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「私の読書生活」ちぇまざき

12歳「変身」

その頃、まだ幼い少年だった私は父親の本棚を漁っていた。

幼い少年の目下の悩みは毎週木曜日の水泳の習い事の煩わしさであり、勉学はせず、土を掘り返し、蛙を集め、花火で放火をし、無為な日々を過ごしていた。

本棚を漁っていたのは思春期にさしかかった少年らしく、いかがわしい本を探していたのだ。本をほとんど読まない父の本棚は貧しく、ミステリーの文庫本と家族の写真アルバムが並ぶばかりであった。

その本棚の中で茶色く変色した古びた本があった。カフカ著「変身」であった。カバーはすでになく、タイトルがむき出しの文庫に刷られているばかりだった。

「変身」を部屋に持ち帰った少年はそれを読んだ。それはそれまでの私のレパートリーの中にはないストーリーだった。

予期せぬ変貌で家族に捨てられてしまう主人公の前に、まだ自分が「育てられている」実感もない少年が感じた漠然とした予感。その予感は、少年を物思いに耽させるのに充分であった(その物思いも次回の本棚漁りで目当ての物を発掘するまでであったが)。

 

18歳「裸のランチ」

若者の最初の"転ぶポイント"であるこの頃にした読書は若干スレていた。

先輩に進められた村上龍を読んだ事から始まった「スカした」読書傾向が一つだ。

そこからWバロウズであったり、中島らもであったり、中原昌也であったりした。中原昌也「マリ&フィフィ」なんかなかなか気に入ったふうであったが、他の作品を探したりなどはしなかったから不思議だ。

イカれた文筆家Wバロウズは、執筆自体を本人がラリっていた為覚えていないとコメントしているが、この頃の自分もラリっていたので内容をあまり覚えていない。さっき挙げた作品群もなんとか思い出しただけの事である。本を読むより本を燃やしたい気分だった。

 

21歳「寡黙な死骸」

ひとまず上辺だけの更生をし、学生となった。しかしそんな自分を待ち受けていたのは悲しい出来事だった。すっかり意気消沈していた。

この頃は時間もまぁまぁあったので本を読んでいたが、基準は「いかにスマートにペシミズムをやってるか」という着眼点だけだったかもしれない。(当時の)小川洋子の作品はなかなかにちょうど良かった。ただ、どんなにペシミスティックにやっても何かが解決される訳ではなく、小説にも「薬効」がないのがわかった。そもそもそうやって読む物でもなかった。

 

24歳「サドンフィクション」

社会人になり、結構人間らしくなった自分は割合退屈していた。社宅借り上げのアパートに友達が来る事も少なく、休日は電車を乗り継ぎ近所で一番栄えていた府中の本屋へ行っていた。緑も多くいい場所だった。

適当に取った「サドンフィクション2」という文庫本があった(当時は本当に適当に本を買ったりしていた。かといってレコメンド情報も欲していなかった。ほっといて欲しかったのだろう)。

世界各国から実に短い作品だけを選りすぐって載せた文庫本だった。今見返せば知った名前もある。のどかな府中で、世界は広いなと思っていた。時間はいっぱいあったが何もしなかった。のどかで暢気で、ちりちりとした焦りを感じながら暮らしていたように思う。

 

28歳「?」

仕事を転々とする中で、小説を読む機会も段々と減っていった。もったいない事ではあるが、仕事に役立つ本を読んでいると時間がない。仕事の本だけでも読み切れないくらいだ。

「若い小説家にあてた手紙」という本のなかで、小説家になる人は自分の(時に屈折した)思いを変貌させて、他者にぶつける為に書いているのだと書いてあった。

今の所あまり屈折もしていず、自分を知ってもらいたい欲求もほとんどなくなっていた。若者の期間が終わったのか。知ってもらいたいと思っても原則知ってもらえないという事が身にしみてわかったとも言える。

ただ、ペースは落ちるであろうものの、また物語を読む習慣を取り戻したいとはいつも思う。