twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

弓返り:小山内 豊

 射場に五人並び、大前、一人目の射手が矢を放つ。即座に、乾いた硬質の音が響く。二的、つまり二人目の射手である木藤には、それを見届ける余裕はない。座射であるから、前の射手が矢を放つ前に、すでに矢を弓に当て、立ち上がっている。木藤は「柔らかく……」と、念じながら足を踏み、胴を作り体の重心を固定する。手の内を整え的をみる。的は学生のころ見たそれより小さくなったように感じられる。そして深く構え静止し、放つ。矢は身を躍らせ風を切り、深々と的に突き立った。ぐっと、体が熱を帯び、動悸が高まる。その満足感からか、射たあとに身を落ち着かせる動作である、残心がおろそかになった。(籾山に見られたか)と、木藤の心は乱れた。道場の責任者である籾山は範士で七段、弓道の権化だ。わずかな乱れも見逃すはずはなかった。二射目は動揺からかすべての動作が早急で、自身でも落ち着きのなさを感じた。

「十年ぶりにしてはいいね」と、待機室に入るなり籾山に言われた。いやみな言い方ではない。範士として後進である木藤を指導しているのだ。

「当てたい気持ちが出てしまいました」

「それはそうだけど、型はいいよ。練習すれば、錬士になれる」

「錬士ですか」と、木藤は笑いながら席に着く。褒めたのだろうが、悔しかった。真面目に取り組めば、錬士の二つ上の称号である、範士、つまり籾山と同じところまではいけるつもりでいた。大学の卒業と同時に辞めた弓道をいまさら再開するのなら、登れるところまで登ってやろうという気持ちがあるのだ。

 それでいいたいことは全部だと言わんばかりに、籾山は射場へ注意を向ける。十年ぶりに弓を握った人間の技量がその程度であるのは仕方がないが、それにしても冷淡である。もともとの性格なのか、それとも責任者としての自制心がそうさせているのかわからない。ほかの会員はどのように思っているのか。おいおい聞いてみたいものだと、木藤は思った。部屋の壁に掲示された名札をみたなら、その序列のいちばんに、籾山の黒く馴染んだ名札が下げられている。それから二つあけて、六段、教士の何某のもの、続いてもう一人。教士は二人だけで、以下には錬士が続く。錬士の一番は五十川だ。ちょうどその五十川が射場に入り、射位にはいった。白い弓道衣の下から、引き締まった筋肉が盛り上がっている。仕事は消防士だと聞いている。この弓道場において、籾山が静であるとすれば、動は五十川である。淡々と、それでいて緊張感を湛えた演武をみせる籾山に比べ、五十川の行射には良くも悪くも獣じみた強さ、勢いがある。二十キロの弓を震えもせずに引き絞り、会、放つ。ひときわ大きな音が響き、周囲の目が注がれる。霞的の真ん中に深々と矢が立っている。五十川の顔に控えめだが明らかな笑顔が浮かぶ。

(笑っちゃだめだろう)と、思わず木藤は目を逸らした。つまらないものを見たというよりも、見事な行射に比して、的を射たあとに笑顔を浮かべるという未熟さに、苦しさに似たものを感じたのだ。視線が泳いだ先で、籾山も同じように射場を見ていて、その表情は冷たく強張っている。待機室では五十川の行射に感心して身を乗り出す者までいるが、籾山はじっとして動かない。それどころか、場を一刻も早く落ち着かせたくて、ことさら静かにたたずんでいるのだ。

 就職して十年が経ち、勤め人の生活が身についたころに、なかば強制的にでも、自分を省察できる時間が欲しいと考えるようになった。その思いはだんだん強くなっていく。会社での労働には、組織に対する忠誠心以外にも、個人的な動機が必要であるらしい。そんな不断に業績を上げていく鋭意は、いったいどこで養われるか、そういう問いが近頃、木藤を悩ませていた。直接的な答えはなさそうであったが、省察することには目算があった。かつての自分のどのような瞬間に、そんな時間があったかと考えると、それは学生時代に弓道を習っていたときである。いまでもその効力があるのかは、わからない。

 インターネットで「弓道場」を検索してみると、住所から車で二十分ほどのところに道場があり、初心者の講習もやっている開放的な組織だという。職場での昼休みにサイトで調べをつけて、帰宅するなり妻に話をした。毎週土曜日の午前中に弓道場へ通う、了解を得るためだった。

