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異形の者:緑川

 もうすぐ夕方の五時になるので、扶(たすく)は弟の了(さとる)を呼んだ。毎日見ているアニメの始まる時間だった。返事はなかった。了は、扶のすぐそばにいるはずだった。

 扶はもう一度、今度は大きな声で弟の名前を呼んだ。やはり返事はない。

 おかしいな。扶は居間のテレビをつけっぱなしにしたまま隣のキッチンを覗き、トイレや浴室も念のため確認した。さらに二階に駆け上がったがすぐにまた下りてきた。どこにも弟の姿は見えない。テレビのCMばかりが騒がしく、家の中がやけに静かに感じられた。

 幼稚園に通い始めたばかりの了が、一人で家から出て行くなんて。扶の胸に不安がよぎった。お母さんは、たぶんまだしばらくは、買い物から帰ってこない。

 扶が庭先に降り立ったとき、アニメの明るいテーマソングが家の中から聞こえてきた。もし、やつらだったらどうしよう?

 扶は思った。不意の、根拠さえない思いつきだったが、不安はすぐに加速した。扶は家のカギをかけるのも忘れて、公園を目指して駆け出した。走れば走るほど不安は募った。ついさっきまで、了は自分のすぐそばで自分勝手な歌をくちずさんでいた。得意げに右手を振りまわして、唇を尖らせて。そんな姿が目にちらついていた。

 でも、もし本当に弟があいつらに何かされてたら、僕はどうすればいい?

 扶もまだ小学校の二年生だった。

 結局、扶の不安は半分だけあたった。葉桜の並木をくぐって駆け込んだ公園の、その敷地内の公民館の脇で、了がひとりでべそをかいていた。扶は大急ぎで弟のそばにかけより、そのふっくらとした頬を軽くつねって、ばか! と言った。了は涙に濡れた目で兄をぼんやりと見上げてから、今度はしゃくりあげ始めた。

 そのとき、扶の背後で大きな胴間声がした。

「弱いものいじめはいかんぞ。うん?」

 扶がぎょっとして振り向くと、ちょんまげに浴衣姿の大男が、かがみこむようにして二人の顔を覗きこんでいる。

 やつらのうちの一人だった。

 なに言ってんだ。いじめたのはお前の方じゃないのか。

 しかし、声を出そうとすると唇がふるえた。扶はつばを呑み込んだ。せめてもの勇気を振り絞って男の顔を見返したが、やはり怖かった。

 なにより、その体の大きさは尋常ではなかった。着ている物も髪型も、間近に見るのは初めてだったこともあり、扶の目には何か異様なものに映った。扶はあわてて弟の手を強く引いて、自分の体の陰に男から隠した。

 しかし男の顔は、岩のよう―だと扶は思った―にいかめしいが、その目は笑っているようにも見える。扶は身を固くしながらもその目に見入ってしまった。男は、今度は荒々しい鼻息で、しかしたしかにくすりと笑った。そして、大きく足を広げて膝を曲げ、「どすこい!」と、扶にとって初めて耳にする雄叫びを上げながら腰を落とした。

そして扶の目の前に、まるでグローブのような掌を差し出し、「ほれ、ほれ」と左右に小さく動かしている

 大男は扶の目を見つめながら、ににこにこと笑っている。意味を了解した扶は、その小さなこぶしを握り締めて、しかしおずおずとその掌を打つ。

「うぅむ、殴ってはいかん。ほれ、こうして、」と男は、扶の五本の指を柔らかく広げ、「さあ、もう一度、」と言う。扶は、今度は肩越しに大きく振りかぶって、男の掌を押すように自分の掌をぶつけてみる。と、男は「うおっ!」と、大げさな声を上げながら、ころんと丸く地面に転がる。そしてすぐに起き上がり、「よしよし、もう一度」と、扶をさらに彼なりのかわいがりに誘う。

 悪いやつではないかも知れない。扶は、二、三日前に突然この町にやってきて公園に陣取った彼らを、理由もなく警戒していた。友達も皆、そうだった。 

 両親に訊ねてみても、「すもうとり」と呼ばれる人たちらしいということ以外よく分からず、その彼らの巨体がいわゆる鳥とはまったくかけ離れているところもまた、子供たちの疑念を誘っていた。

