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犬を処分せよ【第二回】:小野寺 那仁

 大の学生時代の友人知人たちには未だに就職できずにフリーターやアルバイトを続けている者が多数いた。特に有名でもない私立大学から上場企業であるNCHに入社することのできたのは幸運に恵まれたのかもしれない。

 課長には刃向う気力も失せていた。建築課の業務室から飛び出すが早いか大は高田建設の島野に電話を掛けてみた。島野とは設計の時に数度は話したことはあるが、着工前に監督変更の旨の挨拶さえ大はしていなかった。何かと業務が忙しかったこともある。

 携帯に電話すると「グオーグオー」と意味不明の地鳴りが聴こえるばかりだった。切るとメールの着信音が響いた。由佳からだった。彼女とはさすがに勤務中に会話することは憚られてメールを返すに留めた。他愛もないメール。まさか今日中に犬をなんとかしなけりゃいけないんだろうか。ちょっと無理だぞ。

 そこに課長が追いかけてきた。

「何してんだ。そんなところで携帯をいじってばかりいるんなら今から現場に行って犬を連れ去ったらどうなんだ?また今夜クレームが届くんだぞ!」

「はあ、今、島野くんに連絡を取っていますが、彼、出ないですね。イヴの夜だから遊びに行ったんですかね?」

「イヴかあ」課長はふっと寂しげな表情を見せた。課長にはイヴの夜のイベントなどは無関係なようだった。「昔は俺も楽しみだったが、今はどうでもいいよね。君もイヴどころじゃないよね」そう言ってやたら大の肩を揉みはじめた。「わかってないようだな」小声になる。耳元に口を寄せる。「犬を処分せよ。今日中だ。今日出来なければ、明日もできない。年末も正月もできないぞ。クレイマーどもが増殖するんだぞ。それとも何か、君はそんなに気になるなら私が直接に島野に命じればいいと思っているのか?それなら君は必要がないということになるんだぞ」

「わかりましたよ」大は課長に屈服した。

 その時になってようやく島野から電話が入った。

「ああ、すみません。今、降りてきました。話していたんですが風の音がひどくて聞こえなかったようですね。設計の安宅さんですよね」

「ああ、ごめんごめん、今月から監督になったんだよ。連絡し忘れていた」

 課長が立ち聞きしていた。「ばーか」と課長は小さな声で囁いてあきれ顔で立ち去った。

「寒いっすよ。死ぬほど…屋根に登ってたんです。コーキングしてました」

「そりゃご苦労さま。それどこの現場?」

「もう十五年前の物件で場所は岬町です」

「遠いなあ。ここから二時間はかかるね」

「どうもコーキング不足か海岸からの風が強いのか屋根の一部が破損して隙間から雨漏りがするようです。これお金出ないですよね」

「出ないんじゃないかなあ」

「クレーム処理班から回ってきたんですが、お金出ないような感じなので自分で直してます。屋根の業者は最低三万はかかると云ってきたんですよ。施工した業者はもういないし、十五年前の営業も設計も監督ももういない。でもローンは残ってる。だから無償で直せって客は主張してるようです。そうすると高田建設がもつのですかね。」

「まあ、そうだろうね。あ、それはそうと社長はいまどうしてるの?」

「ラスベガスですねえ。知りませんか?うちの社長がカジノの必勝法を見つけたので宗方専務とあと何人かで行ってますよ。勝つまで帰らないって言ってます」

「そうなんかあ、まったくいい気なものだなあ」

「今年の会社の赤字を一気に埋めるそうです。どこまで本気かわからないですが」

「次期社長への接待というわけか」

「あれ、そうなんですか?」

「まあそんなことはどうでもいいさ、社長がいないなら島野くんに云うけど村中さんってどんな人?」

「あっ、うちの大工ですよね。いやあ、あの人はまったく手に負えませんね。僕なんか。あの人は心が壊れているんです」

「それはまた随分と洒落た言い方だなあ」

「で、村中さんがどうかしたんですか?」

「いつも現場に犬を連れてくるそうじゃないか!」

「あ、その件ですか」突然に電話が途切れた。「島野くん!島野くん!」大は、冷え切ったロビーから一階の喫煙所へと移る。小雪が舞い次第に暮れていくビル街の谷間を歩いた。

 しばらくして着信音が鳴り響いた。

「あ、申し訳ないです。ちょっと手がかじかんで携帯を落としてしまいました。拾いに行ってたんですよ。今、コーキングの最中です。暗くなるとどこを補修したのかわからなくなってしまうんで早めに直したいんですよ」

「え、じゃあ、犬の処分はできないんか?村中さんの犬を現場からひきあげてほしいんだけどな」

「それは難しいですよ。クレームの件ですよね。ええ、今までにもありましたね。外壁に小便かけたりしてたから。まったく間抜けな犬なんですよ。あいつ。村中さんの電動工具が盗まれたときにもいたんですよ。泥棒には吼えないが施主には吼える。全くの役立たずです。で、僕らも考えて村中さんは山中の一軒家をお願いすることにしてたんですが、不景気になって物件が減って建売しかなくなったんで仕方ないから入ってもらったんです」

「なるほどね。課長がカンカンに怒ってるんだけど。犬を処分しなければ高田に仕事は出さなくてもいいってさ。君はそれでもかまわないの?」

「いや、ですからね。村中さんは僕の云うことなんて聞く人じゃないですって。実は僕は大工見習で村中さんの下にはいったんですけど三日でクビですよ。来なくていいって。理由はですね、やっぱり犬なんですね。なんで犬がいるんですか?と、現場にいたらおかしいでしょ。今は自分のペットは可愛いと感じても人のペットは煩わしいと思うのが普通なんですよと云ったら怒ってるんですよ。だから僕も一応、試みたことはあるんです。社長から何とかしてくれと云われたのです。なんともなりません。むしろ大さんの方から云ってもらえればさすがに堪えると思うんですけどね。監督さん、お願いします。あ、それからヘルメットはしないし、脚立の天板に登るしゴミは散らかしほうだいで工具の片づけはしないし作業服も着ないからその点も注意していただけるとありがたいんですけどね。なにせ僕らの云うことは一切聞きませんので。もう七十歳を過ぎているから当然なのかもしれませんがね。」「うーん。それ俺の云うことなら聞くのかな」「あ、携帯の電池がきれそうなんで……失礼します!」

「え、え、ちょっと待ってくれよ!」電話はすでに切れていた。掛けなおしても本当に繋がらなかった。溜息をつきながら時刻を眺める。行って、話をして、帰ってくるだけならなんとか間に合うか。そうだ。とりあえず犬を連れて来ればいいんだな。現場にいなきゃいいんだ。由佳との約束の時間に遅れるのを気にしていたが多少遅れてもかまやしないだろう。同じ会社なんだし、メールさえしておけば。それに村中大工がどんな人なのか、会ってみたくもなったのだ。心が壊れているってどんなのだろう。