 練習を始めて二ヶ月、酷暑との戦いが必要な季節になった。弓道場へなんどか通っているうちに、この道場の核に当たるのは、やはり、籾山を措いて他にはいないと思うようになった。籾山の行射は特別演武のようなもので、入場から退場まで嫌味なまでに気負いも油断もない。気の抜けがちな矢番えの一つをとっても、静かな緊張をうかがわせる。弓構えから矢を放った後の残心までは、時間芸術と評しても過言ではない。武道は芸術そのものではないが、籾山のそれにはある種の美しさが否定できない。どうすればあのような演武ができるものか、木藤は真剣に考えた。

 ただ練習を続けるだけでは行き着けないと思えた。籾山の演武の背後には、それを支えるだけの思想があるに違いないと思えた。その思想こそが、木藤の求めるものである。それをもって、平日の仕事にも身が入るのではないか。木藤は当初の過信を恥ずかしく思い、以降は行射のたびに籾山の下へ言葉をもらいに行った。籾山の指導は具体的だった。年長者にありがちな感覚的な物言いを、あえて避けていると思われた。最近はその甲斐があってか、むかし習った所作の一つ一つも思い出されて、演武にキレが出たように感じられる。籾山に訊くと、「むしろ油断じゃないですか」と、注意を受けた。

「慣れたように感じられるのですが……」

「慣れるというのはいいことですかね?」

「うーん、その上を目指せるという意味では」

「あなたは性急ですね。入部されたころの行射には、緊張と気負いがありましたが、いまはそのどちらも薄まったように思います。気負いはなくしていかなければならないですが、緊張感までなくしてしまってはいけない」

「自然な所作を残したまま、緊張できますか?」

「緊張とは、気の張りのことです。体のことではありません」

 木藤は赤面して下がった。

 炎天下の弓道場では矢道から湯だつように蒸気がたち、的がかすむ。二十八メートルという的面までの距離は、ただでさえ疲れた目に定めにくい距離である。周囲を見ていても部員の緊張感は薄らいでいる。籾山のことであるから、例によってそんな空気を払拭しようと、木藤に対しても厳しいのかもしれない。気だるさが漂う中で集中力を絶やしていないのは、籾山を除けば、やはり五十川しかいない。練習の時間をしばらく過ごし、部員のプライベートなことも少しずつ耳に入るようになると、五十川についてもうわさが聞こえてきた。何度か話す機会もあった。どのようなグループにも踏み外したところがそれなりにあって、この弓道部にもそれがある。五十川は賭弓をやっている、という疑いをもたれているのだった。そうした不穏さが範士相当の腕前を錬士に留めているらしかった。いったいどのような方法で賭弓ができるのかと、木藤はいっそう五十川の演武を注視するようになっている。毎回みていると、確かに必要以上に命中にこだわる。五十川以外にも、何人かの部員がそうした傾向にある。それらがみな賭弓に関わっているのか、そこまではわからない。五十川の的狙いも、日によってばらつきがある。ことごとく外す日もないではなかった。それが五十川の狡猾なところなのか、それとも賭弓などというのはうわさに過ぎないのか、木藤には判断がつかない。籾山が自分の道場で賭弓が行われている状況を見過ごすとは思えなかった。事実を知っているのなら、それに関わる部員を、全員退部させてもおかしくはないだろう。じつはその事実を見つけようと、射場を見ているのかもしれない。

 あるとき、道場に四十キロの強弓が持ち込まれた。部員の一人が礼射といって、寺社の行事などで使われるそれを借り受けたのだった。木藤の使う弓は十五キロのカーボン製である。この場合のキロ数は弓の重さではない。弦をひく際の重さだ。審査などにはかかわりがなく、あくまで各自が体にあった重さの弓を選ぶことになっている。それでも、一部の競技者は、あえて重い弓を選び、その威力に浸るむきがある。それらは下手であるが、お遊びの楽しみがある。見守るそばから、部員の何人かはさっそく手に取り、その重さに驚きの声をあげる。順番に試してみるが、まともに引ける者はいない。木藤は籾山の反応を気にしていた。籾山がこうしたお遊びを歓迎するとは思えない。様子を見ると、いつもと同じようにきまった位置で射場を窺っている。ことさら無視している姿だった。色白の四角い頭の中心で、冷めた黒目が光っていて、口元はかすかにゆがんでいる。おそらくは木藤の視線に気づいて、その眉間を緩めると、つまらなさげな表情がありありと浮かぶ。木藤の目の前で、強弓は人から人へと渡っていく。そのたびに見知った声の、驚きと笑いが待機所に響く。誰も素直に楽しんでいる。その強弓も、もともと弓道に属していて、祭りの露払いに用いられるものである。決して見下げたものではない。たしかに、武道の練習中に、歓声をあげるのは下手である。真面目に稽古するつもりで来た人間には、迷惑以外のなにものではない。しかし、こうしたおもしろみを無視して、ひたすら日常に励むのは、はたして現代的な武道のありかたなのか。木藤はふと籾山の態度を、日常の仕事と連想した。なにが目的であるかはっきりとしていて、それ以外の行動は評価されない。

