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ベルガマの犬、エフェスの猫

イスタンブールに夜が来る
イスタンブールに夜が来る

 

 

 1890年、和歌山県沖で1隻の船が遭難する。

  日本の台風を軽視したトルコの船である。

 岩礁に激突し、船は沈没。船を逃れた水兵が40メートルの絶壁をよじ登り、紀伊半島南端にある樫野崎灯台の灯台守に遭難を告げると、付近の村の人々は総出で救助活動に当たった。

 村人は生存者を寺や学校に収容し介護した。寒村で食糧に乏しく、もとより自分たちの生活に精一杯の村人だったが、非常食としてとっておいた鶏を与えて傷病者に食べさせるなど、献身的だった。 

 結果生き残ったのは、600人以上いた乗組員のうち、たった69名。話を聞いた明治天皇は乗組員を軍艦に乗せ、トルコにおくりとどけた。 


 

 エルトゥールル号事件はトルコでは有名で、学校の授業でも扱われるそうだ。トルコには親日家が多いと言われているが、原因のひとつとしてこの事件が挙げられる。

 この話、トルコに旅行しようと思い、調べるまで知らなかったのだが、みなさんはご存じだっただろうか。現地でもことあるごとにこの事件のことが言われた。

「わたしたちトルコ人はみんなエルトゥールル号のことをおぼえています。ですから日本のみなさん大好きです。お安くします」

 絨毯屋ではこのように商売にすら利用されており、苦笑してしまう。exciteニュースに、イスタンブール市民に街頭アンケートを取ったという記事があって、それを読むとさすがに「みんな」というのはあやしいようだが、多くの人が100年以上も前の事件を知っているのは事実と言ってもよいかもしれない。

 これは親日云々というより、むしろ日本人の意識の問題だと思う。

 ツアーで回った場所では、多くの人が日本語を知っていて、日本に旅行や留学をしたと言う人もちらほら、民家の扉の向こうからは「コニチハー!」という明るい声、ホテルの土産物売り場には『南国少年パプワくん』を読んでいる女性店員もおり、えっ、こんな遠いトルコで? と、たびたびおどろかされた。

 トルコ語を知らなくて平気なのか、と不安に思っていた国で日本語が飛び交う。たまに常識程度の英語が使えれば気持ちよく10日間を過ごせてしまう。そのことに海外旅行の素人としては、なんとなく遠近感を狂わされるような気持ちがしたのだった。

 日本人がよく訪れる観光地で、日本人を「お得意様」にしている一部のトルコ人にとって、日本語を理解するのは都合がよいだろうし、「日本のみなさんのことが好きです」と言われるのは日本人にとっても嬉しいことだ。

 繰り返すようだがこれは日本人の意識の問題で、トルコ人はみんな日本が好き、というよりは、日本人がそう考えたがっている、という方が正しいと思う。

 エルトゥールル号事件は、旅人にやさしいトルコ人の、あるいは絨毯を買ってもらいたい商売人の、日本人向けのエピソードである。

 

 池澤夏樹が『イスタンブール歴史散歩』の中で、「現代の日本人の世界観の中でトルコという国はおそらくヨーロッパのずっと先の方に霞んでいる」と述べているが、学生時代に世界史を勉強していたにもかかわらず、トルコアイスとモスクの塔くらいしかぱっと思い浮かばなかった身としては、たしかにトルコはヨーロッパよりずっと遠いな、とうなずいてしまう。

 地図上では同じアジアとしてくくられることもある国だけれど、その中身は知らず、予想もつかない。旅行する前は、ただ尖塔(ミナーレ)が夕陽に映える一枚絵のようなイメージの、エキゾチシズムを刺激される国だった。


 旅行の10日間を経て少しばかり立体的にはなったが、異国感はいっそう増している。旅行を終えても、もっと知りたい、という気持ちが動く。東西の文化が交錯する、歴史の重要拠点のひとつでありながら、知らないことが多すぎて、裏にされたトランプを、1枚ずつめくっていくような緊張感とわくわく感がある。ひっくりかえったカードを見て、なおひきつけられてしまうような、魅力のある国である。