 しかし、この人は違うかも。そう思いかけていた扶の耳に、「せきとり、何やってんですか」と、若い男の声が響く。こちらも、遠くからはっきりとわかるほど体が大きく、しかしせきとりと呼びかけられた男よりはやや細い、頭のちょんまげも小さい男だった。

 目の前の大男は、声のする方を振り向き、「おお、そうじゃった、すぐ行くから待っとれ」と呼びかけに応えると、今度は扶の頭を、その大きな掌で無造作に撫でながら「強くなれよ」と諭すように言う。扶は自然にうなずく。せきとりは、幼い了にも同じようにする。

 立ち去るせきとりの背中を見つめながら、鳥と呼ばれる人たちにも種類があるのかなと扶は思う。

 帰り道、了の片言から、公園で泣いていたことと、あいつらと直接の関係はないことが分かった。ようするに、一人で「探検」していて公園まで行ってしまった。公園には大きい人たちがたくさんいて、喧嘩をしていて怖かった。

 ただ、それだけのことらしかった。

 喧嘩かぁ、そうなのかな。母親の帰宅を待って、扶はさっそくこの一件を報告した。若い母親、雅子は多少とまどい気味に、「あんまり、あの人たちに近づいちゃいけません」と言う。

「ねえ、どうして?」と、扶は問う。了も、舌足らずな口調で「どうして?」と、兄に唱和する。

「どうしてって……、お母さんもよく知らないけど、あの人たち、あんな恰好で、なんだか乱暴みたいだし」

「うん。裸で喧嘩みたいなのしてた」

「でしょう。あの人たちは、普通の人とはちょっと違うの」

 だけど、と扶は思う。あの人たちは、悪いやつらじゃない。たしかにそう思う。

 

 

 弥生町の中央公民館には、数日前から奇異な風貌の男たちが滞在していた。総勢五十名あまりの集団で、まさに一種独特な小社会がそこに形成されていた。彼らの不意の滞在は、やはりその当初物議を醸した。弥生町は、田園地帯がその大半を占める人口五千人足らずの田舎町であり、その住民はおおむね穏やかではあるが、閉鎖的な一面もあった。

 いや、この時代の日本は、およそ半世紀前の開放の嵐の後、次第にドメスティックな傾向が強まり、その閉鎖性はとくに弥生町に限った話ではない。従って、各地で、無作為に巡業を繰り返す「相撲」もまた、伝統芸能であるとはいえ、すでに一般にはなじみの薄いものであるだけに、人々の忌避感は強かった。

「しかし、なぜあんな連中を受け入れねばならんのだ」

 町役場の三階、日当たりのよい執務室で、現職の町長である大道翔太は、この数日、周囲に何度もぶつけてきた問いかけを、ようやく今、首都から派遣され到着した小役人に投げつける。細い喉から発せられるしゃがれた声、しかしその口調はきつい。

 小役人―じつは文化庁のキャリア官僚である濱崎重成は、落ち着いた物腰を崩さずに、ただうなずく。相手の立場を忖度せず、あまりに一方的な物言い。これでは、まるで面罵ではないか。しかし、そうは思っても感情を表に出さないのが彼なりのプライドだった。

「相撲だなどと、誰も知らんわ、そんなもの」

 大道が、今度はやや鼻白んだ様子でぼそっとつぶやく。

 今年七十歳になる大道には、しかしかすかに記憶があった。彼の子供時代、テレビではほとんど中継さえされないマイナーな競技として、それは認知されていた。もっとも好事家は一定数いたようで、たまにニュースでそのダイジェストが流れることはあった。やがて、それも見かけなくなった。いつしか新聞からも雑誌からも、そして人々の会話からも、力士たちのたくましい姿は消え去った。

「今になって、そんなことを言われましても」

 ようやく濱崎は応える。少し顔が上気したような気がした。そもそも、まだ若い濱崎には、大道町長のあくの強さがうとましい。いやしかし、顔の表情にも口調にも、動揺は一切出ていない。浜崎は自分を確認する。

