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葬送:緑川

 その日、人々はいつものように薄暗い時分から活動を始めた。若い女たちは、いつものように喧しく言葉を交わしながら、木の皮を緻密に編んで作られた器を頭に載せ、水を汲むため小川へと続く坂道を下る。老いた女たちは煮炊きのための火を、土をこねて作った竈に熾す。

 昨日のうちに仕掛けておいた罠を見て回る、若い男二人はすでに洞窟を出発している。バンドの主だった男たちは、これもいつものように、朝のうちに、その日使用する石器や骨器を仔細に点検している。バンドの長とその甥である側近が、集団の構成員全員の一日の大まかな予定を確認するさまも、人々に馴染みのものだった。幼い子供たちが必要以上にはしゃぎすぎて、周囲の大人にたしなめられるのも、また、毎朝恒例の行事であった。

 そして、この数日来の見慣れた光景として、洞窟の壁に背中を押しつけて、両膝を抱え込み、物も言わずに、じっとうずくまっている初老の女性の姿があった。

 彼女―セラと呼ばれていた―が、自分の体がうまく動かないことに気付いたのは、夏の終わりのことだった。食欲もなかった。酷暑の季節が終われば体も元の通りになると思いながら、セラは無理をおして働いていた。そして、秋の始めには、立ち上がることさえもできなくなっていた。人々は、ようやく彼女に目を向けた。

 セラはおとなしい女であり、少女時代から今に至るまでずっと、仲間たちの注意を引かずに生きてきた。かつて連れ添った相手は、短い蜜月の後、狩りの最中の事故で先立った。セラはそのとき、すでに身ごもっていたが死産だった。「あの子らしいねえ。なにもかも。子宝にさえ遠慮して」とは、そのときに年長の女が心の中でそっと思ったことである。もしこれを言葉にしたならば、仲間たちの同意を得たに違いない。それも、もうずいぶん昔のことである。

 このときは、セラもまた巫者の資格を得たかと人々に疑わせた。人々は、セラの言動に日常との奇妙なずれを見出した。何かの出来事をきっかけに、それまで正常なバンドの一員として暮らしていた者が、人々には不可解な世界へとおもむき、帰ってこなくなる。実際に、そういう例もある。だが、セラの場合は、やがてほどなく日常に復帰した。人々は、何事もなかったかのように、再びセラを迎え入れた。セラの一時的な異常は、少なくとも彼女の前では決して蒸し返されることはなく、月日は過ぎた。もう何年も、同じようにして彼女は生きてきた。そんな日々が永遠に続くかと思われた。

 人々は、膝を抱え込んでうずくまるセラにちょっとした言葉を残して、一日の仕事に出かける。黙って彼女の白髪混じりの髪を撫でる者、肩のあたりに触れていく者もいる。彼女は表情のない目でそれに応える。バンド内での例外としては二人の巫者がいる。彼らは、そんなセラのすぐそばで、彼らにしか分からないやり取りを楽しげに交わす。ときおり、生臭い奇声を発したりもする。巫者たちは現実とはあまり関係がない。

 

 大人たちが労働に出た後、バンドの長老であるオビを取り囲み、子供たちが口々にセラについて訊ねる。オビは高齢のため野外での労働を免除され、幼い子供たちの相手役を務めている。そばには赤ん坊を抱いた、まだ少女といってもいい年齢の若い母親も一人、佇んでいる。

「セラはもうすぐ遠いところへ行く」経験を積んだオビはあっさりとそう応える。「遠いってどのくらい?」子供たちがさらに問う。

「あの山が見えるかの」と、オビは子供たちの頭上、はるか彼方を杖で指し示した。「わしにはもう見えんがの」

 そう言って、オビはその視力の衰えの著しい目を細めた。子供たちはいっせいに振り向いた。視線の先には、天から吊り下げられたような山襞が稜線を描いて白く光っている。下の方はぼんやりと青く霞み、空の色とあまり見分けがつかない。

「山の向こうに行ってしまったセラはもう二度と帰ってはこないのじゃ」

 子供たちの中で特に幼い一人が、息をのんでオビを見上げた。やや年長の二人は、そのことはもう「知って」いた。知らない子供、タオにはそれは理解しがたいことだった。

 そんなタオの頭を撫でながら、オビが言う。

「セラがこれから行くところは、おなかもすかないし、暑くも寒くもない、楽しいところなのじゃ。だから、なにも心配することはないのじゃよ」老オビは自分に言い聞かせるように続ける。「それに、セラは一人ぼっちになるわけでもない。そこには、もういなくなった昔の仲間がみんないて、セラを迎えてくれるのじゃ。だから、セラはそこで寂しい思いをすることもないからの」

 子供たちは、黙ってオビの顔を見つめている。

 そして長老は、部族に伝えられている古い時代の話を語る。昔は、人々は「楽しいところ」など知らなかった。人は皆、誰にも数えきれないくらいたくさんの夏を経験し、冬をやり過ごした。いつまでも同じ場所で同じ生活の繰り返しだった。そんなある日、一人の男が旅立つ決心をした。誰も彼を思いとどまらせることができず、結局、人々は宴会をして彼を送り出した。

 さらに長い年月が経った。そして、人々が彼のことを忘れかけた頃に、不思議なことが起き始めた。人々が、次々に遠くに旅立つことになった。人々は気づいた。ついに彼があの山の向こうにたどり着き、仲間を順番に呼び寄せるようになったことを。