 ここに少しだけのぞくことのできたトルコを、ちらっと紹介しようと思う。

 


 

アスクレピオン(ベルガマ)
アスクレピオン(ベルガマ)

 

 太陽の角度により、石柱のかげが地面や壁に当たって縞模様をつくる。ひかりとかげの芸術である。

  

 トルコというとイスラム教圏のイメージが強く、ついイスラム教寺院を思いうかべてしまう筆者だが、意外なことに、西部トルコはギリシャと国境を接し、地中海、エーゲ海に面していた。

 現在のトルコ系の先祖であるムスリム(セルジューク朝、オスマン朝)が中央アジアから入って来るまで、アナトリア半島は、長いあいだキリスト教、ビザンツ(東ローマ)帝国として隆盛をきわめていた。 

 

 バスで西部トルコを走っていると、穏やかなエーゲ海に沿い、なだらかな丘と、背の低い石づくりの家々が続く。

 

 

 ギリシャ・ローマ時代の遺跡があちらこちらに残されているが、歴史的に見ても、トルコ人よりヨーロッパ人の方が発掘に熱心である。

 トロイ遺跡を発掘したドイツ人、シュリーマンの逸話は聞いていて飽きない。

「あの人はトロイで念願の財宝を見つけると、雇った人夫に金を握らせ帰らせてしまい、トルコ側との約束を破ってこっそりすべて持ち帰ってしまいました。そして自分の奥さんを財宝で着飾らせ、写真を撮って雑誌に発表したのです。バレないとでも思ったんでしょうかね。わたしたちはシュリーマン、嫌いです。でもシュリーマンの後で発掘に来た人は荒らさなかったのでわりと好きです」

 現地ガイドがおもしろおかしく話してくれる。


 各地の遺跡で多く見られたのはトルコ人よりも東洋人のすがただった。韓国人、中国人、日本人がそれぞれ一団となり写真を撮って回っていた。

 遺跡にはそもそも人は少なく、石ばかり冬の風に吹かれていた。

 ベルガマではアスクレピオンという医療施設に立ち寄った。入口にあるトンネルは長く暗く、病人の足音も聞こえてきそうだった。

 建物の破風には「死が立ち寄るべからず」と書かれていたそうなのだが、実際にアスクレピオンでは死者がめったに出なかったらしい。それだけ聞くと当時の医療技術が奇術めいたものに見えてくるのだが、種明かしをすれば何のことはない。死にそうな病人をアスクレピオンに収容しなかったのだそうである。

 エフェスは街ごと復元されている。

 住宅、神殿、公会堂などが、石畳の街路に沿ってならぶ。

 かつて12000巻の書物があったという大図書館も復元されていた。図書館と売春宿がトンネルでつながっており、「ちょっと図書館に行って来るよ」などと言って出かけた男が、実は売春宿にふけこんでいた、というのもおもしろい話だった。


 遺跡にはどこにでも劇場がある。

 半円形、階段状に座席の並べられた施設で、「劇場」というが、ローマ時代にはただ観劇して楽しむだけではなかった。映画などにも表現されているが、アフリカから連れて来られた奴隷を野生動物と戦わせ、それを見て楽しんだという話だ。

 奴隷が死ぬまで戦いは続けられたらしい。

犬が観光客のあとをついてくる
犬が観光客のあとをついてくる

 

 風の吹きしく中、人のいない冬の遺跡を歩いていると、かつてここに人々が暮らし、にぎやかな街路を歩いていたんだ、という思いがつよくなる。

 1000年以上も前のひとりひとりとすれ違っているような気になるのである。

 にぎやかな街のすがたが、さびしさのなかに浮き上がって来る。

動物に立入り禁止の場所はない
動物に立入り禁止の場所はない

 ベルガマには犬がいた。

 エフェスには猫。

 動物が遺跡の上を走ったり、寝転んだりしている。

 人の入ることのできない場所にも自由に入る。

 

 