「誰が、いつ、こんなことを決定したのだ? 我々にはなんの相談もなく」

 何を今さらと内心いらだちつつ、濱崎はあえて冷静に応じる。

「それは、彼ら自身が決めることです。彼らには、彼らなりのルールがあるようでして、我々政府は彼らの決定を追認するだけです。そこに明記してあるでしょう。すでにご理解いただいていたかと……」

 きちんと読んではいないのですか? と言外に匂わせながら、濱崎は立ち上がり、通達の一部分を、そのすらりとした指で示した。大道は目もくれない。濱崎は、大道の態度にはかまわず淡々と続ける。

「彼らの巡業にあたっては、いかなる自治体もそれを拒否することはできない。法的にも保証されています」

「誰も知らんわ、そんな法律」

 そんなことは、とっくに読んで知っている! 分かっていても、言わないと気がすまないのだ、俺は。と、大道は思う。

「なんにしましても、日本の国技ですから」

「コクギ? ああ、ここに書いてあるな」

 初めて気づいたふりをして、大道は言う。

「国技です。さしずめ国の競技とでもいったところでしょうか。一説には、もともと相撲が行われていた建物が国技館だから、相撲すなわち国技と呼ばれるようになったとも言われていますが」

 あまり調子に乗るなよ、俺。と、濱崎は自分に言い聞かせる。

「それで、まあさしあたりの宿舎と興行場所として、中央公民館と、その公園を提供して頂いたと。他の市町村でもそうですね。あとは神社やお寺といったケースもありますが」

「しかし、ずいぶん一方的ではありますな」

「それ以外に、特に要求はありませんし、何か問題がありますか?」

 よし、これでいい。ペースを保ち続けろ、俺。と、濱崎は思う。

「いや、今のところは問題はないが、彼らは不満など言ってこないだろうか。国技というくらいだから、もっとよい場所をよこせとか」

「それは、今心配することではないでしょう。彼らから要求とか、苦情があれば、対応する必要もありますでしょうが」

 お前が対応するわけではあるまい。大道町長は内心で苦笑した。大道は、そろそろこの小役人との会話を打ち切りたくなってきていたが、まだ聞いておくべきことがあった。

 大道はおもむろに立ち上がり、つかつかと窓際に近づいた。濱崎も自然にそれに続く。初夏の陽気の中、役場周辺に数棟のコンクリートの建物が並ぶ一角以外には、まばらに建っている一軒家と田畑が広がっている。広々とした通りには車の数も少ない。

 数キロ先にひとつまみの葉桜の緑が見える。その下で、おそらくあの力士たちが稽古と称するトレーニングを行っている。シコやテッポウ、ブツカリゲイコ、それを先日瞥見した大道の目には、今も強い違和感が残る。どう見てもスポーツには向いていない肥満体の男たちの不思議な動き、体の激しい使い方、あれは一体何なのだ。

「あれは……、町民に迷惑をかけなければいいが。気の荒そうな若者も多いようだ。正直なところ不安はある」

「よそで、問題を起こしたとも聞きませんし」

 なんとなく大道に肩を並べた濱崎が応える。

 ふん。こちらで気をつけろということか。そう思ったとき、大道の頭に皮肉な考えがひらめいた。

「ところで、彼らはよくゴッチャンデスとかなんとか言っているようだが、どういう意味ですかな?」

 濱崎相撲担当官は、予想外の質問にほんの一瞬たじろいだが、すぐに、またこのじじいは気まぐれなことをと思いながら、あっさりと応えた。

「私は知りません。彼らには、あまり立ち入ってはいませんし」

「なるほどな」と、これもまたいかにも気のなさそうに大道は言った。

 会話はそこで途切れた。濱崎は、勝ったとまでは思わなかったが、上手く乗り切ったと思った。

 大道翔太町長は思う。なにが「我々政府」だ? 我が弥生町も立派なひとつの政府だ。それにしても、こいつは何も知らんやつだ。

 

 

 その集団の巡業日もナカビを過ぎた。町民たちの忌避感は未だぬぐえず。よくて静観といったところであった。彼らの稽古もその競技もかなり激しく荒っぽい。ちょっとした怪我や体の故障は彼らには珍しくないらしい。とても見てはいられないと思う者も多かった。

