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犬を処分せよ【前編】:小野寺 那仁

 大(マサル)はニューヨークではないが、摩天楼に棲んでいた。

 四十六階オフィス棟の喫煙所から街を見下ろすと木々には電球が飾られ、今日のイベントの準備が着々と進んでいた。スコープから覗くとビルの谷間には、チョコレート色のワーゲンが見える。あまりにもピカピカに磨かれていて、光が反射して眩しいくらいだ。風にのってジングルベルの歌声が聞こえてくる。

 期末の会議で疲れた頭を冷え切った夜風にさらす。携帯のメールをチェックする。これが唯一といっていい自分の希望なんだろうなと由佳の顔文字だらけのメールをチェックする。そこにはクリスマスイブの約束の時間と場所が記されてある。場所は日産ギャラリー前で七時から。まだ二時間くらいの間があった。「楽しみにしています」

 由佳は自分にはもったいないくらいの愛くるしい女だ。今年、入社したばかりの新入社員で宴会の時にキューティハニーの物真似をランジェリーに近い姿で披露して上司に顰蹙をかった女だ。もちろんほとんどの男性社員は歓迎していたが。そのことが本社のコンプライス強化を招いたという社員もいた。

 由佳との過去のメールのやりとりはおびただしく大はニヤつきながら過去のメールを読んでいた。そのとき、ふと埋もれていて気が付かなかったパソコン経由のメールを見つけた。差出人は建築の課長。建築に異動したのは間がなくて、瞬間、誰からなんだろうと思った。それは一週間以前の日付だった。開封してみるとひと言だけ書いてある。

  件名 「犬」

  本文「犬を処分せよ」

 五十過ぎた男がやっと打ち込んだメールがその一言。ああ、あのことか。記憶には残っていた。処分せよと言われたって俺の犬じゃねえって。笑うしかなかった。笑いながら汚いゴミでも片づけるように削除した。多くの迷惑メールと同じ扱いだ。

「大!」大きな声がした。振り返ると同期の華岡が見下ろすように立っていた。ただでさえ背が高いのにますます高くなったようにみえる。

「石川課長が呼んでるけど」彼の鼻は高くてイタリア人のようだ。スーツ姿がよく似合う。

「ああ、そうかい。マンション事業部に配属されて相変わらず絶好調らしいな」大は自分でも口惜しさが滲み出ているようでたまらない気分だったが調子に乗った人間には褒め言葉にしか聞こえない。

「一戸建てよりも楽かもしれないな」途中から破顔しはじめる。

「大は営業から設計に移って今度は建築課だそうじゃないか。びっくりしたよ。もともと大学は理工系で建築科だったんだなあ。それは知らなかった。若いから営業させられていたんかな」同期であっても見下している。

「まあ、そうなんだろうが、期待はずれってとこか」大にとっては泳げないのに海に突き落とされたかのような二年間だった。何度、会社をやめようと思ったのかしれない。全くのゼロではなかったが、(全くのゼロだったら即座に辞めていただろう)忘れたころにしか契約の取れないダメ営業マンだった。それに比較するとイタリアまがいの華岡は顧客の主婦連中に大人気の花形だった。いきなり一年目で新人賞を獲得して二年目も三年目も突っ走った。そして都心の高級マンションばかりを販売する事業部に移っていったのだ。

「けど最近はあかんな。売れなくなってきた。不景気だ。そっちも売れてないだろ」

「ああ、先月なんて新規着工がなかったからね」

「はあ?」

「それで設計課は人員削減で俺を切ったわけ。一か月、何もしてなかったよ。おかげで二級建築士の資格試験に合格できたよ。それが良かったのか悪かったのか今度は建築課に移された」

「しかし、設計が仕事がなけりゃ建築もないだろう」

「建売があるからなんとか生きてる」

「そしてその建売が売れ残って会社の経営を圧迫する」

「そ、そうなんか?建売を売ってくれ」

「それはマンションも事情は変わらないぞ」笑っていた顔が強張った。

「まあ、頑張ってくれや。今、彼女待たしてるからもう行くよ。ほら小さく見えるワーゲン。あれ俺の車なんだ。白いドレス見えるか?あれ彼女」それは次期社長を噂されている宗方四郎氏の愛娘らしい。大は知っていたが黙っていた。

「ああ、あの車か。よく輝いているなあ」

「新車だからな。あっ、そういえば大も社内恋愛してるんだってなあ。マンション事業部まで噂が飛び交ってるぞ。新人で一番可愛い娘らしいじゃないか。あの子の親父さんはクレーム処理班にいるんだってなあ。それじゃ、またゆっくり会おう」

 華岡は爽やかなコロンの香りを残して去っていった。

 

 建築課に戻ると石川課長は大変な不機嫌で手が付けられない。

「いったい君は何を考えてるんだ。メールには返信しない。私が呼んでいるのにすぐには来ない。先週の金曜日に云ったはずだよね。犬を処分せよと。いや、彼に犬を現場に持ち込ませないようにすればいいんだよ。それで。会議の内容はもう忘れた?」