 今、遺跡を寝床や遊び場にすることのできるのは、かれらだけだ。

 遺跡をフィールドにして全力で鬼ごっこをしたらとても楽しいだろうと、子どものようなことを思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

アヤソフィアジャーミィ内部
アヤソフィアジャーミィ内部

 

 モスクは写真におさまりきらない。ギリシャ語でハギア・ソフィア大聖堂、トルコ語でアヤソフィアジャーミィ、現在は博物館となった大モスクは、規格外の建物だった。高い天井にも細かい装飾がほどこされており、見上げていると首がいたくなってしまうのだが、それでも長いあいだ目を離すことができなかった。

 

 ローマ帝国時代、コンスタンティヌス帝の命令により建築が始められ、360年に完成した教会は、何度も焼けながらも、ギリシャ正教の大本山としてあがめられ続けた。現存する円屋根の大ドームは直径31メートル、建物の高さは55メートル。1000年間以上も世界一の規模の教会だった。後世の建築家が何度挑んでも、アヤソフィア以上の建物を作ることができなかったという。

 話を聞いていておもしろいと思ったのは、帝国がオスマン・トルコの征服を受けた際、この教会が取り壊されず、そのままイスラム教寺院として生まれ変わったというところだ。

 宗教が変わる以上、壁面に描かれたキリストの絵は消されても仕方がないのだが、メフメット2世は絵に石灰を塗りつけ見えなくし、保存したのである。

 現在は石灰が取り払われて、モスクはイスラム教とキリスト教が混在した、稀有な建物として残っている。

 なにしろ巨大なものだ。打ち壊して新たに作るよりもそのまま利用した方がいいだろうというような、政治的な思惑もあっただろうが、キリストが後世に残されたところを考えると、現地ガイドの「メフメット2世は理解がある人物で」という言葉を信じたくなる。「征服王(ファーティヒ)の名を冠される人物だが、宗教や芸術に対して敬意をもっていたように見えてくるのだ。


 写真中央に描かれているのがキリスト、左右につけられた円盤のようなものには、それぞれイスラムの聖人をあらわす文字が刻まれている。向かって見ると、キリストの左隣がムハンマド、右隣がアッラーである。


イスタンブールの街路に立つチャイ売り
イスタンブールの街路に立つチャイ売り

 

 さすがはイスタンブール。

 アヤソフィア、ブルーモスク、トプカプ宮殿などの大きな建物には、東洋人だけではなく、世界中からたくさんの観光客が来ていた。

 髪の色も目の色も服装も多種多様、建物を見上げるのも楽しいが、あたりを見回してどの国の人だろうと想像するのも楽しい。東洋人はすぐに分かる。


 建物までの道には、さまざまな物売りがいる。

 大道芸人のように紐のついたコマを回して手に載せ、はにかみながら見せてくる少年がいる。コマを買ってくれということだ。

 また写真のように、金色のポットをベビーカーのような車に積んで移動するのはチャイ売りである。トルコチャイは特別な作り方をするので、日本では同じものをなかなか飲めない。

 


野菜入りクリームチョルバ
野菜入りクリームチョルバ

 世界3大料理のひとつとして数えられるトルコ料理はその種類の豊富さにおどろいたが、ガイドによるとオスマン朝時代、宮廷に捧げる料理として発展したという話で、現在では誰も調理しないために忘れられてしまったものもたくさんあるらしい。

 

 

 

 チョルバ(スープ)は種類が多い。

 ホウレンソウやレンズ豆、臓物など、あっさりしたものからどろどろした濃いものまで何でもあって、レストランに行くとかならず出される。店に行くたび、次はどのスープだろうと心がおどる。米が入っていることもあった。 

 

 スーパーマーケットには、棚いっぱいにクノール社のチョルバの素が置かれていて、たくさん日本に持ち帰った。

 イシュケンベ・チョルバという羊の胃袋のスープは、現地では飲めなかったのだが、とくにクセが強いらしく、高橋由佳利の『トルコで私も考えた』によると、「ニンニクと油でギトギトしている」スープであり、高橋自身は飲めないと断った上で、男性が「夜遅くお酒を飲んだあと」にすするのはこれに限るらしいのだと言っている。

 羊の胃袋とは、いったいどんな味なのだろう?