 しかし日常では、彼らが案外に礼儀正しく、また節度のある生活習慣を守っていることが、次第に町民たちに理解されてきていた。町にとって、一ヶ月ほどの期間、彼らを迎え入れるにあたっての対価―国の補助も、魅力的とはいえないまでも、納得のいくものではあった。

 物珍しさは、やはりつきまとった。

 昼休みにいつもの定食屋で、ランチに取り組んでいた日野陽子が口を開く。

「私、いいこと思いついちゃった」

 向かいの席の山崎忠信が、うん? という感じで目を上げる。そして、せわしく動かしていた箸を置いて、湯呑に手を伸ばす。

「あのねえ、こういう食堂をね、チェーン店にしてどこでも同じ料理を出すの」

「ふむふむ」

「調理とか……、手のかかる下ごしらえはどこか別の場所でやってね、それを各支店に配送して、」

「あぁ、なるほど、まとめて作れば費用もかからないし、店の人員もちゃんとした調理師じゃなくて、アルバイトでもいいわけだ」

「そうなの。そんなふうにやると、メニューも安くできると思うし。ね、いいアイデアだと思わない?」

「いや、あのね、」と、忠信は呆れたように首をかしげる。「それって、だいぶ前というか、平成時代に流行ったやり方なんだけど」

「え、そうなの?」

「うん。聞いた話なんだけど、昔はそうだったんだって。でもさ、ほら、そんなの美味しくないじゃん。それに、店員の質だって落ちるし」

「うーん、言われてみれば、」

「それで、とっくの昔にすたれて……、あ、いやおい、あれ見ろよ」

 陽子が振り返ると、入口を、何かこんもりと黒いかたまりが塞いでいる。

「いらっしゃい……ませ……」いつもの、わざとらしいほど元気の良い、食堂のおばちゃんの声が不自然に途切れた。

 逆光の為、その黒い三つの影の表情はうかがえない。しかし彼ら―雪駄履きに浴衣姿の大男たちは意外に静かに、すべり込むように店内に入ってきた。山崎忠信は口に含んだお茶にむせそうになる。日野陽子は、その重い腰を一瞬浮かしかけた。相撲取りの姿を目の当たりにするのは、二人には初めてのことだった。

 遠目に見たことはあった。つい数日前のこと、燃えるように赤い夕陽のもとで、裸にふんどしのようなものを身に付けた大男たちが、前かがみの姿勢で腰を落とし両手を前に突き出しては引っ込めている。音声は二人のところまでは届いてこない。それは、不思議なダンスだった。二人は、ほんの数秒、互いに無言のままそれを眺めた。しかし、すぐに二人ともそれを忘れてしまっていた。若い二人には、そのときもっと大切なことがあった―。

「おい、あれがそうだな」

「うん。ちょっとびっくりしたかな」

「まいったな、こんなところにもやって来るのか」

 二人はとりあえず、その異形の者たちに軽い拒否反応を示した、そして、好奇のまなざしを向けた。

 よく肥えた体に、精悍な顔立ちとはいえる。三人のうち一人はメガネをかけている。その彼らは周囲には頓着せず、メニューを注文し、やがてテーブル一杯に広げられた料理をもくもくと片づけ始めた。

「おい、やつらすごいぞ」

「ほんと、何人分?」

 とっくにランチを終えた二人だったが、示し合わせたように席についたまま、ただ、彼らのただ事ではない食事の光景を見つめている。

 店のおばちゃんも口をはさむ。

「ここんとこ、毎日来るんですよ。なかなか私も慣れんけどね。一人で三人分くらいは軽く食べなさる。それでも、あの人たちには、おやつみたいなもんらしいですね」

「しかし、やつらすごい。ほら、どんぶり飯が、なんか一息で呑み込まれてくみたいな。あれじゃ太るわけだ」

「すごいよね。普通に食べてるみたいだけど、あっという間になくなってくし」

「まあ、作る方にしてみれば、見ていて気持ちのいい食べっぷりだけどねえ」

「やっぱりさ、格闘技みたいなもんだから、体を大きくするためなのかな。しかし、太り過ぎるってのも不利なんじゃないかな」

「あ、それがね」陽子が言う。「相撲ってね、太るのも大切なことなんだって」

 忠信とおばちゃんが、陽子に目を向ける。

「うん。あの人たちね、」と、陽子はなぜか張り切って続ける。「精一杯、食べれるだけ食べてから、必ずお昼寝するんだって。効率よく太るために。えっと、一生懸命太るのもね、じつは宗教上の理由からなんだって」

