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工場の風景 エチュード:小野寺 那仁

 まだ八時というのに庭先からの照り返しが熱かった。数日来の雪は音を立てて溶け始めて流れていた。たわんでいた松の小枝が雪を落とすとぶるんと元に戻って緑の全容を現した。そういう動作が煩わしく思える。

 食事をしている間も男は動かず横になったままだ。寝ているのだろうか。男は正確にテレビの方向を見つめている。

「今日から会社だね」母親が安堵したように言う。

「ああ」「きちんと上の人の云うこと聞かなあかんよ」母親の皺だらけの手が口以上に勤勉であることの正当さを訴求していた。だが横になった男はそれでも何も云わなかった。

 そのうちにテレビでは高校野球が始まっていた。いきなりのチャンス、長崎県と青森県の高校だった。どちらに肩入れしているわけでもないが、つい今までの野球を観るという習慣から眺めてしまう。野球の話になると男も少しは口を利いたものだが、もうこれからは話すこともないだろう。やがてチャンスは拡大したヒットがつながりバントして四球。ワンアウト満塁になる。

「スクイズやろか」誰にともなく男はつぶやいた。

「打つさ、打つに決まってる。満塁だからフォースプレイになっちまう」

 テレビの中の選手はカチカチに緊張していた。打てないな。

 いいスイングだった。と思ったが最悪のセカンド、インフィールドフライ。長崎県の選手がきちんと両手で構えてミットに収めた。

「あんたは今日も仕事は休みかな」母親は呆れたように男に問いかける。

「こんな雪じゃどうしようもない」

「雪があろうがなかろうが仕事はないんだろうけどね」

 いつのまにかスーツに着替えた。初出勤の日は入社式だからスーツで来るようにと言われていたからだ。鞄に作業服を詰め込んだ。真新しく手が切れそうになるくらいの固い折り目だった。白米と味噌汁とメザシを詰め込んで牛乳を飲み干したあとに「じゃあ行ってくるよ」と告げた。

「お前としては本意じゃないだろうが野球じゃ食えるほど巧くはないし大学に行ってもここらあたりじゃ就職はないだろうし俺としては無難な選択じゃないかと思ってるんだがな。

 世界のZETTONいや超優良企業だ。高卒でもボーナスもあるし県内では最高の待遇だそうじゃないか。なかなか入れないそうだし。工場も最新で綺麗なんだろう」男はふだん無愛想でほとんど何も話さないくせにとってつけたように雄弁だった。面食らった。

「まあそんなことはどういうことだか俺にはわからないよ。野球ばっかりやってたからね。でも機械を使って部品を作る作業だから大丈夫だと思うよ」

 けして新しくはない鞄を掴みあげるとき長年の男とのわだかまりが氷解する気分だった。 

 

 母親に数度の給料を渡した。ボーナスも出た。それもほとんど渡した。

「かなり太ったなあ」

「そういえば」腹回りを見ている。すっかりスポーツから遠のいている。

「土曜日も日曜日も出勤なんて大変な会社だねえ」

「会社のことは他人に漏らしたらいけないんだよ。たとえ親子の間柄であってもね」

「なんか日吉の隅の治夫くんも中窪の葉子ちゃんも辞めちゃったんだってねえ」母親は顔を曇らせた。

「工場が大きいから会わなかったな。入社式の時以外には」

「友達じゃないんか?」

「ううん、友達だけどそりゃみんなやりたいことあるよ。人には言わない。東京か大阪に行くんだろうどうせ。何をやるのかは人それぞれでバンドとか大学とかあるみたいだけどさ。まあ辞める理由は遊ぶ時間がないのと給料が安いっていうのもあるかもしれないな」

「給料は手取りで十五万だから安いとは思わないけど、でも休日出勤がものすごいし、お前夜も遅いし、夜間勤務もあるしで、そりゃ大変だと思うな」

 傍らで聞いていた男が、雪が解け始めた朝以来ようやく口を開いた。

「まあ、そんなもんだぞ。仕事というやつは。一日でも休んだら元に戻っちまうからな。俺も見習いの頃なんて給料なんてなかったぞ、小遣いだ。そうやって独立していっぱし稼げるようになるんだから。修行だとおもって我慢するんだぞ」初老の男は虚ろな目をしてそういった。