 大は課長の机の前で直立不動だった。課長は投げるように書類の束を大に渡した。

「声に出して読んでみろ」

……私は工事中の住宅街に住んでいる者です。御社の工事現場で飼育している犬が昼間に吼えるので眠れません。夜勤明けはゆっくり眠りたいのです。

……夜中(十二時過ぎ)建築現場から犬の悲しげな声が聞こえてきます。子供は一歳です。

……夜中に御社の雑種犬が走り回っています。中学生の塾帰りの娘が怖がっていました。

……深夜、現場で飼っている犬が近隣の犬とコーラスしています。うるさくて眠れません。

……御社の犬が路上のあちこちにウンチをするので皆困っています。私が片づけましたが今後は現場監督さんにお願いしたいのですが。

 読んでいる大はつらくなってきた。課長は、耐えきれなくなって「もういい」と途中で遮った。「これはお客様アンケートだ。君、営業してたくせに知らないのか?」(あまり契約数がないのでアンケートはごくわずかしかいただいていません)

「いえ、アンケートの重要性は十分に認識しております」

「どうも今に始まったことじゃないみたいだな。ところで村中さんにはどうして誰も何も言わないんだろうね。君をはじめとして」村中さんとは工事現場に犬を連れてくるもう七十過ぎの大工さんだった。まだ二十代の大の、現場監督になって日が浅い彼の指図なんて、いかに理にかなったことであろうとも聞く耳を持たないことは目に見えていた。石川課長は隣県から転勤になったばかりで事情を知らないのだ。

「課長、私もメールを見落としたりすぐに対処しなかったことは申し訳ないんですが、こういうのは本来、村中さんを雇い入れている高田建設の責任じゃあないんでしょうか?施工管理の島野くん(高田建設)に連絡したほうが……」

「馬鹿者、それがお前の仕事じゃないか。まったく」

「はあ、すみません」そんなこと言ったって先月まで設計だったんだから。

「すぐに島野だかなんだかに連絡入れろ!高田の社長でもいい。犬を処分できないならば今後高田には発注しないからそう思えって言ってやれ。お客様アンケート、ファックスでもメールでも何回も送ってるのにすべて無視だそうだな。本社にまで苦情が来てるんだぞ。今日、俺が本社に叱られた。なんで今まで見過ごしてきたんだ」

「いえ、ですから私も課長と同時期の異動でこちらに配属になったので事情がよくわからないんです。高田の仕事も今回が初めてなんですよ」

 その一言は火に油を注ぐ結果になった。石川課長は激怒した。彼は、地方支店に所属していた。都会の支店に配属というと誰でも栄転に思うが、実際はそうではない。少し冷静になって考えてみればわかるが、隣県の片田舎では坪単価十万以下の土地があり分譲すればそこそこは売れる。ここは都会の支店であるから坪単価百万以上ばかりだ。いやそれよりも何よりもすでに土地なんてないのだ。分譲地にする山林もない。いきおい新規着工件数なんて建て替え以外には、ほぼゼロなのである。ところが本社というのは事情を知っていても知らないふりをする。石川課長の仕事は前年に比較するとおそらく七割八割減になるだろう。それでも新規着工は少なくなったのだから石川課長は責任を取らされるシステムなのだ。課長は不安で不安で仕方ない。期末の会議ごとに執行役員たちから罵倒されてのたうちまわるのだ。それでせめて失点を防ごうとアンケートに眼をつけた。アンケート、それこそが生死の分かれ目になるのだ。年齢からいってどのみち子会社に行くことになるのだが、そこでのポジションが決定されるのは、この最後の数年の頑張りいかんということだ。

「そういう言い方は非常に問題があるな。私をバカにしてるとしか思えない」

 真っ赤になっている。

「君はなんだ。同時期の異動なんだから私には権限がないような言い方じゃないか。でも君を査定するのは私の仕事なんだ。君はもう営業じゃないんだ!成績が良ければ上司をバカにしても許される組織じゃないんだよ。建築課は。今回の犬処分について君が実績を上げられないようなら君を本社の査問委員会にかけるからな。覚えとけよ。君は最悪ならばクレーム処理班に行ってもらうから。あそこは、もっとも人手不足だからな」

(今でもクレーム処理のような仕事なんだが……二十代で行くのは前例がない)

 大の内心の動揺は読み取られた。

「すでに打診されてるんだよ、クレーム処理班に一度送られたら二度と帰ってはこられない。いずれは完全子会社化されるだろうが、クレーム処理じゃあ売上を上げるなんて考えられないから一生飼い殺しのようなものだ。まさに今回の犬のような境遇だな。ははは」

(そういや由佳の親父さんはクレーム処理班だったな)(つづく)