 

メインはケバブ(肉)で、ピラウはあくまで添えもの
メインはケバブ(肉)で、ピラウはあくまで添えもの

 

 宗教上の理由で豚肉は食べない。牛肉も、気候が飼育に適さないらしく、あまり見かけない。鶏肉や羊肉が多く、とくに鶏肉はよく出た。

 羊はバス移動の際によく見かけた。道路を群れが横断するために、バスを一時停止させられたこともあった。

 

 ケバブは塩が抜群にきいていて、刺激的な味。

 右の写真のなかでとくに美味しかったのは、奥に見える、おわん形に整えられたピラウという米だ。

 細長く(やじり)のような形のインディカ米に、バターやサフランなどをまぜる。

 口の中で香りがむっと立ち、米がほぐれていく。

 

スポンジケーキ(左)、カダイフ(右)
スポンジケーキ(左)、カダイフ(右)

 基本的にはどの料理にも味がしっかりついている。

 デザートにも砂糖をたっぷりまぜているので、ものすごく甘いのだが、疲れたからだにはじわっとしみこんでくる。

 緑色をしたものにはピスタチオがまぜてある。

 

 地中海やエーゲ海沿岸はピスタチオの名産地だ。なめらかで風味豊かである。

 

 ラク酒(写真左)はそのままだと無色透明だが、水を注ぐと白く発色する。むかし理科の実験で扱った石灰水を思い出して笑った。アルコール度数がものすごく高いため、飲むのは注意が必要だが、飲んでみると料理によく合う。

 トルコにはビールも置いてあり、イスラム教国にしては飲酒に寛容であることが分かった。

 どこのレストランにも、アイラン(写真右)というヨーグルト飲料が置いてある。

 現地人は食事中、水を飲むよりもアイランを飲むことが多いらしい。塩入りの「飲むヨーグルト」のようなもので、ケバブのような肉といっしょに食べると、肉をとかすような感じで、とても美味しい。

 ツーリストのなかでひとり何度も頼んでしまうほど舌になじんだ。帰国後もついヨーグルトに塩を入れたくなる。

 

 

 

 

 ペルシャ語で「美しい馬の地」を意味するカッパドキアには、気球が飛んでいる。申しこむと、奇岩や日の出といった景色を高度1000メートルからおがむことができる。 

 キノコのような形をした岩は火山灰が降り積もってできたもので、やわらかく掘り進むことが容易なため、迫害されてきたキリスト教徒の隠れ家となった。


  地下何層にもなるトンネル都市カイマクルは、敵の来襲時、見つからないようにするための非常用住居だったらしい。

 通路は、頭をかがめなければ歩けないほど低い。穿たれた空気孔の奥から風の音がさびしげに鳴る。都市のイメージとはかけ離れているように思う。

 ここに逃げこまなければならなかったキリスト教徒の苦労がしのばれる。

 

 

 まだ暗いうちにホテルを出て、気球が上がるのを待つ。

 さいわいにも1月1日の空は晴れていた。

 気球に乗ると、あっという間に上昇していき、渓谷や、まばらな人家、遠くの街が、見晴らせるようになる。

 アナトリアの山からあたらしい年の太陽がのぼってくる。まぶしいひかりが渓谷を橙色にかがやかせ、人間の乗った小さな気球を黒く染めていく。何か言おうとして待ちかまえていたのに、頭の中から言葉が消えていく。

 運転手は1度谷底すれすれまで気球を下げ、それから1000メートルまでぐんぐん上げた。降りた後には共にジュースを一杯やり、笑いながら写真を撮った。運転手も気持ちが良かったのだろう。

 思えばたくさんの人懐っこい笑顔に出会える旅だった。

 トルコの人の笑顔には、たしかに仕事以上のものがあった。(了)

 


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*本紀行文の、PDFファイル版です。内容は上のものとほぼ同じですが、縦書きで、何枚か写真がちがいます。あわせてお楽しみいただければさいわいです。