「何言ってるの、お父ちゃん。ZETTONから独立したなんて聞いたことない」

「でも、あの、ほら下柳の町工場はZETTONの下請じゃねえか」

「それは、すっごく昔の話でしょう。それにあんな町工場は今に見捨てられるに決まってるじゃないの。なんでもかんでも手作業でしょ」

「どうしてもロボットじゃできない部品なんかを作ってるんだよ。技術職だ」職人である男らしい見解だ。それにしても最近よくしゃべる。

「そういえば派遣の方が休みが多いし仕事も楽だし、下手したら給料も高いって言ってたな。何人か辞めた奴らが……」

「とにかく辞めないで頑張ることだね」

「別にそんなつもりはぜんぜんないよ。ただ眠たいだけ。本当に眠たいんだよ」

「じゃあ、今夜はもう寝なさいよ」母親はテーブルの上を片づけ始めた。

「そうだ。思い出した。治夫は社員食堂の賄いをやってたし、葉子は介護施設の准看だったなあ。そういう仕事ならうちらの町じゃなくてもあるような仕事だろ。遣り甲斐がないんだよね。たぶん。俺らは普通高校だから。工専や工業高校からの連中や大学卒や外国人の方がロボット開発や部品の開発や製造をしているよ。まあ俺は一応コンピュータやらせてもらっているけど、重要な割には中身がない仕事なんだ。眠くて仕方ないんだよ」

 母親は聞いてはいるものの内容はちっともわかっていないようだった。村人たちはみな、誰が辞めたのか辞めないのか、幾ら貰っているのか、そこだけにしか関心がない。母親の知り合いの老人たちもシルバー人材センターから多数、出向いていた。社員食堂の調理か広大な敷地の庭木の剪定、清掃、前職が警官や武道の心得があると警備員になっていた。だが肝心の部分になると詳しく知っている者はいないのだろう。

「そうかいそうかい。月々の給料を家にいれてくれるだけでありがたいんだけど、そのうちにはね、会社の借金が済んだらお前の自由にしてくれたらいいから、それまで我慢しておくれよ。お父さんの仕事がもう少し順調なら言うことないんだけどね」

 男は沈黙していた。以前は深夜まで動いていた板金の機械が止まったままになっていた。

 その日を境にして母親とは会社については語らなくなった。

 

 パラメータは三種類ある。別々の人間が毎朝、運んでくるのだ。彼らはメッセンジャーと呼ばれていた。いや同じ人間が運んでくるとは限らない。毎日誰かが始業前に運んでくる。パラメータをコンピュータ画面に入れてやらないと先端が槍のような機械は動かないのだ。三人はそれぞれに安全を確認してからこっちに紙片を持ってくる。ひとりがa1d4rty次にくっつけるのはb9n0そして最後のひとりがkj0024と。つまりは暗号のようなものだ。けして覚えられる代物ではないし覚えたところで翌日には変えられてしまう。そうしておけばセキュリテイーは確保されるのだ。暗号をつくるのはコンピュータで暗号ソフトである。それが本社のどこにあるのかさえ教えられてない。

 パラメータというよりパスワードだろうと思うのだが、上司がパラメータと云うのでそう呼ぶことにしている。何でも以前は槍は随分と危険な奴であり、誰もボタンを押していないのに勝手に動き始めて一度に数人が串刺しになるという悲惨な事故を招いたそうである。簡単に言うとその全体はプレスだった。巨大な溝の中に入っていく人たちもいるが、そこではヘルメットなどは装着していてもいなくても同じくらいに意味はない。点検時には確実に機械を停止しなければならない。そして停止した機械を確認して点検に入り、誰もいなくなってからスイッチをいれる。それがパラメータの意味である。セキュリテイーが必要なのは、もし何者かが侵入して機械を動かして事故を起こさないとも限らないし、誰でも再起動できるならば誰が動かし始めるかわかりはしない。それで再起動の役目は絞られているのだった。

