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犬を処分せよ【第三回】:小野寺 那仁

 村中大工の働いている岬の先端の分譲地は海岸からはおよそ十キロ、丘の上の高台にある。南面だから陽当たりはいいのだが、海からの風は想定外に強烈で秋から冬にかけては寒くてたまらない。パンフレットのイメージ写真からは窺い知れないマイナス面もあるものだ。それでも空港が海上島に誕生してからは徐々に売れ行きを伸ばして二百区画のうちの最後の十数区画の販売にこぎつけるまでになった。分譲地の最後の建築は、現場監督泣かせである。誰も住んでいない山の斜面を切り開いた当初はクレームはない。けれども最後になるとすでに百九十の世帯が暮らしている。クレームは単純にゼロから数百にまで膨れ上がることになる。自分たちだって騒音を垂れ流した現場の施主であった時期もあるのだが、学校の道徳教育がなっていないのか、クレームをつけなければ損とでも思っているのか、とにかくやることなすことにケチをつけなければ気に入らないらしく、特に騒音と美化に関しては日増しに関心が高くならざるをえない。

 由佳とメールのやりとりをしながら高速道路を飛ばした。レストランの予約は間に合いそうになかったので時間を変更してもらった。思いがけず、変更できたので大にも余裕はできた。聞けば由佳の方でも積算に時間を取られてなかなか抜け出せないような状況らしい。それを聞くと華岡と宗方の愛娘のデートの場面が眼に浮かんできて無性に腹が立ってきた。まったくむかつく野郎だぜ、車内でいつの間にか声に出していた。大はクレームの書類を運転しながらまとめあげた。これを村中大工に叩き付けてやる。

 岬に到着するころにはすっかり短い冬の日は暮れていた。夕焼けに輝く雲間を縫って空港島から毒々しく機体を彩色した激安東南アジア向け航空便が飛び上がっていく。近い、あまりに近すぎる。爆音が轟いていた。飛行機に乗っている乗客の顔まで見えるのではないかと思う。先端から様々な光を出していて夕焼けに染められた機体は燃えながら飛んでいく不死鳥のようだった。こんなものに見とれている場合ではないと大は我に返った。日没のほんの一瞬間のことだった。あたりはすぐに闇に包まれた。

 分譲地に到着すると底冷えのする寒さと海からの風が襲いかかってきた。村中大工の汚れたワゴン車が無造作に道路を塞いでいる。まったくやることなすこといい加減なんだから。それで犬は?と眼を凝らしたが犬らしきものは見当たらない。造作中の建売住宅には明かりが灯っている。まだ電気が引かれていないから村中大工の持ち込んだライトらしい。よっこらしょと重い玄関ドアを開くと暗がりの中から談笑する声が聞こえてきた。

「さむい!だあれ?」年齢に不相応な甲高い声が聞こえた。暗くて何も見えない。

「木島です。NCHの木島大ですが。村中さんみえますか?あ、痛っつ」闇の中で脚に激痛が走る。慌ててズボンを触ってみると引っ掻いたような傷。肉にまで何か硬質のモノがのめり込んでいる。「痛いなあ」大は傷口に触れるともうぬんめりとした濃い血がほんのわずかだが流れていた。携帯電話のライトをかざすと電動丸ノコが罠のように玄関に放置してあるのであった。村中大工は「ああ、そうか」と返事はあったものの、それだけだった。

 温厚な大でさえ少し腹立たしかった「ダメじゃないですか。工具をきちんと片づけてくださいよ」工具ばかりではない闇の中には床柱やドアや鉄骨の残材が転がっていた。それは果たして残材なのか、それとも今から取り付けるものなのか。まったくわからない。壁面ボード材が積み重なり断熱材も山積みだった。足元を見れば床もまだ施工中で半分くらいは空間が空いたままだった。そうだ階段代わりに脚立を利用している。しかも天板にのらねば二階に辿り着けない。そして転落防護ネットもないじゃないか。うわあ、最悪最低の現場の見本としかいいようがない。携帯の僅かな光に浮かび上がる。鉋屑、鉄骨の切れ端、金属片、砂粒、埃、ひらひらと舞う断熱材の樹脂、発砲スチロール。ありとあらゆるゴミ。

「お、大くんか、危ないじゃないか?」初対面からいきなり大かよっ。

「きちんと整理整頓してください」

「電気そっちに向けるよ」村中大工が電源をいれると今度は部屋全体がまばゆい光に満ちていった。「いやあ、こんなに点けなくてもいいですよ。外から現場が汚れているのが丸見えになるじゃないですか」

「そうだろう。俺もそう思ったんだよ」

「もう少しなんとかならないですかねえ」

「ううん、仕事中だからね。いちいち掃除してたら時間がいくらあっても足りない」村中大工は予想していたよりも多少は若く見えたが七十過ぎの白髪の男だった。髯も白かった。だが手足は筋肉質であることは体つきから作業服の上からでもわかった。ところで作業服というよりは作務衣のようないでたちなのでこれもルールから外れている。それをいえばヘルメットも安全帯も今は装着していなければならないはずだった。