 五十川が更衣室から姿を現した。人だかりをざっと見てから籾山に挨拶する。定位置に座り弓道衣のよれを締めなおす。身支度を整えていると、すぐに強弓が彼のところへと運ばれてくる。だれかその弓を引けるものがいるとすれば、それは五十川以外には考えられない。木藤は籾山の弟子として、もちろんそれは内心でそう思うだけのことだが、この事態を収めるべきではないか、という考えがよぎる。それに抗して、強弓が引かれる姿に魅せられている。自分が余計なことをせずに、それから、籾山がこのまま無視していたなら、それは実現する。もういちど籾山を見ると、先ほどと同じように、誰もいなくなった射場に視線を投げて、時間がすぎるのを待っている。五十川はしばらく心を落ち着けていたが、「よし」と、一声かけて立ち上がると、差し出されていた強弓を受け取った。木藤は興味を抑えきれず、籾山への申し訳なさを感じながらも、よく見える場所に歩み寄る。弦すらもいかにも太く、硬そうであった。五十川はその撓りを確かめると、射場へと進む。立射だった。胴を作り、矢の羽を握りにあわせる。的を見る目つきにおふざけの様子はない。普段にもまして武者ぶりを感じさせるのは、弓の無骨なまでの作りのせいだろうか。矢を番えると、その強弓を頭上に構える。すっと、弓を前に出し、弦はやすやすと引かれている。(いや)と、木藤はあらためる。いともなげに見せていて、五十川の腕は強い力で震えていた。目線からさらに深く弓を引くと、それは明らかになる。それが、射る瞬間にはぴたりと静止した。矢は目に留まらない速さで露的に突き立っていた。中白のわずか右に、羽の根元、いくらか羽すらもめり込ませている。

「おおっ」と、部員たちはどよめいた。

 見慣れた、聞き馴染んだ物とはちがう強さが感じられた。暑さで火照った肌に冷たい空気が触れたようだった。木藤もまたすがすがしさを覚えた。五十川はもう一本の矢を番え、同じく引き絞ると、的に向けて放つ。再び鋭い風切音とともに、矢は深々と的に刺さる。あまりに勢いが強すぎて、矢は的の中に消え失せてしまった。さすがに気色ばむ者もいた。それはもう武道とは言えない、祭りの有様である。おめでたい、しかし、清澄な雰囲気などない。何人かがその輪から外れ、籾山の近くへと去っていく。木藤は去りがたいものを感じて、もう少し、と残った。そうしているうちに、籾山はいつの間にか帰り支度をしている。さっさと道具をしまい、軽く目礼を交わしつつ更衣室に下がっていく。木藤はその姿に息苦しさを感じた。まるで乱れもなく、騒ぎ立てることに苦言もなく、黙って去る。あまりに依怙地であると思えた。

 木藤は稽古のあと食事に誘われた。メンバーはかねてから五十川と親しくしている部員である。木藤が加わることはこれまでなかったが、彼のほかにも何人かのものが、初めて参加するらしく、それは祭りのあとの打ち上げに似ている。

「めずらしいね?」

 五十川は木藤に気づいて話しかけてきた。

「いや、今日の見事な射にあやかろうかと……。五十川さんは、消防士をやってらっしゃると聞きましたが?」

「ええ、普段は、弓道衣じゃなくて、オレンジの作業着ですよ」

「弓道はいつから始められたのですか?」

「就職してしばらくですね。もう、二十年以上やってますが、段位はぱっとしません」

「いや、すごく達者ですよ。ほれぼれする。私は、この道場では籾山さんと五十川さんをお手本にしようと密かに思ってるんです。こんど、ぜひ指導してください」

「そりゃ、いいですよ。僕なんぞでよければ。しかし……」と、五十川は木藤を値踏みするように見る。

「僕の見る限りあなたはちょっとまじめすぎますね。それもいいけど、籾山流は、僕は疲れちゃう。だから今夜はひとつ、酒の飲めるところを見せてもらおうかな」

 ああ、そりゃあいいですね、と周囲の人間が賑やかして、木藤の肩をたたく。木藤さんもこれで五十川流に入門ですねぇ、と、満足げに顎をしごく者もいる。

(そういう意味になるのか)と、木藤はいまさらながら思った。

 籾山に睨まれてはたしてあの道場で続けられるか、覚束ない。しかし、五十川たちの間にある、くだけた気安さは、これもまた大きな魅力に思える。周囲に勧められるまま強い酒を飲み、木藤は久しぶりに酔っぱらった。だれかわからない相手の肩に、腕を回すこともあったようだった。シャツの何か所かに料理の油さえ染みている。木藤がなれなれしく周囲に接しているのを、指さして喜ぶ五十川の顔、そんな楽しさを何度か感じた。