 それをやるのはかまわないのだが問題は始業前にスイッチをいれるとめったに二度目のスイッチを入れることはないということだ。もちろんこんな仕事だけなら誰がやっても構わないように思われるが、そうではなくてみなそれなりに忙しい、何かのついでにできることではないしついでにやってはいけないのだ。始業時の起動に立ち会ってそれからは万一に備えて待機しているだけだ。万一というのは、停電や地震などの緊急時に全自動で停止してしまうので再起動させる必要があるからだ。停電はサブの自家発電によってプレス全体を稼働させることは可能なので実際のところ送電されなくなっても停止になるかどうかはわからない。しかしながら作業員の不手際によるトラブルは考えられなくはない。やはり以前には、このシステム導入後もしばしば労災事故は起きた。そこで人間ではなく作業ロボットが活躍することになった。ロボット、いや、これもまた単に機械に過ぎないのだが。ネジを回すのはアームしかないロボットであり、製品を持ち上げるのは、腰に相当する機械である。人間のパーツパーツの必要な部分のみの機械がそれぞれに開発された。いわゆるファクトリーオートメーションである。コンピュータもまた頭脳の代わりだと云っていいだろう。だからトラブルとは今度は機械の故障によるものだろう。経年による部品の磨滅などでアームが折れたりするかもしれない。その時は自動停止に追い込まれる。すると再稼働するためには折れたアームを新しいものと取り換えるために作業員が中に入るのであるから作業員が作業を終了して全員の存在を確認してからパラメータが発行される。作業員の管理相当の部署は三箇所あって、すなわち三箇所の待機場所があるからそのすべてで確認が済んでからの発行になる。それからこちらにパラメータが送られてめでたく運転再開する運びなのである。それで、よほどの緊急事態でない限りは再稼働というのは有り得ないだろう予測される。男が云ってたように工場は新装されて数年しか経っていないので経年による機械の損耗は不良品でない限りはないだろうしヒューマンエラー等もあまり考えられない。稼働してしまえばほとんどは全自動で鋼板を槍が貫いて穿孔し高熱処理して溢れ出た溶鋼を鋳型でプレスする。主要な製品は鋼板加工なのだが、この外資に買収された工場では一工程で様々な製品を同時につくり出すことで大幅なコスト削減がなされているのだった。

 モニタ画面は42インチのテレビ画面のようだった。まるで戦闘機の内部のように大きなものから小さなものからさまざまダイヤル、スイッチ、ボタンなどが所狭しと並んでいるのだがほとんどは空気圧や湿度の調整のためのものだった。高分子ポリエステルも同時に作成されるので空気洗浄には余念なく塵や粉じんはダストから吸引されている。その調整器もある。そういったものは別室から遠隔操作されている。誰が操作しているのかも定かではない。密室にはひとりでいる。ここまで説明すれば男のイメージと実際の工場とはいかに懸隔があるかは大方推察できるだろう。ちなみに男は父親ではない。戸籍上は父親かもしれないけれども。意識が朦朧としてくる。相変わらずモニタ画面を眺めている。戦闘機の内部は工場の四階部分に当たる尖塔のような建物内部にある。モニタに映し出されているのは地階二階三階の部分だ。一階はショールーム、社員食堂やコンピュータルームに充てられている。一階だけを眺めているとまるで病院か健康ランドのような雰囲気があってちょっとしたショッピングモールのようでもある。いくつかコンビニもあり銀行もあり家具や日用品や書籍、漫画など売られていて居酒屋もあるくらいなのだ。しばしば未来企業としてテレビで紹介もされているからご存知の方も多いと思うが。隣接した敷地には病院や介護施設もある。ところでその部分のモニタ画面は存在しない。当然と云えば当然なのだが、人間を見ていれば飽きないだろうにとはよく思うことである。機械の動きは単調だ。製品はとめどなくいつまでも出てくる。故障することなんてありそうもない。毎日、操業後にはメンテナンスされているからだ。三月の末から数回はこの山深い工場も揺れた。 もちろん三月十一日も相当に揺れたのだがまだ入社前だった。揺れたのは実のところは尖塔部分や一階の部分だけだったらしい。工場内の機械に装着された免震システムは大地の揺さぶりをラインシステムには伝えなかったようだ。そう、地震では再稼働には至らないようなのだ。さすがに工場内では感嘆の声があちこちで上がっていた。その後にやってきた余震の時にこの部屋では置いていたコーヒーカップが床に落ちて飛沫がモニタ画面や緊急ボタンにかかった。そう、あの時は、危うく緊急ボタンを押しそうになった。今ならば押していたかもしれないが試用期間だったので一切何も触れるつもりはなかった。今でも実のところはすべての機械には触れてはいけないのだった。それらは自動で動かされている。緊急停止装置だって自動なのだ。ただ押してもいいのは自動では動かないサブさえも停電に陥ったとき、そのときは手動でやるしかない。そのために俺がいるのだ。