「宗教?」忠信が意外そうな声をあげる。

「うん。おばあちゃんが言ってた。うちのおばあちゃん、相撲のこと知ってたし」

「へえ、だけど、その宗教って、もしかしてお前も入ってる?」

「もう、なによ、それ」

 しかし、陽子は笑っている。

 

 

 その虫の種類は分からない。小さな茶色い物体がふわふわと飛んできたかと思うと、生垣の中にすっと飛び込み見えなくなった。庭先にしゃがみ込んだ母親の丸い背中に、明るい陽光があたっている。よく晴れた午後だった。池田静子は縁側に腰掛けて、その長い脚をゆすっている。

「どうしたものか」

 思わず口をついて出た。母親が振り向いた。「いや、なんでもないけど」と、静子は応える。

 大学を出て二年、書類整理と電話の応対に明け暮れるかたわら、独学を続け、やがて転職し実地で三年の経験を積んだ。そして半年ほど前、マッサージ師として静子は親元に戻ってきた。実家の一室に簡易ベッドを準備して、通りに面した敷地内に看板を掲げた。「出張もいたします」と、新たに登録した電話番号に並べて書き記されている。

 近所中に自作の手配りチラシも配った。電話帳には『マッサージの店 はあとふる』なる店名を記載した。

 田舎の、主に農業に従事する高齢者の話し相手を兼ねてのビジネス。主業務はもちろんマッサージだが、むしろ世間話やちょっとした健康相談が付加価値になる。

 狙いは間違っていなかったと思う。競争相手の少ないこともあると、静子は常に自分を戒めているが、ともあれ固定客も少しずつではあるが増え始めている。

 今、静子は自分に言い聞かせる。

 大丈夫。いくら体が大きいからって、あのくらいの人たちにはいつかは当たるだろう。それが、たまたま今日きただけのことだ。いや、でもあの太り方は無理に太ったようで不自然だ。ううん。でも、なんとかなる。私はプロだ。

 静子は、自分の言葉に半ば酔いながら繰り返す。私はプロだ。この自覚こそが私の支えだと、自分で思う。

「うん。それじゃ、お母さん、行ってくるから」物問いたげに見上げる母親に静子は付け加える。「ほら、あの、相撲取りって人たちのところ。さっき、電話があったから。心配ないって、普通の人とはちょっと違うみたいだけど、あの人たちだってやっぱり同じ人間だし」

 自分に向けて言うかのように、「大丈夫だから」と、もう一度静子は繰り返し、玄関先に置かれた愛用の自転車にまたがる。自転車の荷台には電療機材や漢方の入った薬箱、白衣やおしぼりなどの入ったスーツケースが積まれている。少し重い。静子は自動車の購入をふと思うが、しかし思ってみただけのことだった。

 車のひしめく都会の光景を、古い映像で静子は視たことがある。思い出してぞっとする。今の時代では考えられない。車なんて、どうしても必要なときだけレンタルすればいい。そして静子は、普通とはちょっと違う人たちの下へ、自転車をこぐ足に力を込める。

 ―その夕方、静子は上機嫌で母親と食卓を囲んでいた。

 静子はまず、予想外にたくさんのチップをもらったと母親に報告した。

「あの人たち、お金は持ってるらしいわ。あちこち移動してるから定職は持ってないんだけど、国から保護を受けてるんだって。伝統のある国技だからって、あのお客さんは言ってたけど、お母さん、相撲って知ってた?」

「いや、知らんけど。昔は人気があったらしいねえ。テレビでもやってたって、ほら、日野さんとこのおばあちゃんが言いよったよ。今になって、また相撲が見れるなんて、って喜んでたから」