「それからじゃよ。人は皆、小さい赤ん坊の姿で産まれてきて、大きくなり、いろんなことを覚えて働いて、最後にそのご褒美に『楽しいところ』へいくことになった」

 オビは、ここで一度口を閉ざす。

 子供たちは、身じろぎもせずにオビをみつめている。オビが付け加える。「その男の名前は、定められたときにしか言えない」秋の冷たい風が通り抜け、洞窟周辺、ところどころに茂った草木がさやさやと音を立てる。

 

 明るく澄んだ日差しが、洞窟の入り口から斜めに深く届いている。そして、背を丸めてうずくまっているセラを明るく浮かび上がらせている。

 先刻から断続的に襲ってくる苦痛に耐えながら、セラもまた、老オビの古い語りにじっと耳を傾けていた。遠い昔、それを彼女に最初に話してくれたのは、何かにつけて彼女をかわいがってくれていた、ある老婆だった。その話を聞いたとき、セラは自分が泣いたことを思い出した。なぜ泣いたのか、理由は今では思い出せない。ただ一瞬、甘やかな気分に浸る。

 セラは、その老婆のことも思い出す。

 彼女は、それから間もなく病に伏した。セラはまだ幼かったが、その最期の姿を覚えている。それは長年月の間に曖昧になり、彼女の想像力によって形を変えてはいたものの、病に苦しみながらも、これからの旅路に思いを馳せ、それを心待ちにしている少女のような姿は、セラの心の中にたしかに残っていた。

 それは、今のセラの姿でもあった。そしてセラは、今まさにその後を追おうとしている自分に思い至った。一瞬、全身がゆらぐような錯覚を覚えた。目は、ずっと閉じられたままだったが、それでも、あらためて目がくらんだ。それを誰かに訴えようという試みを、しかしセラはすぐに放擲した。体の機能のすべてが、すでに外界へは向けられていなかった。ほどなく彼女は、彼女の内部の静かな奔流に身をゆだねた。

 

 夕日が遠く、西に傾きかけた時分になって、大人たちは、セラの旅立ちをお互い同士祝いながら、彼らの洞窟に戻ってきた。

「セラは」

 バンドの長が、彼を迎えに出た老オビに訊ねた。

「あそこに」と。オビは洞窟の入り口付近を振り向く。その場所も、セラの姿勢も朝と少しも変わりがなく、それが長には意外にも思えた。

「めでたいことじゃ」

 オビが感慨深げにつぶやく。

 長は、オビの言葉に重々しくうなずき、後ろにいる全員に目で合図をした。

 彼らはぞろぞろと、眠っているセラのそばに集う。ある者はセラに別れの言葉を告げ、ある者は彼女の各部位を意味もなく触り、撫で、そしてまた記念の品をセラに送る者もいた。セラは目を瞑り、薄い唇も固く閉じられていた。その片方の端はわずかに歪んでいた。体はまだ柔らかく、顔も体も、夕日でほんのりと赤く染められている。

 別れの挨拶が一通り済むと、若い男が二人、セラの体をそっと抱え、洞窟から運び出した。洞窟のすぐ手前は広場のようになっており、その中ほどはちょっとした舞台のように盛り上がっている。セラはそこにそっと横たえられた。

 二人の巫者が、ずかずかとセラの遺体に近寄った。その無遠慮なさまを、しかし誰も止めようとはしなかった。彼らはすでに、彼ら自身の身支度を終えており、そして、セラの顔といわず、手といわず、体の各部位に種々の染料を丹念になすりつけ始める。

 巫者たちが、なすべき仕事を心得ていることを見届けた大人たちは、冬支度のために蓄えつつある薪と食料の一部を外に運び出し、セラの旅立ちの祝いの準備を始めた。

 人々は黙々と立ち働き、やがて宴会の支度は整った。

 宴会の主賓はセラ―、いやむしろ巫者たちだった。それは、幼いタオにとっては意外なことだった。ふだん何をやっても人々からは無視されている二人が、ここでは皆の注目の的であり、彼らの奇矯な言動に大人たちは迎合し、彼らの機嫌をとってさえいた。彼らが、もっとも多くの食料を口にし、それを作法に頓着なく食い散らかしていても、皆がそれを当然のことと看做していた。いや、喜んでいるようにさえ見えた。

 ますます調子に乗って騒ぎたてる二人の巫者は、そのきつい原色のメーキャップに加え、夕日の残照、燃え盛る炎、そして忍び寄る闇によって飾り立てられ、異形の様相を醸し出す。長を始めとするバンドの人々は、次第にその姿に気圧されつつも、ともかくも宴の進行に努める。

 幼いタオは、息を吞み、母親の身にまとう毛皮にしがみついている。

「これでいいのじゃよ」と、傍に立つ老オビは、目を丸くしたままのタオにうなずきかける。「最初の旅人を送り出した時と同じ宴じゃよ」

 やがて炎は燃え尽き人々は洞窟に入る。すでに辺りは太古の闇に包まれている。空を埋め尽くす勢いで、小さな無数の星々が強い光を放っている。虫の音が、土砂降りのように絶え間ない。二人の巫者は暗がりの中、残った食料をかき集め、セラの遺体を抱えてひそかにその場を離れる。どこへ行くのか誰も知らない。巫者たちはこれから何日も洞窟に戻ってこない。