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目覚め:緑川

 午前一時、君はいつものようにスーパーのレジに立っている。客はまばらにしかいない時間帯。君はぼんやりと、スーパーの二十四時間営業なんて無駄じゃないかと考えている。コンビニではあるまいし。
 だけどそのおかげで、自分はなんとか食べていけているとも思う。自分一人を食わせるくらい、なんてことはない。午後十時から午前九時までの変則シフト。午前九時には家族を送り出した主婦達が店に入る。君は明日の、いやすでに今日の夜勤明け、何を買って帰ろうかと思いをめぐらせる。ツナの缶詰、朝食用の調理パンとスナック菓子、缶ビール……、まあ、そんなものだ。そうそう、煙草の買い置きが切れていた。カートン買いをしておこうと思う。それから……、一人の部屋に引きこもってからは、少しネットとゲームをやって眠りにつく。ゲームのソフトは、久しぶりに何か昔のRPGでも。
 と、ここまで考えたところで、君の目は一人の老婦人、いや八十は過ぎていると思われる老婆に吸い寄せられる。そう。なんとなく「いらっしゃいませ」と声をかけて、一呼吸置いて、君は強い違和感に襲われる。べつに誰が買い物に来てもいい。しかし深夜のスーパーに、落ち着いた雰囲気の老婆。めりはりのはっきりしない柔和な表情で、グレー系のスカートにカーディガンを品よくまとい、少し前かがみによちよちと歩いている。
 君は仔細に彼女を観察する。ふだんなら、どこか気になる客といえば、まずは万引を疑ってかからねばならない。三年も売り場に立っていれば、買い物目的でない客はなんとなく分かる。そして実際に、彼女は買い物かごを提げていない。何を注視するでもない。何かを探している様子もない。
 君は内心で首をかしげる。認知症老人の徘徊? 君は、さらに彼女の視線の先を追う。そこにはこのスーパーの深夜の常連客、だぶだぶのトレーナーにつり上がった細い眉、不健康な顔色の青年が、こちらは熱心にレトルト食品の陳列棚を物色している。
 ああ、そうか、連れだったんだと思いかけて、いやまさか、それこそ似つかわしくないと君は思う。
 青年が顔を上げる。目が合いそうになって、君はあわてて視線をそらす。そして、相手は意外に年がいってるんじゃないかと、あらためて思う。もしかして同年輩、三十代半ばくらいかもしれない。家庭も持たずに、若い頃と生活パターンが変わらなければ、年齢に不釣り合いな雰囲気をいつまでも保つものかもしれない。タイプは違っても、相手は自分と同類なのかもしれないと、君は思う。
 そうそう。老婆だった。
 たしかに彼女は、ヤンキー兄ちゃん風おじさんの後ろをついて回っている。そして彼は、彼女を一顧だにしない。
 とりあえず君は、この風変わりな2人組から頭を切り替えて店内を見回してみる。
 五十代後半と思われる夫婦が肩を並べて、生活用品の棚を覗きこんでいる。この時間帯に、そんな光景も珍しい。いや、ご主人はやはりこのスーパーの常連で、いつも会社の帰りに寄ってくれているらしい。その、ワイシャツにネクタイをゆるめたご主人が、今、食器洗い用のスポンジを手に取ってかごに入れた。そう、このお客さんの買い物は、いつも世帯じみたものが多い。おそらく奥さんと思われる隣の女性は、君にとっては初めてだ。
 しかし、一見仲の好さそうに見えるこの初老の夫婦も、どこか不自然だ。こんな時間帯に夫婦で仲良くお買い物……、いや、ありえない話しではないが、どうやらこの二人、先程から全く会話を交わしていない。そもそも買い物をしているのはご主人一人といってもいいような様子で、奥さんの方は、ただひっそりとその後ろに佇んでいる。
 国道に面しているとはいえ、住宅街の一角に場を占めるこじんまりとしたこのスーパーには、もうひと組、やはり店内を物色している二人連れがいる。こちらは、前の二組よりずっと若い。母親はまだ二十歳代前半かもしれない。少なくとも、君の目にはほんの小娘に見える。そして彼女の娘、三、四歳くらいの女の子。この子は甘えるように、母親にまとわりついている。
 しかし君にとって不思議でならないのは、この若い母親は、幼い娘のことをまるで気にかけていない。視線さえ向けようとしない。今、彼女は足元の娘を蹴ったのではないか? いや、女の子の方が上手くよけたのか。この幼い子供が、何か妙に不自然な動きをしたようにも見える。
 君は両眼を閉じ、まぶたをこすってみる。
 軽く伸びをして深呼吸をしてみる。
 暗く光ったガラス越しの店外では、アルバイト仲間のおじさんがゴミ箱を片付けている。