 そうやって過ごした後、眠気まで感じながら電車の手すりにつかまったとき、何の気なしに見ていた光景が思い出された。五十川が出席した人間の一人から茶封筒を受けとっていた。ちらりと周囲を確認して封を開ける。マイクを握り歌っていた木藤は気づかぬふりをしながらそれを見た。千円札が何枚か、五十川の手元で数え上げられる。渡した男が何か言いながらそれをとりあげ、五十川の懐へと押し込んだ。飲み屋の支払いではない。

 翌日からその記憶が木藤を困惑させた。飲み会の時のことも、それ以降、目の前でやり取りを交わすための伏線だったのかもしれない。木藤は苦々しく思った。打ち解けたと感じたものは、霧散していて、近づくこともためらわれる。籾山との間にも白々しさが残っている。もうこの道場を見限った方がいいかと考えているとき、籾山に声をかけられた。秋口になっていた。食事に誘われてついていくと、行きつけらしい割烹である。総勢五人であったが、木藤と話したくて誘ったというのが話さずとも伝わってきた。カウンターの抑えた照明のもとで隣りあって座り、互いに飲み交わすうちに、しぜんと道場の話になる。

「あの人は不純でしょう」と、籾山は言った。五十川のことである。

「実は残念に思っているところでした」

 すべて知っているのを感じて、木藤は最近の出来事を話した。籾山はほかの部員にも何度か相談されたことがあるのか、表情を変えずに頷いて見せる。「なぜ五十川を糾弾しないのか?」と、木藤は訊いた。

「糾弾?」と、籾山は初めて見せる人懐っこい笑顔を見せる。間近で見ると年齢相当の皺が目元にうかんだ。

「部員の方ははそれぞれ大なり小なり問題を抱えていていますよ。私も営業職で定年まで勤めたから、それはわかります。いまの社会で生活していれば、みななにかしら苦しいところを抱え込みます。そうじゃないと、それも不感症という苦しさです。武道を通じてそれを発散できる人は幸運なんですよ。できない人もいるのだから。それを知っていたら、なおさら、糾弾なんてできません」

「ご不快じゃないんですか?」

「それは、いいものじゃない。五十川さんみたいな、達者な人が賭弓をやっているのは悲しいですよ。しかしね……」

「しかし?」

「人は変わるものなんです。苦しいことを吐き出せたら、なおさら見えてくるものがあるでしょう。僕はそれを期待したいですね」

 木藤は頷かされた。いつしか、同席していたほかの部員も話に聞き入っている。

(自分はやはり、籾山派だな)

 そう思いつつ、籾山のタンブラーに焼酎を注いでいく。みな酒豪であった。

 再び籾山から指導を受けるようになりしばらくすると、五十川のグループはまとまりを失っていった。なにが起きたというわけでもなく、だれが音頭をとったわけでもない。それは籾山の言うように、苦しさを吐き出して、自然と元の鞘に納まったのかもしれない。それが、どうしたのか五十川が欠席を繰り返すようになった。あるいは彼一人が変われなかったのかと木藤は考えた。しかしそれは誤解であるらしい。たまに見かける消防士の姿に、ふざけた様子は窺えない。むしろ以前にも増して鋭く、安定した演武である。弓道の本筋、それを妨げているのは健康を崩したことにあった。

 最後は九月だった。弓道教室は休みだったが、どうしてもという五十川の願いを聞き入れ、範士の籾山が許可を出す。聞きつけたもの数人が駆けつける。木藤もその一人だった。出席した者はそれが五十川の最後の行射であると知っているはずである。射場に座る五十川は蒼白な顔をしていた。筋肉ばかりが骨に張り付いて、度を越えて引き締まった様子は、死を連想させた。そこには疫病の神が立っていた。底知れない頑健さを感じさせるとともに、どこを見てもやつれ果てていた。獣のしなやかさが失われ、鉄骨の肢体であるかのような、ぎこちなさが残されていた。そこに過度な力がこもっている。痛みに耐えているのかもしれなかった。五十川は本座から射位に入り、執弓の姿勢をとる。

 一矢めをはなった。二矢め。同じように番え、また、弓をしならせる。緊張の間をとるかとらないかの後に、矢を放った。残身。軌跡を見届け、反動で回り込んだ弓を下ろす。みごとに中白を射ぬいている。満足げに目を閉じた。五十川六段、最後の一矢だった。

                               (了)

コメント: 0