私自身まったくの素人ですが、「習作を読ませてもらっている読者」の立場で、 「こんな書かれ方であったらもっと面白かったんじゃないか」という視点で書きます。 『いざ起て戦人よ』 価値観の違う四人が合唱を通じて心を通わせる話、だろうか。 高校生ぐらいならばお互いへの無理解から暴力的な事件も起こすだろうし、やさぐれる女生徒などもいると思う。 また、合唱が人の心を一つにする力を持っているのも間違いない。 この二つのモチーフはよく見かけるものなので、題材として扱うなら、 いかに読者を飽きさせずに物語ってみせるか、というところに筆者の腕の見せどころがあるんだと思います。 この作品では、単位をとるために合格点が必要、という理由から、皆が歌い、合唱することの面白さに気づくわけですが、 ここに創作としての面白みを足していくとすれば、反発する個々の登場人物が、合唱の面白さに気がつきながらも、 まだ「価値観の違い」「こだわり」を無視することができず、一体感と自愛の間でゆれる、というような基本的な構造が少なくとも必要だったんじゃないだろうか。 そのうえで、文章表現、構成の工夫、他者の視点などを取り入れて、作品世界の深みをつけていけたなら、まだまだ面白くなると思います。 (いいかえれば、そうしたことが書かれていないことに不満があるわけですが……) 『明け方の焔』 粗暴な父親を遠ざけるため、祖父が存命だと見せかけるよう焚き火を絶やさない男が、妻に逃げられる話。 現実性よりも物語性に力をおいた作品だと思います。物語ではあるけれど、訓話的なものではなく、どこか私的な、生い立ちに関することからの脱却を考えている。 短い作品でありながら、物語に私性をこめている(とうかがわせる)構造によって、どこかとらえどころのない作品になっている。 このとらえどころのなさは話の筋道自体に確たる脈絡が無い(焚き火を続けることに説得力がない・父親のなにを恐れているのか思い込み以外伝わってこない・妻の人間性がわからない)ことも重なって、話を散漫にしているんじゃないでしょうか。 粗暴な父親へのこだわりを物語りに落とし込むのはいいとして、妻や祖母の話を省き、主人公との二人の人間的な葛藤に焦点を固定したら、 まずは読みやすくなるんじゃないかと思います。 『リセット』 SF、ということになるんだろうか。自殺を減らす制度として、冬眠を社会的制度として実施している世界の話。それにしてもこの設定、リセットの意味合いがよくわからない。このことには主人公も、どうも意味合いに疑問を感じているみたいです。虚構の世界で虚構の設定を導入するとして、 その説得力には気をつかわなければならないんじゃないでしょうか。すくなくとも私の場合は、そのように期待しました。 この話の場合、話の展開が、リセットした(逃避した)主人公と、真面目に(実直に?)生きる人たちとの対比から現代を生きることへの覚悟のようなものを書こうとしていると思いますが、そうした真面目な展開が、始めに披瀝されたガジェットの不細工さによって力をうしなっていると思うので、さらに損をしているように思います。 それぞれ別個にみたら魅力があると思うのですが、たとえば星新一のショートショートが途中から木山捷平の短編小説になったら、ちょっと入り込めない。 『スイッチ』 文芸として評価はできないんですが、ユーモアって必要ですよね、と思わせる作品。 『五月の同行』 詩的な所在の私と、現実に対応している私との対話、いや、対話というより脈絡なく口にしている、と読みました。 ショッピングセンターは、よく、快楽の場としてとらえられる。陳列された食べ物・衣服・化粧品・サプリメントの類、これらを身につけまたは摂取する自己を思い浮かべながら、陳列棚を巡って余暇を過ごすための場所。『消費社会の神話と構造』 詩的な所在の私は毛嫌いして、アレルギーみたいになっている。それか逆(回復している)かもしれない。ここはちょっと理解に苦しみます。 対話そのものもあまり筋道だってないので、解釈しづらい。 ともかく、その二つの人格または側面が何時間かのドライブとショッピングセンターでの時間を過ごす。 地の文に詩の感性が顔を出しているのですが、主知的な色合いが深まって、読み取るのが難しいです。 個人的には、ぜひとも物語のたのしみに立ち返ってほしい。 以下は気になった文章。 「大宇宙 陽炎 たっぷり あまた」印象が強く引きずられる感じがしました。 「バターを塗りこんだ食べごろの小動物」「ズボンのポケットを膨らませたアリの流れ」イメージするものがよくわからなかったです。