 そして君は、今度こそ本当に目を剥く。彼の背後にひっそりと立っている若い男はいったい誰だ? 暗い目をして、なぜかふてくされたような表情をしている高校生くらいの彼は……、いや、もう分かった。おじさんの息子さんだ。やがて君は自然にそう確信する。そういえば、あの人は息子さんを早くに亡くしていると聞いたことがある。君は、すでに何の疑問も抱いていない。
 事務所では、もう一人の夜勤仲間のおじさんが休憩をとっている。やっぱり誰かが憑いているんだろうか。おそらくそうだろう。君は、ふと思いつくが、しかしそこに恐怖はない。戸惑いもない。君は冷静だ。そう、それでいい。
 老婦人は、あいかわらず柔和な笑みをたたえて、薹の立ったヤンキー兄ちゃんの後を追っている。老人らしいゆっくりとした動作だが、その移動は孫に合わせてスムーズだ。平常心を保ったまま、君はじっと彼女を見つめてみる。やはり全く怖くはない。当たり前の、深夜スーパー勤務の一こまでしかない。
 不意に、君の心にあるイメージが浮かぶ。それは、目の前の老女がもっと若い頃の様子のようだ。若い、とはいえ六十歳代と思われる彼女が、孫である赤ん坊の彼を胸に抱きかかえている。赤ん坊は愛くるしく笑っていて、今のきつい目をした彼とはあまりにそぐわない。しかし、たしかに彼だ。
 なぜか君の心はなごむ。
 こんな時間に来店する若い女性、たいていは匂いのきつい化粧をして、髪はほぼ間違いなく着色されている。世間でいう、飲食店勤務の女性だろうと君はいつも思っている。そして、何があったというわけでもないのに、君は彼女たちに良い感情をもっていない。だから君は、いい年をしていつまでもガキだと……。まあ、よい。しかし今 夜の彼女はどうだ? そうそう彼女の娘の声に耳を傾けてみるか? できるか?
 いや、無理はしなくてもいい。そのうち自ずと覚える。君は目覚めてまだ一時間にもならない。いや、むしろ無理はしない方がいいか。ふつうは、憑いている者たちは何もしない。ただ、生者に寄り添うだけだ。しかし、ときには危険なこともある。まあ、その辺りの付き合い方は自然と身についてくる。
 ところでどうだ、この母娘のわずか三、四年……、しかし君のこの単調な四年間と比べてどう思う? はるかに濃密なものだったんじゃないか? それくらいは、すでに今の君なら読み取れるだろう?
 今、初老の夫婦がレジの、ほら、君の前に立っている。かごの中身はというと、いつものように売れ残りの惣菜と、晩酌用のワン・カップとつまみ、それと今日は食器を洗うための洗剤とスポンジ、シェイバー。ご主人はいつものように無言で、目も合わさずに釣りを受け取る。このご主人はいつもそうだ。その代わり、奥さんが君に向かって軽くお辞儀をしたぞ。ふむ。君もお辞儀を返したか。気付いたのか? そうか、条件反射のようだな。あまり、直接かかわるようなことはしない方がいいのだが、自然にそうしたのなら、それでもいい。
 交替の時間のようだ。さっきまで表を掃除していたおじさんがこちらに向かってくる。
 もちろん息子さんも、その後ろについてきている。そうそう。見えているとしてもあまりかまうな。難しい年頃だからな。
 死者にそんなものがあるかって? まあ、自分で考えなさい。
 君はおじさんとレジを替わり、外の空気を吸いに表に出る。いつものように、缶コーヒーを片手に、煙草に火をつける。しかし今夜は、携帯の画面を覗きこむようなことはしない。ブックマークというのか? の巡回とやらも、まあ、そうだな。もうすでに、君にとってはどうでもいいことだ。
 ん? 何か言ったか? 最近、帰ってねえなぁ、って、そうだ。母さんだってまだ働いてはいるが、もう今年で還暦だぞ。
 そして君は、また物思いにふける。
 そう……だな。これから君の中には、たくさんの声にならない声、それからもっと多くの、形にならない思念が流れ込んでくることになる。見えて、そして感じてしまう者には仕方がない。君は、それらを拾い上げて言葉にすることになるのかもしれない。少なくとも、今さらゲームだの、ネットだのには興味は持てないよな。
 そして君は、あわてて煙草を揉み消すと缶コーヒーの残りを一息で飲み干し、トイレへと急ぐ。やっと気付いたか。もちろん、用を足すのが目的ではないよな。
 君は鏡の前に立つ。人より二年も遅れて大学を出て、十年勤めた就職先も捨てて、アルバイトでさらに三年食いつないだ。多少世間ずれした以外、何を得たわけでもなく、ただ髪が少し薄くなり顔の皺も増えた。頬やあごの肉もたるんできている。君は、鏡の中の顔をじっと見つめる。誰かに似ている。当たり前だ。
 いや、君の目的はそんなことじゃない。
 さらに君は、洗面台に両手をついて、鏡の中を食い入るように覗きこむ。しかし、君以外には誰も映っていない。違う違う、そうじゃない。
 無駄な努力と悟った君は、鏡を背に立ち去ろうとする。そして、諦めきれずに、試しに一度、振り向いてみる。
 そう。そして君は私を見つける。