「この配線ってぐちゃぐちゃになってますよ」大は床を指さす。

「ああ、それ電気屋。帰っちゃったんだよね。残業しないで。だから床を全部塞ぐわけにもいかないんだよ。なんか配線あるみたいだからね。まだ」

「あれ、何か焼き物の匂いがしますね」プーンと醤油の焼ける匂いがした。

「大丈夫ですか?何か燃えていません?」

「いやあ、その」村中大工はしどろもどろになった。

「どうしたの?」男がもうひとり近寄ってきた。

「あれ、正岡さんじゃないですか?」

「おお、こんなとこにも現れるなんて!」

「それはこっちのセリフですよー」大と正岡は数か月から何度も打ち合わせしていたのだ。正岡は煮え切らない顧客で一旦はアパートと自宅を新築すると云ったくせに約一年前に反故にした。大が営業だった頃の客である。それからも数回は会っていた。すでに定年後の年金生活に入っている彼は暇を持て余してオフィスに顔をのぞかせた。まったくの冷やかしでもないので大は折々プラン提示くらいはしていたのだが。

 一応、客なのだから挨拶した。そしてもう営業から現場監督になったことも告げた。

「ふうん、大手でもいろいろするんだね。最近じゃ」まったくあの時に契約してくれればこんなことにならなかったのにと大は口惜しくも思った。

「どうですか。株の方は?確か株価が回復したらまた考え直すっておっしゃってましたよね?」

「だって君もう監督さんなんだろう。そういえば前は設計だったよね」

「いえいえ、設計だろうが現場監督だろうが営業ノルマみたいなものはあるんですよ。住宅販売会社ですからね。むしろ設計面や現場面からもアドバイスできる自信は以前よりもありますよ」

「そうか。ま、立っているのもなんだからこっちに来ませんかね。電球がそっちを向いていたら私のほうが真っ暗でどうにもならないですよ」

「おお、そうだ、そうだ。お客さんだからな」村中大工は助かったと云わんばかりにそそくさと元いた部屋に引っ込んでいった。そしてコードをひっぱり電球を引き寄せた。

 その瞬間、あっと大は息を呑んだ。

「なんですか、この煙は?火事じゃないですか。燃えてますよ」大が興奮したのが伝播したのか、傍らから犬の吠え声がキャンキャンと聞こえてきた。あ、これが目的の犬か!と思ったがそれよりもまずは炎と煙が気になる。

「木島さん、落ち着いて落ち着いて。これ、単なる大アサリだから。ちょっと火が強くて煙っているだけだからね」大の頭の中はパニックだった。

「そうだよ。大君。大騒ぎするなよ。近所に聞こえるぞ」

「ちょっと待ってくださいよ。これ道路面から丸見えじゃないですか。やばいって。カーテンか雨戸閉めてくださいよ」

「そんなものあるわけないだろう。まだ内装工事始まって三日目だぜ」

「しょうがないからこれでも使うか」村中大工はボードで窓のガラスサッシを塞ぐつもりだ。「重いからちょっと手伝ってよ」大と正岡は手伝った。石膏ボードの粉末で大のスーツは真っ白になった。その間も犬が足元に纏わりついてきて蹴り飛ばしてやりたくなった。

「こ、こんなことしてたら現場監督はクビになりますよ」

「現場監督って君だろう?施工ボードに名前が書いてあったぞ」

「え、本当ですか?今月からなのに。誰が書いたんだろう。もう頼みますよ」大は泣きたくなった。

「だから俺が名前を知ってるんじゃないか。それにここの担当でなかったら君ここに来ることもないだろう」

「でもこの現場の設計は僕ですからね」だが、そんなことは、それこそどうでもいいことだった。

「村中さん、僕をクビにしたいんですか!あんまりひどいじゃないですか!」部屋の中には簡易コンロが置かれていて網の上には大きな大アサリがふたつならんで口を開いていた。もう食べごろになっている。石膏ボードの粉末が降り注いでいることは間違いない。犬がやってきてくんくんと匂いを嗅いでいる。

「いやあ、すまん、すまん。昔だったら別に普通のことなんだが、どうも最近はそうでもないらしいな。よく社長から注意されてる」

「注意されてるんだったらやめてくださいよ!」

「この大アサリや焼酎を持ち込んだのは私だから……大工さんとね、一杯やるかって話になってウチから持ってきたんだよ。大アサリは舞子で採れたもの」

大は正岡の顔と食材を交互に見つめる。

「正岡さんが買ってきたなら、そりゃ仕方ないですね。でも焼酎はダメですよ。飲酒運転になりますからね。そんなの絶対にダメ。クビになりますよ」

「いや、焼酎って君、これノンアルコールだからね。いいの」正岡は瓶をぶらぶらさせている。

「俺も飲酒運転はしない。飲むなら家には帰らずワゴンで寝ていくから。昔なんて毎日そうだったから平気だよ」焼けた大アサリを見ながら大は思い出していた。

昨夏に華岡が水上バイクを購入して舞子で走らせてみたのだが、空港島にほど近いビーチには真っ黒な油が浮いていた。一緒に来た女の子たちのビキニは二度と使えなくなるほどの汚れようだった。大は顔を水面に漬ける勇気がどうしても出なかったのである。確かにそのときアサリを拾っていた人たちもいた。汚泥のなかで。

「どうかな大君も?」焼酎の瓶をかざして正岡は薦める。

「僕は勤務中だからやめておきます。大アサリも」

「おいおい、そんなこと言うなよ」

「ダメですって!」

「お客さんなんだけどなー。もし君さえ良ければワゴン車に泊まっていっても私は構わないよ。正岡さん、今回はここの建売を買うかもしれないんだよね」

 大はちらと携帯電話を見つめた。メールが届いてる。由佳と課長からだ。時刻を見ようとしたのだ。もう七時は大きく回っていた。約束の時間までに帰れるのだろうか。まだ本題にも入れていない。                                                   

つづく