twitter文芸部のつぶやき

フォロワー募集中!

オフィシャルアカウント

部員のつぶやきはこちら

現在の閲覧者数:

社会に対しての小説、小説家としての社会:崎本智(6)

 短編小説―。

 底抜けの穴に落ちるような不気味な感触もあれば、粋な脇役の登場、意外な一幕、奇想天外な場面設計、はたまた文章の煌めきなど良い短編小説には短さを感じさせない厚みがある。時に短編小説が長編小説のような厚みを備えることもあるだろう。

 群像12月号の特集は「短編小説」だった。その中で筆者の独断と偏向により、選んだ2作について紹介してみたいと思う。しばしお付き合いいただきたい。

 

◆池澤夏樹「大聖堂」

 「あの災害」の日を境にした物語。「三人の少年が島に渡ってピザを焼こうとしていた」があることをきっかけにその計画は、予定が立ち消えになってしまった。三人の少年のうちの一人、翔太の祖母は、予定していた日に災害により亡くなってしまった

作中における「あの災害」とは誰もが3月11日の震災と津波を想起するだろう。地下深くから揺り動かされることによって、建物は倒壊して街は破壊されていく。津波はそこに真横から圧倒的な力で、街をのみ込んでいく。被害を受けた東北だけでなく日本にとって世界にとって忘れ難い日となってしまった。

 震災を境にして、言論の社会は変化を見出そうとする。「震災前では通用していたが、いまこれはアクチュアルではない」といったような言説をあなたも見たことがあるはずだ。

 震災について考えることはむろん大事だが、あの日に向けて静かな鎮魂の気持ちを持つことも忘れてはならないだろう。小説にとって「あの災害」に何ができるのか。……と、かっこうつけたことを考える前に思っている気持ちをあの日に向けたいと思うのだ。

 この小説は全てを平らにしてしまった津波に対してだろうか。いや、それは下卑た読みかもしれないがとにかく「ピザ」や「ひらめ」などまっ平らなものを食べることが小説の中での目的とされている。「日が暮れてもまだ食べ、日が昇ってもまだ食べた」。なぜだろう。この場面を読んだ時には、何か報われるものがあった。言いすぎかもしれないが彼らなりの「祖母さん」に向けての葬儀をしているかのようだった。

 平らなものを食べる前に少年のうちの一人「カシャン」は無人島の窯で

「焚き口に立つと背景は空になる。これは大聖堂の形だとカシャンは気づいた」。

 ピザを焼くための火は、煙となって垂直に上がっていく。この場面にも私は大きく感情を揺さぶられる想いがした。これまで横の移動をしてきた登場人物たちの描写から離れて、火による縦の運動を見ることができた。そこには三人の少年が何かを動かしたようなものがあったのだ。

 空間構成によって、この小説は「あの災害」に対応し鎮魂の心を向けようとしていると思う。冒頭の詩の引用にも豊かな空間構成が見られる。

 

◆中村文則「二年前のこと」

 語り手にとっての「知り合い」を亡くした物語。

「僕は何かの懺悔のために、これを書いているのだろうか」という作中の言葉にも見られるように、どうも語り手が中村文則その人に見えて仕方がない。作家としての辛さがありありと伝わってきて、時に狂気にも似た行動をとってしまう場面に私は痛く共感してしまう。人は目の前の仕事をどうしても優先していかなければならない時がある。「知り合い」の女性の死があっても、それに向き合っている時間はないのだ。各々がそれぞれの人生を生きるしかなくそこには繋がりがなく、けれど何かの繋がりを求めようとする控えめな語り手の気持ちが見え隠れする。

「就職率が超氷河期と呼ばれた二〇〇〇年代に大学を卒業した僕のような人間は、何かに頼るという感覚が抜け落ちていた」

 語り手は「知り合い」の女に、編集者に、「英語を、習いたいなあと」「オーディオを買おうと思う」など思ってもいない話題を出してしまう。本当はもっと別のことが言いたいのに、「迷惑がかかるから誰にも言えない」。

 「大聖堂」が社会に対して少年のたちの自発的な力によって明るさを保っているのに比して、本小説は社会に翻弄される若手作家の苦悩を描いている。そこに何かの技巧を読みとることができないのは、あまりにも正直な言葉によってこの小説は造られており、それだけでもう読み手にとってはリアリティがあり過ぎるほどなのだ。

 このリアリティとは何だろうと振り返ってみて見ると、ここにはありがちな物語に見られるようなフィクションめいた名前のついた感情などが見当たらないのだ。名付けえぬ感情が語り手の考えや行動から、非常によく伝わる。生きている者なら判る。誰しもが、お決まりの感情だけで人生を通せることができるはずがないと。

 女の死のあとに、語り手はなぜ「彼女の死」を完全に忘れてまで小説を書こうとするのかを自分に問いかける。そこで志賀直哉の『暗夜行路』を読んだ時の気持ちを思い出す。

 結局、語り手にとって小説家という職業は特別なものではないが、今まで小説を書いてきた以上、「人をおかしくさせる誘い」に入ってしまっている自分を再確認する。

 そして彼女のことをまた思い出し、新たな決意をするような最後。一気に読んでしまった。