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千年またぐ文学の戦争を:イコ

1.今、彼女がどんな作品を書いているか知っている人は、どの程度いるのだろう。

「日本文学の作家を挙げてください」と言われれば、大抵の若い人が思い浮かべるのは、夏目漱石、芥川龍之介、太宰治といった、「文豪」といわれる近代の作家たちだろう。そこで「えっ、じゃあ今活躍している、現代文学の作家といえば?」と、もう一度尋ねてみるとする。その人はなんと答えるだろう?「む、村上春樹?」と答えるかな。答えてもらえるならありがたい。「よしじゃあ、芥川賞をとった人、何人言える?」「えっ、えーと、綿矢りさ、……」あの綿矢りさの受賞から既に7年が経過した。当時「蹴りたい背中」を読んだ人で、今、彼女がどんな作品を書いているか知っている人は、どの程度いるのだろう。オジサンたちが夢中になった「りさちゃん」「りさたん」は、もうすぐ28歳になります。

 

2.あの中学生は『きことわ』を最後まで読むことができたんだろうか?

 短い草の生えた地面の上に、背中合わせに立っているワンピース姿の女の子二人。おとぎ話を思わせる、そのハードカバーを手に取って、裏側をしばらく眺め、レジに向かっていく中学生の制服。彼女はもう一冊、ケータイ小説の、きらきらデコレーションされた本を重ねて持っている。あの中学生は『きことわ』を最後まで読むことができたんだろうか?

 第144回の芥川賞は朝吹真理子の「きことわ」と、西村賢太の「苦役列車」が受賞した。芥川賞というのは半年に一度の、「文学」のお祭りである。受賞はきちんとその日や翌日のニュースで報道され、会見の様子も流れる。144回の会見はニコニコ動画のニコ生(ネット配信の生放送番組)でも視聴可能となり、一部で話題を呼んだ。朝吹、西村両氏の会見は、その容姿・性格が対照的であったこともあり、普段よりもメディアで取り上げられることが多かったように思う。

 しかし作品の方はお茶の間にどう評価されたのだろう。西村賢太はともかくとして、朝吹真理子の「きことわ」が、文学を読まない人をも巻き込んで評価されたとはどうしても思えないのだ。

 

3.余計な心配だって? その通りだと思う。

「きことわ」は流れるような言葉によって、今と25年前という2つの時間、2人の女性の距離を巧みにつなぐ好品である。しかし作者の記者会見での、「読者というあなたに届ける手紙のつもりで書いています」というような、どうもわざとらしい、文学の香水をふりかけまくったような言い方からも分かるように、これは、文学が好きな人、ある程度読んできた人が、文学の楽しみを享受する作品なのであって、ケータイ小説好きの女子中学生が気軽に立ち入ることのできる作品とはとても思えない。

 余計な心配だって? その通りだと思う。中学生は『きことわ』に涙したかもしれないし、本当は文学好きなのかもしれない。もちろん中学生がその本をきちんと読み終えて棚にしまったか、あるいは売ったか、燃やしたか、それはわからないんだが、勝手に、そういう心配をしてしまうほどに、現代日本文学というのは、誰にでも訴えかけるような強い力をもたないという実感を、もっているのだ。

 

4.Amazonではワンコインで売られている。

 近代の作家ならあげられる、けれど現代の作家は、なかなかあげられない。よくあることだ。本を読むぐらいしか身近に楽しみがなかったムカシの若者にとって、文学というのは、強い影響力をもつものだった。しかしイマの人たちは選ぶことができる。自分の欲望を満足させる娯楽が周囲に満ちているのだ。映画、音楽、アニメ、……。いくらでもある。とくに(主として)アニメーションにおける二次元空間(縦横無尽に販売形態を変える)は、今や、多くの若者にとって、議論の対象、つまり価値をもつものになった。現代文学はどうだろう? アニメーションに比べて、あまりにも隅に追いやられていないだろうか。

「よく分からない」「つまらない」「難しい」「眠たい」「これが芥川賞?」「で、オチは?」

 イマの日本文学につきものの、読者の感想である。芥川賞でその作者を知ったほとんどの人が、いずれ作者を時代の屑籠に放り込み、忘却する。ブックオフでは100円の値札がつく。Amazonではワンコインで売られている。ワンコインって500円? いいえ1円です。

 芸術に理解がない、と嘆く向きもあるだろう。市場主義など関係ない、自分の作品にはもっと価値がある、と思うだろう。しかし、世の少数の、「わかる人」にだけ分かってもらえばいい、と思うのも、少しさびしくないだろうか。ドストエフスキーやカフカは、もっと多くの読者を巻き込んできたじゃないか?

 

5.石斧でもなんでもいいよ。

 価値観は多様化した。そりゃそうだ。これからさらに多様になっていくだろうし、なっていってもらいたい。枝の枝の枝まで伸びてきた価値の脈のなかにいて、多くの者に評価されるものを作るなど、幻想に過ぎないのかもしれない。「きことわ」は確かにいい作品だった。芥川賞のなかから価値ある傑作をあげろと言われたら、「よしきた任せろ」って思う。だが現代日本文学の作者は、もう一度、ベタで太いものを作ろうとするアニメーションの方法などから、自分たちの幹を思い出してもいいのかもしれない。

「よく分からない」と言ってブンガクを捨てようとする人がいるとして、「待てよ、おれを読めよ」と、そいつの頭に銃をつきつけ、ためらいなく発砲するような、力強い日本文学の到来を、ひょっとしてわれわれは待ち望んでいるんじゃないか。銃がカッコよすぎて困るなら、石斧でもなんでもいいよ。「ウラー」って言いながら後ろからぶったたこうよ。一晩限りのお祭りじゃなく、千年またぐ文学の戦争を。