君は泣きだす。

「やっぱり辛かった?今ならまだ引き返すこともできるんだよ」

「ううん、そうじゃないの。ただ自分があるべき姿になっているのが感じられて嬉しいんだよ。けれどそれは以前までの私とまるで違う私になることで、だから私は泣いているの。私自身への手向けとして」

 その涙は僕らの間で長いこと待たれていたものなんだ。だから誰に憚ることもなく泣けばいい。言おうとした唇は、一つの太い線になり、動かない。

「だから私はここで泣くの。誰に邪魔されることもなく」

 話している間に凝縮された最後の一点は綺麗な痕になり、君の肌を、あるいは君自身をすっかり別のものにしてしまった。君の背中には『I』の文字が浮かび上がっている。僕と君のそれぞれを示すものとしても、僕らの間に存在するものを示すものとしてもそこにある。絶望的な思いを吸い込んだ大地溝帯みたいだ。あるいはこれからの君がそれを後悔することだってあるだろう。けれど、今の君は間違いなくそれを必要としているし、僕だってそうだった。ならば、これは恥じるところのない正当な戦いの痕なのだ。

 君はここにいるし、僕は隣にいる。それだけのことに正当性を与えるには大袈裟な『行為』だったかもしれない。けれど大きく歪んだ僕らの間を埋めようとするならば、大きなものが必要となる。時にそれは僕らを覆いつくし、僕らを変容させてしまうだろう。けれど、決して大きな力が届かないものもある。たとえば愛がそうだ。僕は変わらず君を愛すし、君は変わらず僕を愛する。これだけのことが今の僕らを充足させる。そうでもしなければ手に入らないものに執着する様は、誰かから見ればまったく間違っているのだろう。けれど、確かにある愛を僕らが慈しみ、愛を媒体として寄り添い生きていくことの正しさを、僕は知っている。だから、ひとつの終わりとひとつの始まりを示すために、君にキスをする。コンクリートにしがみ付いた苔のような僕の髭と小さな芋虫が2匹横たわっているような君の唇が、すれ違ってから、触れ合った。

                               (了)

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