「へえ、テレビにねえ……。それはちょっと想像しにくいけど、あ、そういえば、子供たくさん見かけたかな。柴田さんちの扶君とか。でも、昔みたいに人気はなくても、働かなくてもいいっていうのはいいなあ」

「まだ若い人たちが働かなくてもいいっていうのは、どうかと思うよ」

「そう、ねえ……」

 なぜか、静子は反論されたのが気にかかった。

「けど、ね。お母さん。あの人たち、酔っ払って人を呼びつけたりする男より、よっぽど紳士だわ。見た目はすごいけど、みんな親切だったし。ほら、なんか勘違いしてる客っているんだけど、そんなのとは全然違うし」

 母親は今度はただ、ふんふんとうなずいている。お母さんは、前よりしゃべり方がゆっくりになったと、静子は思う。

「ゴッチャンデス!」

 静子は突然、おどけた口調で言った。

「なんね、それは」

 母親が真顔で聞いてきた。

「あ、やっぱりお母さんも知らないか。マッサージが終わってからね、ゴッチャンデスって言われたの。どういう意味かなぁ」

「今度、訊いてみたらどうね」

 そうね、とあいまいに返事をしながら、それが訊きにくいのよと静子は思う。あの人たち流のただの挨拶なのかもしれないけど、なんだかそれ以上の響きがあるし。もしかすると、私が使っちゃいけない言葉かも。

 

 

 巡業の最終日は快晴に恵まれた。この日は、彼らの言葉でセンシュウラクと呼ばれていた。千秋楽、町民たちは誰もその意味を知らなかったが、神事にかかわる用語であると理解された。弥生町公園には多くの見物客が集まり、『満員御礼』の垂れ幕が下がった。弥生町興行では初めてのことだった。

 簡易ベンチも足りず立ち見客も出た。

 当初、相撲見物などにわざわざ足を運ぶのは、よほどの物好きか、暇を持て余している者たちだけだった。初印象から、なんとなく、皆、この異形の集団を敬遠していた。しかし、日を追うにつれ観客動員数は増えてきていた。

 土を盛り上げ、円形に綱を敷いたそのリングは、ドヒョウというものであるらしい。観客一人ひとりに配られたパンフレットによると、土俵と書かれている。

 その土俵上に、彼らの代表がハンド・スピーカーを手に挨拶に立った。彼は、仲間内で親方と呼ばれていた。初めて目にする者も多かった。彼は、体の大きな初老の男で、引き締まった表情をしており、威厳があった。その装いは神主に似ていた。

 やがて取組が始まった。

「ひがぁしぃ、ほうじゅぅやぁまぁ」

 これはもう、どう見ても神主だとしか思えないギョウジと呼ばれる男がウチワのようなものをかざして、マワシひとつの大男を紹介した。次に、やはり行司―と、書くらしい―の紹介で、その対戦相手の千歳川が土俵に上った。力士二人は、土俵の中央近くで、四つん這いになって向かい合うと、そのままぐっと睨みあった。頬が次第に紅潮していく。

「ハッケヨイ」

 行司が、両者の呼吸を計りながら、素晴らしくよく響く、意味不明の奇声を発した。

「ノコッタ!」

 何が残ったのだろう? と、人々が思う間もなく、二人の力士は激突した。そして、がっぷりと組み合った。互いに渾身の力を込めて、相手のマワシを握り締めている、その両腕の筋肉は固く盛り上がり、ぎりぎりと音がするかのようだった。

「ううむ……」大道翔太がうなった。彼は現職の町長でありながら、この貴重な賓客たちの儀式を、今までまともに見たことがなかった。薄々、興味を抱きながらも、濱崎を相手に毒づいた手前、相撲巡業とは距離を置いていた。しかし今日、最終日だからと濱崎に促されたこともあり、しぶしぶといった風で、ともかく会場に足を運んでいる。しかし、大道はすで手に汗を握っている。