 

 眼が悪くなってきたのだろうか。モニタ画面を眺めていると半透明のビニールのような被膜が見えるようになった。ラインにビニールが覆い被さっているのかと思い慌てることがしばしばあった。それでも緊急ボタンを押すわけにはいかずにじっと我慢した。押したい誘惑は他にすることがないということもあって日増しに高まってくる。押したところで監視カメラが直ちに反応して取り押さえられるに過ぎないのだけども。叱責されて減給されるのだろう。その場面を想像した。母親は息子の罪の大きさに涙を流すに違いない。男は冷笑を浴びせかけるだけだろう。洪水のように押し寄せる眠気。何かを考えなければならないと無理に考えを巡らせる。主任は直属の上司なのだが、あるとき悪魔の囁きを告げてきた。

「眠ってもいいんだ……」

 一瞬、耳を疑った。彼は繰り返した。「ああ、信じられないだろうが眠ってもいいんだよ。睡眠時間を考慮して君には給料を支払っている。だから残業手当も時間外出勤もついていないだろう」

 逡巡したが主任に尋ねてみた。

「将来的にはもう少しやりがいのある、たとえばコンピュータルームでエンジニアなどをしたいのですが」

「ううん。当社はエンジニアは外国人か国立大学の工学部関係ばかりなんでね。難しいと思うね。かといって十九歳の君が遥か年長者の三十代四十代の派遣労働者たちを管理できると思う?」

 返す言葉も浮かばない。

「いろいろ話し合ったんだよ。単調な仕事かもしれないがこの仕事は前にも言ったけれども重要だ。極秘にしたい部分だ。君の位置からは全体を見渡せる。君は幸いこの町の出身者だ。身元がはっきりしている。中国人、インド人、タイ人、さまざまな派遣労働者、彼らは優秀かもしれないが君ほど身元がはっきりしている人間はいないからね。そして彼らがどんな組織とつながっているのかしれやしない。君がエンジニアでないということも我々には好都合だ。君はシステムを理解できないだろうから。まあ、この仕事以外にも君にやっていただきたい仕事はいくらでもあるから暫くは我慢していただきたい。かなりポストが詰まっているからね。空かないんだよ。それからいつも云っているが、くれぐれも遅刻だけはしないようにしてくれ。遅刻したら稼働しないんだから大変なことになる。それからシルバー人材から来ている老人たちに失礼のないように。彼らは工場の大家であったり株主であったりする」

 頭はぼんやりと霞んだままだ。もっともらしい言い訳に聞こえる。主任の薄汚れた油染みた作業着が彼がコンピュータの世界などは何も知らないと教えてくれる。

 一階のカフェで話し合うエンジニアたちは作業員たちとは一線を画していて交わろうとしない。外国人も見かける。彼らは流暢な日本語を操る。ひょっとしたら日本人よりも知識が深くボキャブラリーも豊富なのかもしれない。水が低いように流れるように自然にエンジニアに憧れていくのを感じた。エンジニアたちはベテランの作業員には慇懃無礼なほどにへりくだるが派遣社員に対しては横柄な態度をとる。そしてたとえ同国人であってもエンジニアと作業員が会話することはめったにない。稀にしているのを見かけるが喧嘩腰である。お互いに日本語でズルい奴だから気をつけろなどと注意している。主任もまたエンジニアたちからつまはじきにされている。ラインの派遣労働者たちからも。それは俺もだ。

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