 大道の横では、気のなさそうな様子で濱崎重成が腰をかけている。

 仕事だから相撲取りたちの世話をしている。特に、地方自治体との折衝など公的な仕事は彼に一任されている。仕事だから毎日のように相撲を見続けている。夕暮れどきの涼しい風を頬に受け、まだ初夏だ、とふと思う。あと一年近くはこのポジションに留まらねばならない。じつは、彼もまた相撲は嫌いではない。土俵上では、取り組む両力士のすぐそばで、行司がノコッタ! ノコッタ! と囃し立てている。濱崎の胸も次第に熱くなる。しかし、下手に興味を示してこの仕事に熱を入れてしまうと、来季のポストに影響が出るかもしれない。下手をすると、この廃れかけた特殊な競技の担当に留任もありうる。仕事だから仕方なく、今現在も、彼は相撲を見物するという業務を淡々とこなしている。

 そして、宝珠山と千歳川の取組は、じつのところあっけなくついた。体格で勝る千歳川が、じわじわと相手を土俵際まで押し込み、最後はダシナゲというのを決めたのである。

 宝珠山は、土俵から豪快に転げ落ちた。山崎忠信が、うおっ、と声を上げた。そして、「やっぱり、面白いものだな」と独り言のように呟いた。

なんとなく、それにうなずきながら、日野陽子は思った。なるほど、私のように無意味に食べ過ぎるのとはわけが違うわ。太って、太って、そうしてその肉体を神に捧げるのね。この儀式をより良いものにするために。あの人たちの太ることにかける情熱がこれで分かったわ。

「ちとせがわぁ」行司が勝ち名乗りを上げた。そして、早くも次の取組が始まろうとしている。

 控室―それは支度部屋と呼ばれていた―へ引き返す千歳川の姿を、彼にマッサージを施した池田静子が見ていた。彼は周りの仲間たちに、しきりにゴッチャンデスと繰り返している。どうやらカチコシというのを決めたらしい。腰が、どうかしたのかな。そんなに悪いとは思わなかったけど。その肉厚の腰を揉んだ感触を静子は思い出している。

 取組は次々と進行している。

 ハリテの応酬があり、ツキオトシがあり、ナゲの打ち合いがあった。

「これは、すごいものだ」

 大町町長は、力士たちの気力、体力、そして技術の生身のぶつかり合いを身を乗り出して見つめ続けた。これが国技で、また神事でさえなかったら、ルール次第では我が町民にも勧めたいものだとさえ思った。

「ね、見にきてよかったでしょ。お母さん」

 扶が言った。扶はあの日以来、学校の帰りには、必ずこの興行に立ち寄り、最終日の今日、ためらう母親にも彼の大好きなものを見てもらったのだ。

「そう、ねえ」幼い了を膝に乗せて、雅子は言う。「やっぱり、ちょっと乱暴ねえ」

 だが、その瞳はきらきらと輝いていた。お母さんも、本当は面白かったんだと扶は思った。

 今、ようやく最後の取組を終え、それとほぼ時を同じくして、公園の街灯が白々と光を放ち始めた。土俵では、なぜかは分からないが、一人の若い力士がゆったりとしたテンポで弓を振り回している。遊んでいるにしては妙に真面目な表情なので、見物客たちはなんとなく立ち去りがたいものを感じている。

 と、そこへタイミングよく「ぜひ、ご賞味下さい」と、親方の呼びかけの声が響く。人々は応じる。

 そのチャンコと呼ばれる熱い鍋料理に、人々は皆、チャンコとは何なのか? などといった突っ込みは入れず、機嫌よく舌鼓を打った。

 そして、さらなるサービスであろう。力士有志による相撲甚句が披露された。

 あぁ、どすこい、どすこい

 当地興行も、本日かぎりよぉ

 あぁ、どすこい、どすこい

 ああぁ、勧進元や世話人衆

 それは、メイン・ボーカルである一人の力士を中央に立たせ、その周囲で、輪になってあぐらを書いている力士たちが合いの手を入れるという、変わった形式のコーラスだった。

 われわれ、たちたるその後は

 お家繁盛、町繁盛、はい

 悪い病の流行らぬよう

 陰からお祈りいたします、はい

 あぁ、どすこい、どすこい

 その不思議な抑揚と耳慣れない言い回しに、祝詞だと人々は思った。